第27話 霧の予報
「移流霧、ですか」
朝の放送部屋で、早瀬さんが、私のノートをのぞき込んだ。
昨日の夜に引いた、反り上がる線のページだ。
「地上の霧なら、うちの昔の数値予報でも出せました。気温と、湿度と、風。それだけあれば」
「新しい層には、魔素の数字しかありません。気温も湿度も、誰も測っていませんでした」
「……雨宮さんが、測りました」
早瀬さんは、ノートパソコンを開いた。
第二十一層の、気温四度、湿度九十パーセント以上。
第二十層の大広間の、気温と湿度。こちらは、毎朝の観測で、組合に記録が残っている。
「二つの層の空気が混ざったら、どうなるか。それなら、計算できます」
キーを叩く音が、しばらく続いた。
画面に、升目の地図が出る。
第二十一層の床の上が、階段の口から順に、白く塗られていく。
「霧です。階段から流れ込んで、一時間で、層のほとんどを埋めます」
早瀬さんは、画面から顔を上げた。
「今日、観測版を出します。新しい層の欄に、霧のおそれ、と書きます。見た人の名前を付けて」
◇
昼過ぎ、海の向こうから、次々に連絡が届いた。
レイキャビクのヨウンナさん。
こちらの新しい層は暖かいので、冷たい空気が上から流れ込んで、霧になります。湯気の立つお風呂に、冬の風が入ったときのように。
サンティアゴのルシアさん。
針が右に寄る時間を、毎日測っています。あなたの線と、同じ形です。
スイスの観測所の、マルティンさん。
資料室の気圧計を、今は観測室の机に置いています。右に寄る時間は、昨日、二十二分でした。
どの国の針も、同じ形の線を描いている。
どの国の新しい層も、冷たいものと、湿ったものが、隣り合っている。
夕方、隊長が、熊谷さんと神崎さんを連れて放送部屋に来た。
ホワイトボードに、第二十一層の階段のまわりの図を描く。
「中継が強行されたら、救助隊は第二十一層の階段の下で待つ。柵の内側だ。霧が来ても、階段からは離れない」
「灯台も、そこに付きます」
神崎さんが言った。
「ワゴンのサイレンを、持って下ります。投光器も、ありったけ」
熊谷さんが、杖の先で床を一度叩いた。
「霧の中で迷ったやつは、歩き回る。それがいちばん悪い。動かずに、音を待て。しずくちゃんの口から、そう言っとけ」
十四年前、坑道で最後尾の仲間を失った人の言葉だった。
熊谷さんは、それ以上は何も言わなかった。
◇
夜の九時。
今夜の放送部屋のモニターには、地図の横に、三つの小さな窓が開いている。
レイキャビクの台所。サンティアゴの観測室。アルプスの、雪の見える窓。
組合が、今夜だけ、全国版の枠を世界に広げてくれた。
「こんばんは。今夜は、全国と、世界の、ダンジョンの天気です」
私は、昨日の雲の海と、反り上がる線の話をした。
新しい層が、息をし始めていること。
右に寄る時間が、日ごとに長くなっていること。
「明日の午後、新しい層は、大きく一度、息を吸います。そのとき、上の層の空気が流れ込んで、霧になります」
地図の、世界の新しい層の印を、一つずつ白く塗っていく。
「明日、十四時前後、前後一時間。世界中の新しい層で、濃い霧。視界は、一メートル以下です」
"世界中!?"
"一メートルって手元しか見えないだろ"
"苔ないから明かりもないんだよな"
"中継の時間とモロかぶり"
ヨウンナさんが、自分の言葉で読んだ。
字幕が出る。
アイスランドの新しい層は、明日の朝五時前後、濃い霧。
ルシアさんが、マルティンさんが、それぞれの国の言葉で続いた。
一人ずつ、自分の名前を言ってから。
最後に、早瀬さんが画面に入った。
「ソラミル観測版です。新しい層は、霧のおそれ。観測は、雨宮、ヨウンナ、ルシア、マルティン。解析は、早瀬です」
「新しい層に、入らないでください。入る場合は、十三時までに、階段まで戻ってください」
「もし、霧の中で階段を見失ったら、歩き回らないでください。その場で止まって、明かりを消さずに、音を待ってください。階段の下で、救助隊と灯台が、音を鳴らします」
熊谷さんに言われたとおりに、読んだ。
部屋の隅で、熊谷さんが、小さくうなずいた。
"ソラミルも霧って言ってる"
"名前が四か国分並んでるの胸熱"
"ストラトスは?"
"ストラトス、今見たら「全層快晴」のまま"
ストラトスの数字は、変わらない。
魔素の空は、明日も静かだからだ。
◇
アパートへ帰る電車の中で、氷室さんの投稿が流れてきた。
アルファは、明日の世界同時中継への出演を、お断りしました。
理由は、天気です。
僕たちは、明日は地上にいます。
短い投稿だった。
コメント欄には、もう何千もの返事がついている。
夜の十一時過ぎ、出演予定の海外の配信者が、一組、また一組と、出演を見合わせると書き込み始めた。
どれも、短い文だった。
霧の予報を見たので。
日付が変わる少し前、中継の公式アカウントが、声明を出した。
明日の中継は、予定どおり正午に開始します。
気象監修は、ストラトスです。
民間の予報士の、一回の観測に基づく予測よりも、世界最大の気象AIの解析を信頼します。
プロデューサー 黒川
その下に、鳴海さんの短い投稿が引用されていた。
俺は行く。天気とか、見たことないんで。
私は、机の上の気圧計を見た。
針の先が、右へ寄る。
今夜は、なかなか戻ってこない。




