第30話 世界の天気です
夜の九時。
放送部屋のモニターに、今夜も、三つの窓が開いている。
レイキャビクの台所。サンティアゴの観測室。アルプスの、雪の見える窓。
組合は、今夜も、枠を世界に広げてくれた。
部屋の後ろには、灯台の四人がいる。
熊谷さんと隊長と、早瀬さんも。
神崎さんの腕には、まだ湿布が貼ってあった。
「こんばんは。全国と、世界の、ダンジョンの天気です」
「まず、昨日の答え合わせです」
ノートを開く。
「一昨日、新しい層の霧は、十四時前後とお伝えしました。新宿第一の第二十一層で、霧が出たのは、十四時六分。予報の真ん中から、六分遅れでした」
「霧が晴れたのは、十七時。これは、予報どおりでした」
「それから、霧の中に、一人を残してしまいました。予報は、入らないでくださいと言うことしかできません。入った人を帰すのは、予報の外のことでした。灯台と、救助隊と、湊さん自身が、帰ってきてくれました」
"六分でも言うのか"
"いつものやつ"
"予報の外のことまで背負わなくていいよ"
"湊くん、今日元気に配信してたぞ"
ヨウンナさんが、自分の言葉で、アイスランドの答え合わせを読んだ。
ルシアさんが、マルティンさんが、続いた。
どの国の霧も、予報の一時間の幅の中に入っていた。
◇
「今日は、もう一つ、お話ししたいことがあります」
私は、祖父の地上のノートの、最後の一冊をカメラの前に置いた。
十五年前の、出現の前の晩のページを開く。
「空が、地面の下へ押し込まれていくようだ」
祖父の字を、そのまま読んだ。
「祖父は、見たとおりにしか書かない人でした。だから、これは、たとえではないのだと、私は思っています」
息を吸う。
まだ、手が少し震えていた。
「ダンジョンの中に天気があるのは、そこにあるのが、地面の下へ押し込まれた、地上の空だからです」
部屋が、しんとした。
コメント欄の流れが、一瞬、止まる。
「十五年前、ダンジョンは、地上の空を吸い込みました。吸い込んだぶん、地面の下に場所が開きました。それが、最初の層です」
「そして、この前、ダンジョンはもう一度吸って、吐きました。吐いたあと、どのダンジョンも、一層ずつ深くなりました」
「一回の観測では、予報になりません。二回でも、まだ足りないと思って、黙っていました」
私は、モニターの三つの窓を見た。
「三回目は、新しい層でした。新宿第一の新しい層には、冷たい海と、温泉の匂いの風が吹いていました。レイキャビクの新しい層には、杉と雨の匂いがしました。日本の山の匂いです」
「押し込まれた空は、押し込まれた場所に、とどまっていません。世界のダンジョンは、地面の下で、一つの空につながっています」
ヨウンナさんが、ゆっくりうなずいた。
字幕が出る前に、何を言ったのか分かった。
イエス、と。
「だから、ダンジョンの天気予報は、世界の天気予報です。一つの国の針だけでは、読めません」
「祖父は、十四年前に、それを知っていました。だから、同じ針を、世界の空をよく見ている友人に送りました。その針が、四つ、今夜ここにあります」
"鳥肌"
"じいちゃん……"
"世界の天気予報、って言った"
"I'm crying in Canada"
"一回じゃ予報にならないって、ずっと言ってたもんな"
早瀬さんが、手元の画面を見て、小さく言った。
「……同接、世界で二百万を超えています」
私は、数字を見なかった。
カメラの向こうの、一人一人の空のことを考えていた。
◇
放送が終わったあと、神崎さんに呼ばれて、組合の屋上に上がった。
雲がない。
都会の空にしては、星がよく見える。
昼間の風が止んで、空気が冷えていた。
「明日も、晴れますか」
「晴れます。朝は冷えます。放射冷却で」
神崎さんが、少し笑った。
湿布の貼ってある腕で、手すりにもたれる。
「雨宮さん。三浦半島の灯台の帰り、車の窓から富士山を見ていたとき、何か考えていましたね」
「……天気予報を、考えていました。続きが、書けなかったんです」
「続き」
「一回しか観測していないことは、予報にならない。祖父の言葉です」
「はい」
「でも、もう、何回も観測しました」
私は、手すりを握った。
「灯台の上で。五合目の雲の海で。霧の中で、サイレンを回し続けていた腕で」
神崎さんが、こちらを向いた。
私は、天気予報士の顔をやめた。
自分の声で、言った。
「明日の天気です。晴れ、ところにより、恋。……当たる自信が、あります」
神崎さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「俺は、第十二層の嵐の日から、ずっと観測していました」
「……え」
「当たりますよ、その予報」
神崎さんが、少しだけ迷ってから言った。
「しずくさん、と呼んでもいいですか」
はい、と答える声が、天気予報の声になっていなかった。
◇
アパートに帰る電車の中で、スマホが震えた。
知らない番号だ。
市外局番は、山梨。
「……雨宮晴之の、お孫さんですか」
年を取った、低い男の人の声だった。
「水野と申します。富士吉田の。富士山の測候所で、晴之さんと一緒でした。全国版を、見ていました」
「水野さん……。祖父の、送り状に」
「ええ。晴之さんの気圧計は、うちの居間に、十四年、掛けてあります」
水野さんは、少し黙った。
「おかしいんです。うちの近くに、ダンジョンなんか、一つもない。魔素計もない。それなのに、あの晩、針が右に振れた」
電車が、トンネルに入る。
窓の外が、真っ暗になった。
「それも、全国の地図が揺れ始めた時刻より、十一分早かったんです」
十一分。
東京の針より、富士吉田の針のほうが、先に振れた。
あの晩、地面の下へ空を吸い込み始めた場所は、どこだったのか。
祖父の気圧計の、すぐそば。
富士山の、足もとかもしれなかった。
↓第3章の番外編「鳴らしたことのない音」(神崎視点。霧の中でサイレンを回した日)
https://note.com/wise_turtle184/n/n9388dc176e93?app_launch=false




