第24話 苔のない層
朝の六時、新宿第一の入口に集まった。
救助隊が六人。隊長が先頭に立つ。
灯台の四人。神崎さん、大河さん、悠真さん、美羽さん。
それから、私。
美羽さんが、胸のカメラの電源を入れた。
今日の調査は、美羽さんの配信で流す。地上の電話は、下までは届かない。
「並びを言う。救助隊、雨宮さん、灯台。最後尾は神崎」
隊長が言うと、神崎さんが小さくうなずいた。
熊谷さんの言ったとおりの並びだった。
◇
第十九層までは、南の階段を使った。
上の層の苔は、すっかり黄緑に戻っている。
ほんの数日前まで真っ白だったのが、嘘のようだ。
第二十層の大広間に着いたのは、十一時前だった。
あの土曜日、画面の中で、神崎さんの背中が白い渦に消えた場所だ。
今日は、風もない。
東の窪地の底に、組合の柵が立っていた。
柵の向こうに、下りの階段が口を開けている。
石の段は、角が鋭い。
誰の足にも、まだ削られていない段だ。
隊長が柵の鍵を開ける。
私は、鞄から祖父の気圧計を出して、首から紐で下げた。
針の先は、地上にいたときより、はっきり震えている。
◇
階段を下りきったところで、全員の足が止まった。
暗い。
苔の明かりが、一つもない。
どの層にも、壁や床に苔が生えている。
ダンジョンの中が昼のように見えるのは、苔の光のおかげだ。
その光が、ここには、どこにもない。
ヘッドライトの輪の中に、濡れた黒い石の床が浮かぶ。
輪の外は、何も見えない。
吐く息が、白かった。
「寒っ……」
大河さんが、槍を持ち直した。
救助隊の人が、大きな投光器を三脚に据えて、上へ向ける。
光の柱が、闇の中をまっすぐ昇っていく。
ずっと上で、何かに当たって、ぼんやりと広がった。
天井ではない。
灰色の、薄い、平たい層。
雲だ。
天井の下に、雲がかかっている。
苔の層の天井に、こんなものを見たことはない。
"え、雲?"
"ダンジョンの中に雲??"
"苔ないとこんな暗いのか"
"お姉さん、魔素計は"
コメントを見て、私は腰の魔素計を見た。
数字は低い。揺れもほとんどない。
ストラトスが「快晴」と読む数字だ。
◇
魔素計では、この空は読めない。
苔も無い。
なら、地上の予報士の道具で読むしかない。
鞄から、筒の形の乾湿計を出す。
ゼンマイを巻くと、中の小さな扇風機が回り出す。温度計に風を当てて、正しい気温と湿度を測る道具だ。
予報士の試験のとき、何度も使った。
「気温、四度。湿度は、九十パーセントを超えています」
地上は、今朝、十八度あった。
冷蔵庫の中と同じくらいの空気が、この広い層を満たしている。
床に手をつく。
石が、冷たく濡れていた。
空気の中の水が、冷えた石の上で露になっている。
そのとき、闇の奥から、かすかに風が吹いてきた。
頬に当たる。冷たい。
匂いがした。
潮の匂い。
それから、温泉の湯気のような、卵の殻のような匂い。
「……海の匂いがする」
美羽さんが、小さな声で言った。
ダンジョンの中で、海の匂いがするはずはない。
新宿の地下だ。海は、ずっと遠い。
悠真さんが、手帳を開いた。
赤い糸を一本、指で垂らして、風上を確かめている。
糸は、闇の奥から、ゆっくり、階段のほうへなびいていた。
「……奥から、吹いてる」
悠真さんが、ぽつりと言った。
大河さんが目を丸くする。月に一回のはずだろ、と言いたそうな顔だった。
◇
調査は、二時間で切り上げた。
階段から五十歩離れただけで、振り返るともう階段が見えなかった。
苔の明かりがない層では、帰り道の目印が何もない。
悠真さんが、通った道に、光る細いテープを貼っていった。
「苔が生えるまでは、ここは迷路と同じだ」
隊長が、闇を見たまま言った。
「明かりと、帰り道の印。それが無い層に、人を入れたくない」
最後尾の神崎さんは、何度も後ろを振り返っていた。
階段を上りきるまで、一度も、列から目を離さなかった。
私は、階段の途中で、一度だけ下を振り返った。
階段の下は、もう、ただの闇だった。
苔の無い層。
地上と同じ道具でしか測れない空。
冷たく湿った、海の匂いの空気。
ここにあるのは、魔素の空ではない。
本物の、地上の空だ。
ただ、どこの空なのかが、分からない。
第二十層の大広間に戻ると、苔の黄緑の光が、目にしみるほど明るかった。
救助隊の人たちが、柵の鍵を閉めている。
私は、壁の苔に手を当てた。少し、温かい気がした。
「雨宮さん」
神崎さんが、隣に来ていた。
ヘッドライトを消した顔が、苔の光で、薄い緑色に見える。
「下で、ずっと気圧計を握っていましたね」
「……見えないのが、怖かったんです。空が見えないと、私は、何も言えないので」
「でも、湿度を測って、匂いを嗅いで、糸を見て。ちゃんと、読んでいました」
神崎さんは、闇のほうの階段を振り返った。
「最後尾は、前の人の背中が全部見えるんです。雨宮さんの背中は、一度も迷っていなかった」
顔が熱くなる。
縦穴の風のせいには、できない。今日の大広間には、風がない。
◇
夜の九時、全国版で、見てきたことをそのまま読んだ。
苔がないこと。気温四度、湿度九十パーセント以上。天井の下の雲。奥から吹く冷たい風。
「新しい層の予報は、まだ出せません。けれど、新しい層は、魔素の数字だけでは読めない空です。それだけは、お伝えできます」
放送が終わって、パソコンを開く。
ヨウンナさんから、メールが届いていた。
今日の全国版を見ました。
私も、昨日、こちらの新しい層に入りました。苔がなくて暗いのは、同じです。
でも、こちらの新しい層は、暖かいのです。
十五度ほどあって、湿っていて、雨の匂いがします。
濡れた杉の林の匂いです。
この国に、杉の林はありません。
私はこの匂いを、一度だけ嗅いだことがあります。
三十年以上前、日本の山の観測所の集まりに行ったとき。アマミヤさんと歩いた、山の道で。
私は、画面から顔を上げた。
日本の新しい層には、冷たい海と、温泉の匂いの風。
アイスランドの新しい層には、暖かい杉と、雨の匂いの空気。
押し込まれた空は、押し込まれた場所に、とどまってはいなかった。




