第25話 ガラスの筒
「雨宮さん、久しぶりだね」
組合の一階のロビーで、黒川さんが立ち上がった。
前と同じ、感じのいい笑顔だ。
スーツの襟に、広告代理店の小さなバッジが付いている。
隣で、隊長が腕を組んでいた。
朝いちばんに、私を呼びに来たのは隊長だ。
「告知、見てくれたかな。新しい層の、世界同時の生中継」
「見ました」
「単刀直入に言うね。気象監修に、雨宮さんの名前も並べてほしいんだ。ストラトスと、雨宮さん。AIと予報士の、ダブル予報」
ダブル予報。
前に、同じ言葉を、同じ人から聞いた。
「中継は、延期できますか」
「日程は動かせない。スポンサーと、世界六か所の中継枠が決まってる」
「なら、名前はお貸しできません」
黒川さんの笑顔が、少しだけ固くなった。
「ストラトスは、快晴だって言ってるんだよね。数字も、ちゃんと出てる」
「ストラトスは、魔素の空を見ています。新しい層にあるのは、地上の空です。魔素の数字には、出ません」
「じゃあ、雨宮さんの予報は?」
「まだ、出せません。出せるようになったら、全国版で読みます。中継を見る人にも、見ない人にも、同じように」
黒川さんは、しばらく私を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「僕もね、あれから少しは勉強したんだよ。苔の色の話とか」
「……」
「でも、数字は待ってくれない。じゃあ、また」
黒川さんの背中を、目で追う。
あの日も、黒川さんは笑顔だった。
予報は数字にならない、と言ったときも。
悪い人ではないのだと思う。
ただ、数字の出るほうを、まっすぐ見てしまう人なのだ。
見ていない空にも、数字があれば「快晴」と書けてしまう。
黒川さんが自動ドアの向こうに消えると、隊長が口を開いた。
「さっき、上で決まった。解禁は、予定どおりの日の正午だ」
「調査の結果は」
「明かりと、帰り道の印を置けば入っていい、という条件を付けた。それしか付けられなかった」
隊長は、苦い顔をした。
「止めるのは、あんたの予報だけだ」
◇
夕方の五時、放送部屋で、ヨウンナさんと動画の通話をつないだ。
向こうは、朝の八時だ。
画面に、白い髪を短く切った女の人が映った。
台所の窓の外に、低い灰色の空が見える。
テーブルの上に、私のと同じ気圧計が置いてある。
「はじめまして、シズク」
翻訳の字幕が、少し遅れて画面の下に出る。
声は、思っていたより低くて、温かかった。
隣の椅子には、早瀬さんが座っている。
ノートパソコンに、四つの針の記録を並べていた。
東京、レイキャビク、サンティアゴ。それから、スイスの定点カメラの映像から、早瀬さんが読み取った針の動き。
「四つとも、震え方が同じです」
早瀬さんが、画面を指した。
「右へ少し、左へ少し。始まったのは、みんな、新しい階段が開いた次の日から。右に寄る時間が、日ごとに少しずつ長くなっています」
ヨウンナさんが、ゆっくりうなずいた。
「新しい層が、自分で息をし始めた。私は、そう思います」
ヨウンナさんは、テーブルの上の気圧計を、指で軽く二回叩いた。
祖父と、同じ癖だった。
「その叩き方……」
「アマミヤさんに教わりました。三十年以上前、日本の山の観測所の集まりで」
ヨウンナさんは、少し笑った。
「みんなで山道を歩いたとき、彼だけ、ずっと空を見て遅れていました。雲の名前を、一つずつ手帳に書いて。私が待っていると、『空は待ってくれますが、雲は待ってくれません』と言いました」
祖父の言いそうなことだった。
画面越しに、二人で少し笑った。
◇
「シズク。裏ぶたを、開けたことはありますか」
「一度だけ。祖父の字を見つけたときに」
「私は、ありません。アマミヤさんの手紙に、開けるなと書いてありました」
ヨウンナさんは、小さなドライバーを持ち上げた。
「でも、今日は、二人で開けましょう」
私も、鞄からドライバーを出した。
画面の向こうと、こちらで、同時にねじを回す。
裏ぶたを外す。
歯車と、細い銅線と、小さなガラスの筒。
前に見たときと、同じだ。
ヨウンナさんが、筒をそっと傾けた。
「筒の下に、紙が巻いてあります。日本語です。読めません」
私も、自分の筒を傾けた。
前に見たときは、気づかなかった。
筒の下側に、細く切った紙が巻きつけてある。
祖父の、鉛筆の字だった。
新宿第一 第一層 苔
筒の中に、茶色く乾いた、小さなかけらが入っている。
枯れた葉のように見えていたものが、苔だった。
「……苔です。新宿第一の、第一層の苔」
字幕が出るのを待って、ヨウンナさんが目を閉じた。
「だから、私の針は、ダンジョンのそばでしか動かなかったのですね」
銅線は、筒に何重にも巻かれて、針の軸のほうへ伸びている。
苔は、魔素の流れを感じる。
祖父は、その苔の感じたものを、針に伝える仕掛けを作ったのだ。
苔のない層で、この針が震えていた理由が、やっと分かった。
苔は、無かったのではない。
私が、首から下げて、持って入っていた。
「十四年も前の、苔……」
早瀬さんが、かすれた声で言った。
「乾いても、まだ、感じているんですね」
◇
通話を切ったあと、私は、しばらく筒を見ていた。
祖父が第一層で苔を摘んだのは、たぶん、出現の年だ。
まだ、ダンジョンの中に何があるのか、誰も知らなかったころ。
裏ぶたを閉めて、窓の外を見る。
西の空が、きれいに晴れていた。
昨日の夜、地上の天気図で見たとおりだ。高気圧が、ゆっくり東へ進んでくる。
明日は、関東も、静岡も、一日よく晴れる。
風も弱い。
スマホを出して、神崎さんに打った。
晴れの日を、見つけました。
明日です。
返事は、すぐに来た。
行きましょう。どこがいいですか。
私は、机の上の気圧計を見た。
筒の中の、祖父の苔。
祖父が、毎朝、縁側から見ていた山。
富士山が、見たいです。
そう打って、送った。




