第28話 霧笛
解禁の日の朝。
救助隊と灯台は、五時に新宿第一へ入った。
私は、放送部屋の机にいる。
全国版は、朝から流し続ける。
隣に早瀬さん。部屋の隅に、熊谷さん。
モニターの小さな窓には、レイキャビクの台所が映っている。
向こうは、まだ前の日の夜の十時だ。
ヨウンナさんは、ガウンを着て、湯気の立つカップを持っていた。
「霧の時刻まで、起きています。うちの国の若い人たちも、新しい層を見たがっているので」
祖父の気圧計は、机の真ん中に置いた。
針の先は、今朝は、右に寄っている時間のほうが長い。
◇
十一時過ぎ、美羽さんの配信が、第二十一層の階段の下から始まった。
柵の内側に、投光器が四台並んでいる。
一台は、まっすぐ上へ向けてあった。
光の柱が、闇の中を昇って、天井の下の雲を丸く照らしている。
神崎さんの足元に、赤い箱が置いてあった。
横に、手回しのハンドルが付いている。
ワゴンに積んでいた、サイレンだ。
美羽さんのスマホでは、全国版を流してもらっている。
放送部屋の私の声は、それで階段の下まで届く。
十一時半、中継の出演者の欄が、また一つ減った。
六か所のうち、四か所の配信者が、朝までに出演をやめていた。
残っているのは、新宿第一の鳴海さんの組と、もう一組だけだ。そのもう一組も、正午の十分前に、地上で配信を始めた。
霧の予報を見たので、地上から中継を見ます。
画面に、そう書いてあった。
◇
正午。
中継が始まった。
スタジオの映像が、画面の端に小さく映る。
黒川さんが、笑顔で手を振っていた。
画面の上には、ストラトスの大きな文字。全層、快晴。
鳴海さんの組は、四人だった。
第二十一層の階段を下りてくると、投光器の前で、神崎さんたちに気づいた。
『あ、灯台の人? 心配性のパーティーだって聞いてる』
鳴海さんは、明るい声で笑った。
悪気のない笑い方だった。
同接は、もう十万を超えている。
『十三時までに、ここへ戻ってください』
隊長が言った。
『はいはい。霧が出たら戻りますって』
四人は、光るテープの道を歩き出した。
テープの終わりを過ぎても、止まらない。
ヘッドライトの小さな光が四つ、闇の奥へ、遠ざかっていった。
"戻れって"
"テープの先、まだ誰も入ってないぞ"
"ストラトスの快晴を信じてるのか"
"お姉さんの予報、十四時前後だぞ"
◇
十三時。
鳴海さんたちは、戻らなかった。
鳴海さんの配信の画面には、濡れた黒い床と、ヘッドライトの輪だけが映っている。
コメント欄が、「戻れ」で埋まっていく。
『霧なんて、出てないじゃん』
鳴海さんが、胸のカメラに向かって言った。
中継の画面は、鳴海さんの胸のカメラと、もう一台の手持ちのカメラの映像を、交互に映している。
もう一台を持っているのは、いちばん若いメンバーの、湊さんだ。
十三時半。
針が、右に寄ったまま、戻ってこない時間が増えていく。
一分。三分。七分。
早瀬さんの画面の、四つの針の線が、そろって右へ傾いていた。
レイキャビクの台所で、ヨウンナさんが、カップを置いた。
「……来ます」
十三時五十二分。
祖父の気圧計の針が、右へ振れた。
そして、そのまま、戻らなかった。
「階段の上から、風が来ます」
私は、全国版で読み、同じ言葉を、鳴海さんの配信のコメント欄にも打った。
「新しい層が、息を吸い始めました。鳴海さん、今すぐ戻ってください。テープの道を、走らずに、戻ってください」
◇
美羽さんのカメラの向こうで、神崎さんが、階段を振り返った。
『……背中から、風が来た。暖かい』
階段から、上の層の空気が流れ落ちてくる。
投光器の光の中で、床の上に、薄い白いものが這い始めた。
十四時六分。
白が、膨らんだ。
床から、腰の高さへ。
腰の高さから、頭の上へ。
投光器の光が、目の前で白い壁にぶつかって、跳ね返った。
画面が、真っ白になる。
"見えない"
"何も見えない"
"これが霧!?"
"一メートルどころじゃない"
鳴海さんの画面も、白かった。
ヘッドライトの光が、顔のすぐ前で白く滲んでいる。
『え、ちょ、待って、テープどこ』
『あっち! あっち戻れば』
『走るな、湊!』
画面が大きく揺れた。
足音。誰かの叫び声。
スタジオの小さな窓の中で、黒川さんの笑顔が、止まっていた。
画面の上の「全層、快晴」の文字だけが、そのまま光っている。
◇
「神崎さん」
私は、マイクに言った。
「鳴らしてください」
神崎さんが、赤い箱の前に膝をついた。
ハンドルを握る。
回す。
低い唸りが、白い闇の中に響いた。
最初は、獣の喉の奥の音のように。
それから、だんだん高く、長く。
霧笛の音だった。
「鳴海さん。止まってください。歩き回らないでください」
私は、鳴海さんの配信のコメント欄に、同じ言葉を打ち続けた。
「明かりを消さないで。音を聞いてください。音のするほうが、階段です」
サイレンの唸りが、上がって、下がる。
鳴海さんの画面の中で、揺れていたヘッドライトが、止まった。
『……聞こえる』
鳴海さんの、震える声。
『音、聞こえる。右のほう。みんな、止まれ、止まって』
熊谷さんが、杖を握りしめて、画面を見ていた。
何も言わない。
ただ、口が、小さく動いていた。動くな、と。
◇
十四時四十分。
白い壁の中から、最初の一人が、手探りで出てきた。
鳴海さんだった。
投光器の真下で、神崎さんがその腕をつかんだ。
二人目。三人目。
三人とも、サイレンの音のほうへ、一歩ずつ歩いてきた。
神崎さんは、ハンドルを回し続けていた。
腕が、もう震えている。
大河さんが代わろうとしても、首を振った。
『湊は』
鳴海さんが、振り返った。
白い闇の中を、見回す。
『湊が、いない』
中継の画面が、湊さんの手持ちのカメラに切り替わった。
スタジオの誰かが、慌てて切り替えたのだろう。
映っているのは、白だけだった。
白の中で、湊さんの、浅い息の音だけが聞こえていた。




