第21話 レイキャビクの針
夜の九時。全国版が始まる。
画面の地図は、静かだった。
上の層の苔は、どこも黄緑に戻りつつある。
いちばん深い層の奥には、昨日開いたばかりの階段の印が、全国に一つずつ並んでいる。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」
いつもの順番で読んでいく。
新宿第一、上の層はおおむね穏やか。
富良野、北見さんの予報で、第三層の北の縦穴のそばにだけ弱い風。
新しい層には、組合の柵が立っている。
そこの予報は、まだ出せない。
誰も、新しい層の空を見ていないからだ。
"今日は平和だな"
"お姉さんの声が落ち着いてると安心する"
"新しい層の予報はいつ出るの"
「新しい層は、見ていない空です。見ていない空の予報は、出せません。分かったら、この時間にお伝えします」
机の端のパソコンには、夕方のメールが開いたままだ。
アイスランドの予報士の、短い英文。
Our needle swung right, too.
こちらの針も、右に振れた。
その一行のことは、放送では言わなかった。
一通のメールで話すことではない。確かめてからだ。
◇
放送を終えてアパートに帰ると、私は辞書と翻訳を行き来しながら、返事を書いた。
英語の文を書くのは、予報士の試験の勉強以来だ。
メールをありがとうございます。新宿第一ダンジョンの予報士、雨宮しずくです。
こちらの針も、五日前の夜に右へ振れました。
あなたの言う「針」は、どんな計器の針ですか。
送信して、部屋の電気を消す。
アイスランドは、日本の九時間遅れだ。
向こうは、まだ昼過ぎのはずだった。
アパートの机の上で、祖父の気圧計の針が、真ん中に止まっている。
眠れないまま、天井を見た。
地面の下へ押し込まれた空は、日本の空だけではなかった。
なら、その空を見ていた針も、日本の一本だけではないのかもしれない。
枕元でスマホが震えた。
神崎さんからだ。
今日は、ありがとうございました。
岬の灯台、また行きましょう。次は、雨宮さんの晴れの日に。
画面を見たまま、少し笑う。
昼間の灯台の上の風が、まだ頬に残っている気がした。
はい、とだけ返して、もう一度、画面を伏せる。
海の向こうの針のことは、まだ書かなかった。
何の針なのかも、分からないのだから。
◇
朝の六時。
枕元のスマホに、返事が届いていた。
写真が、一枚付いている。
開いた瞬間、息が止まった。
古い真鍮の、丸い枠。
白い文字盤に、細い黒い針。
文字盤のてっぺん、真ん中の目盛りに、赤い短い線が一本だけ引いてある。
私は、ベッドから起きて、机の上の気圧計を見た。
同じところに、同じ赤い線がある。
祖父が、細い筆で引いた線だ。
子どものころ、何の線かと聞いたら、「空がまっすぐなところ」と言われた。
写真は、もう一枚あった。
気圧計の裏側だ。
裏ぶたに、黄ばんだカードがテープで留めてある。
If this needle ever swings right, please write to me.
— H. Amamiya, Gotemba, Japan
この針が、いつか右に振れたら、手紙をください。
御殿場、雨宮晴之。
祖父の字だった。
英語でも、分かる。
Aの横棒を、少しだけ右に長く引く癖。
本文は、短かった。
私は、ヨウンナといいます。昔は気象台の観測員で、今は、レイキャビクの近くのダンジョンの、ただ一人の予報士です。
この気圧計は、十四年前に、日本のハルユキ・アマミヤさんから届きました。
カードのとおり、手紙を書くつもりでした。
けれど、住所を探す前に、日本の全国版の画面で、あなたの名前を見つけました。
アマミヤさんのご家族ですか。
アマミヤさんに、伝えてください。
針が、右に振れました、と。
◇
カーテンを開ける。
東京の空は、薄い雲が広がり始めていた。
昨日の朝に読んだとおり、夕方から下り坂だ。
十四年前。
出現の翌年だ。
祖父が気圧計を直してから、まだ間もないころになる。
祖父は、自分の一台だけを直したのではなかった。
同じものを作って、海の向こうへ送っていた。
そして、自分の一台を直してから九年、右に振れるのを待って、何も知らせを受け取らないまま、六年前に死んだ。
返事を書く指が、何度も止まる。
英語の言葉が、見つからないからではない。
私は、雨宮晴之の孫です。
祖父は、六年前に亡くなりました。
祖父は、自分の気圧計が右に振れるのを、ずっと待っていました。
九年待って、一度も振れませんでした。
祖父の代わりに、あなたの知らせを受け取ります。ありがとうございます。
送信して、しばらく、机の前に座っていた。
御殿場の居間を思い出す。
祖父は、朝ごはんの前に、必ず壁の気圧計を見た。
指で、ガラスを軽く二回叩く。針が引っかかっていないかを確かめる、観測員の癖だ。
針が真ん中にあると、祖父は小さくうなずいて、新聞を開いた。
毎朝、何かを待っている人の顔だった。
子どもの私は、それを、天気を待っている顔だと思っていた。
あれは、手紙を待つ顔でもあったのだ。
海の向こうの、まだ見たことのない空から届く、一通を。
針は、真ん中だ。
祖父の赤い線のところで、止まっている。
◇
七時過ぎ、二通目の返事が来た。
ごめんなさい。知りませんでした。
アマミヤさんとは、三十年以上前に、山の観測所の集まりで知り合いました。手紙は、十四年前の一通だけです。
その手紙に、こう書いてありました。
「一台の針が見たことは、予報になりません。だから、同じ針を、空をよく見ている昔の友人に送ります。あなたは、その一人です」
彼は、私のほかに、五人に送ったと言っていました。
私は、文字盤の赤い線を、指でなぞった。
一回の観測では、予報にならない。
祖父は、封筒にそう書いていた。
だから、あの晩のことを、誰にも言わなかったのだと思っていた。
違った。
祖父は、黙って、二回目を待っていたのではない。
二回目を見る目を、世界に増やしていた。
祖父の針は、私の机の上の一台だけではなかった。
レイキャビクに、一台。
ほかの五台は、どこで、何を見ていたのだろう。




