第26話 晴れの日
朝の五時、白いワゴンがアパートの前に止まった。
東の空が、うっすら明るい。
雲は一つもない。
放射冷却で、空気が冷えている。風も、ほとんどない。
「おはようございます。……本当に、晴れましたね」
「晴れの日を、探しておくって言いましたから」
神崎さんが、少し笑った。
今日は、紺のシャツの上に、薄い上着を着ている。
私は、鞄の中の気圧計を確かめてから、助手席に乗った。
東名高速を、西へ走る。
この道を走るのは、二度目だ。
一度目は、祖父のノートを探しに行った朝だった。
◇
御殿場の町を抜けて、山へ向かう細い道を登る。
道の両側の木が、だんだん低くなっていく。
富士山の、御殿場口の五合目。
駐車場に車を止めて外に出ると、空気が冷たくて、澄んでいた。
見上げると、富士山が、すぐそこにあった。
灰色の砂の斜面が、空まで続いている。
笠雲は、かかっていない。
小学生のころ、一度だけ、祖父とここへ来た。
祖父は、頂上のほうを指さして、あそこで十年、毎日空を見ていた、と言った。
冬は、風で建物ごと揺れた。夜は、星が近すぎて眠れなかった、と。
あの日の祖父は、ずっと頂上ではなく、雲を見ていた。
山のどこに雲が生まれて、どこへ流れるのか。
私は、その横顔ばかり見ていた。
振り返って、息をのんだ。
足の下が、真っ白だった。
さっき通ってきた御殿場の町が、どこにもない。
ふもと一面に、白い雲の海が広がっている。
「……雲海だ」
神崎さんが、つぶやいた。
雲の海の上に、遠くの山の頭だけが、島のように浮かんでいる。
朝日が当たって、白い表面が、少しだけ金色に光っていた。
スマホが震えた。
母だ。
「しずく、今どこ? こっちは霧で真っ白よ。洗濯物、干せないわ」
「お昼までには晴れるよ。今、その霧を、上から見てる」
母は、何それ、と笑って電話を切った。
◇
ベンチに並んで座って、神崎さんの持ってきた水筒のお茶を飲んだ。
温かい。
「あの雲の海は、どうしてできるんですか」
神崎さんが聞いた。
私は、ふもとの白を指さした。
「夜のうちに、地面が冷えるんです。晴れて風のない夜ほど、よく冷えます。冷えた地面の上で、湿った空気が冷やされて、霧になります」
「それが、上から見ると雲の海に」
「はい。霧は、低いところにたまります。だから、盆地の町は、朝、霧に沈むんです」
話しながら、雲の海の端を見ていた。
遠くの尾根の切れ目から、白い霧が、こちら側へゆっくりあふれ落ちている。
滝のようだ。
暖かい側から、冷たい谷の底へ、湿った空気が流れ込んでいく。
冷えた床。
湿った空気。
流れ込む、暖かい風。
手の中で、水筒のふたが止まった。
「……雨宮さん?」
第二十一層の床は、四度だった。
湿度は、九十パーセントを超えていた。
あそこは、毎晩冷える盆地の底と、同じだ。
そこへ、上の層の、暖かく湿った空気が流れ込んだら。
霧の教科書の、いちばん最初のページに載っている。
暖かく湿った空気が、冷たい面の上に流れ込むと、下から冷やされて霧になる。
海の上で起きれば海霧。陸の上なら、移流霧。
流れ込むきっかけは、一つしかない。
新しい層が、息を吸うときだ。
「新しい層は……息を吸ったら、霧に沈みます」
口に出すと、背中が冷たくなった。
「苔の明かりがない層で、濃い霧が出たら、ヘッドライトの光は一メートル先で白く跳ね返ります。光るテープも見えません。階段がどこにあるのか、誰にも分からなくなります」
神崎さんは、黙って雲の海を見ていた。
しばらくして、低い声で言った。
「霧の夜は、灯台の光が届かないんです」
「え」
「父が言っていました。霧の夜は、どんなに強い光を回しても、船からは見えない。だから、音を出すんだって。霧笛です」
神崎さんは、水筒をベンチに置いた。
「霧笛は、もう国中で廃止になりました。でも、うちのワゴンの後ろには、救助の合図用に、手回しのサイレンを積んであるんです。パーティーの名前を決めたとき、霧笛の代わりに買いました。まだ一度も、鳴らしたことはありません」
雲の海の上を、朝日がゆっくり昇っていく。
霧の端が、少しずつ、薄くほどけ始めた。
◇
お昼前、雲の海はすっかり消えた。
ふもとの御殿場の町が、日の光の中に戻ってくる。
母は、きっと今ごろ洗濯物を干している。
帰りの車で、私は、ほとんど喋らなかった。
神崎さんも、何も聞かなかった。
ただ、高速に乗る前に、一度だけ言った。
「雨宮さんの晴れの日に、来られてよかったです」
「……私もです」
それだけで、また黙った。
窓の外を、足柄の山が流れていく。
運転席の神崎さんの手は、ハンドルの上で、ずっと同じ位置にある。
慎重な人の運転だ。車線を変えるたびに、必ず、鏡を二回見る。
この人の後ろなら、霧の中でも歩ける気がした。
そう思ってから、少し慌てて、窓の外に目を戻した。
黙っているのが、少しも苦しくなかった。
◇
夜、アパートの机で、早瀬さんが送ってくれた四つの針の記録を開いた。
針が右に寄る時間は、日ごとに長くなっている。
新しい階段が開いた次の日は、一回が数分。
今日は、二十分を超えていた。
ノートに、点を打っていく。
六日分の点を結ぶと、線は、まっすぐではなく、少しずつ反り上がっていた。
この反りのまま、伸ばしていくと。
右に寄ったまま、戻らなくなる時刻。
新しい層が、深く、大きく、一度、息を吸う時刻。
線の先に、日付を書き込んで、ペンが止まった。
解禁の日。
世界同時の生中継が始まって、二時間ほどあとの、午後二時前後。
新しい層は、そのとき、霧に沈む。




