第29話 霧の晴れ間
湊さんのカメラは、白だけを映していた。
浅い息の音。
ときどき、濡れた石を靴がこする音。
"湊くん動くな"
"止まって"
"音のほう"
コメント欄は、同じ言葉で埋まっている。
けれど、手持ちのカメラだ。
湊さんが、コメントを見られるとは限らない。
声を、届けなければならない。
私は、スマホで、中継のスタジオの番号を探した。
プレスリリースの最後に、問い合わせ先が書いてあった。
三回目の呼び出しで、つながった。
「黒川さんを、お願いします。雨宮です」
少し間があって、聞き慣れた声がした。
「……雨宮さん」
「湊さんの耳には、スタジオの声が届いていますか」
「イヤホンは、付けてる。こっちの指示を返す回線がある」
「私の声を、そこにつないでください」
黒川さんは、一秒も迷わなかった。
「つなぐ。すぐつなぐ」
◇
「湊さん。聞こえますか。予報士の、雨宮です」
白い画面の中で、息の音が止まった。
『……天気の、お姉さん?』
「はい。そこから、動かないでください。怪我はありますか」
『ない。ないけど、何も見えない。サイレン、聞こえるけど、どっちか分かんない。響いて、全部から聞こえる』
霧の中の音は、回り込む。
広い層の壁に跳ね返って、方角がぼやける。
「湊さん。上を見てください。真上の白と、足元の白。どちらが明るいですか」
カメラが、ゆっくり上を向いた。
『……上。上のほうが、少し明るい』
霧は、低いところにたまる。
一昨日の、富士山の五合目。足の下に、雲の海があった。
霧には、てっぺんがある。
「近くに、高いところはありますか。大きな岩や、坂」
『岩……ある。手、触ってる。でかい』
「ゆっくり、登ってください。手と足を、三つ付けたまま。霧は、上のほうが薄いはずです」
画面が揺れる。
手袋が岩をつかむ音。荒い息。
放送部屋の誰も、喋らなかった。
早瀬さんが、両手を口に当てている。
白が、少しずつ、薄くなった。
灰色になり、青みを帯びて——。
ふっと、画面が開けた。
『……うわ』
湊さんのカメラが、白い海の上に出ていた。
見渡すかぎり、平らな霧の海。
その上に、天井の下の灰色の雲。
そして、霧の海の真ん中から、一本の光の柱が、まっすぐ雲へ伸びていた。
『光……光の柱が見える』
投光器だ。
階段の下から、上へ向けた、あの一台。
霧の中では、光は届かない。
けれど、霧の上からなら、見える。
灯台の光だ。
◇
「悠真さん」
私は、美羽さんの配信のコメント欄に打った。
「階段を、霧の上に出るところまで登ってください。上から、湊さんの明かりを探してください」
悠真さんは、返事をしなかった。
ただ、ロープの端を神崎さんの腰に結んで、階段を駆け上がった。
霧の海の上に、悠真さんの頭が出る。
美羽さんが、追いかけて階段を駆け上がり、カメラを霧の上に出した。
『……いた』
悠真さんの声だった。
霧の海の遠く、左の奥に、小さな光が一つ、岩の上で揺れている。
湊さんのヘッドライトだ。
悠真さんは、手帳に方角を書いて、階段を下りた。
ロープを手繰りながら、白い壁の中へ入っていく。
神崎さんは、片手でロープを持ち、片手でサイレンを回し続けた。
十五時十分。
祖父の気圧計の針が、ゆっくり、真ん中へ戻ってきた。
「新しい層が、吸い終わりました。上の層の空気は、もう流れ込みません。霧は、ここから、上のほうから薄くなります。十七時ごろには、晴れます」
十五時二十分。
霧の中から、悠真さんの声が聞こえた。
『見つけた。湊、無事』
放送部屋で、熊谷さんが、杖の上に額をつけた。
長い、長い息を吐いていた。
十五時四十分。
ロープを手繰って、悠真さんが白い壁の中から戻ってきた。
後ろに、湊さんがいる。悠真さんの上着の裾を、しっかり握っていた。
鳴海さんが、駆け寄って、湊さんの肩をつかんだ。
何か言おうとして、言葉にならないまま、頭を下げた。
悠真さんにも、救助隊の人たちにも、神崎さんにも。
神崎さんが、やっと、ハンドルから手を離した。
サイレンの唸りが、ゆっくり低くなって、消える。
両腕が、肩から震えていた。
大河さんが、その背中を、無言で叩いた。
美羽さんのカメラが、少し揺れている。泣いているのかもしれない。
私は、マイクの前で、何も言えなかった。
画面の向こうの、震える腕を見ていた。
霧の夜に、音を鳴らして船を待った灯台守の、息子の腕だった。
◇
十七時。
第二十一層の霧が、晴れた。
投光器の光が、もう白く跳ね返らない。
濡れた黒い床が、ずっと遠くまで見える。
美羽さんが、カメラを床に近づけた。
『……雨宮さん。床、見てください』
黒い石の上に、小さな、薄い緑の点が、いくつも散らばっていた。
近づくと、針の先ほどの、柔らかい芽だった。
苔だ。
霧の水を吸って、新しい層に、最初の苔が芽を出していた。
モニターの小さな窓の中で、ヨウンナさんが手を振った。
朝の五時の霧に巻かれた、若い三人の探索者を、彼女は自分の声で帰していた。
上を見なさい、と言ったのだそうだ。
向こうの床にも、緑の芽が出ている、と書いてきた。
◇
中継は、湊さんが階段の下に戻った直後に、打ち切られていた。
夕方には、スポンサーの名前が、中継のページから一つ残らず消えた。
霧で真っ白な画面の上に「全層、快晴」と光っている切り抜きが、世界中に回っていた。
夜、広告代理店が、短い発表を出した。
中継の打ち切り。
プロデューサーの交代。ストラトスとの契約の見直し。
鳴海さんは、地上に戻ってすぐ、自分の配信で頭を下げた。
『天気、初めて見ました。すみませんでした。湊を帰してくれて、ありがとうございました』
夜の十時過ぎ、知らない番号から、メッセージが届いた。
黒川です。
つないでくれと言われたとき、初めて、数字ではないものを見た気がします。
僕は、番組を降ります。
ありがとうございました。
私は、返事を打ちかけて、やめた。
代わりに、机の上の気圧計を見た。
針は、真ん中の、赤い線のところで、静かに止まっていた。
髪の毛一本ぶんも、震えていなかった。




