第20話 晴れ、ところにより恋
朝の六時。窓の外に、雲はひとつもない。
パソコンで、地上の天気図を開く。
日本の上に、大きな移動性高気圧が乗っている。等圧線の間隔は広く、風は弱い。
関東地方は、一日を通して晴れ。明日の夕方から、西から雲が広がる。
テレビの天気予報と同じ言い方で、頭の中で読み上げてみる。
机の上で、祖父の気圧計の針は、真ん中に静かに止まっている。
左にも、右にも振れない。
ダンジョンは今、吸ってもいないし、吐いてもいない。
ゆうべ、隊長から連絡があった。
今日は全国のダンジョンで、組合が新しい層の入口に柵を立てる。探索は、上の層だけにしてもらう。
全国版は、いつもどおり夜の九時から。それまで、私の仕事はない。
スマホが震える。美羽さんからだ。
おはようございます! 蓮さん、たぶん朝から三回くらい、空を見てました。
続けて、もう一通。
今日は灯台もお休みです。いってらっしゃい!
どこへ行くのか、私はまだ聞いていない。
◇
九時ちょうどに、白いワゴンがアパートの前に停まる。
運転席の神崎さんは、いつもの探索用の上着ではなく、紺のシャツを着ていた。
「晴れましたね」
「晴れると、言いましたから」
ワゴンは首都高を抜けて、南へ走る。
御殿場へ行ったときとは、違う道だ。
横浜を過ぎると、窓の外に、ときどき海が光る。
「どこへ行くんですか」
「灯台です」
神崎さんは、前を向いたまま言う。
「父のいた灯台は、遠い北の港なので。いちばん近い灯台にしました」
三浦半島の先の、小さな灯台だった。
白い塔が、岬の崖の上に立っている。
今はもう人はいなくて、明かりは自動で点くのだと、入口の案内板に書いてある。
螺旋の階段を上りきると、海が全部、見えた。
空は、どこまでも青い。
水平線の上に、白い巻雲が、刷毛で掃いたように何本か流れている。
「予報を、お願いします」
神崎さんが言う。
私は少しだけ笑って、空に向き直る。
「本日の三浦半島は、高気圧に覆われて、一日を通して晴れるでしょう。沖に見えている筋のような雲は、天気が下り坂に向かうときの最初の雲です。明日の夕方からは雲が広がりやすくなりますので、お出かけの際は、折りたたみの傘があると安心です」
「傘持ってけおじさんが、喜びますね」
二人で、少し笑う。
風が、頬に当たる。
潮の匂いがする。湿り気の少ない、乾いた風だ。
ダンジョンの中の風とは、匂いが違う。ここには苔も、結露も、魔素もない。
——本当に、違うのだろうか。
ゆうべ観測ノートに書いた一行が、頭から離れない。
「神崎さん。まだ誰にも話していないことが、あるんです」
神崎さんが、私のほうを向く。
私は手すりをつかんだまま、話し始める。
祖父のノートの、最後の一行。空が、地面の下へ押し込まれていくようだ。
祖父は、見たとおりにしか書かない人だった。だから、あれは、たとえではないのかもしれない。
ダンジョンに天気があるのは、そこにあるのが、押し込まれた地上の空だから。
空を吸い込んだぶんだけ、地面の下に、場所が開く。
十五年前の晩に、最初の層が開いた。
昨日、溜めた息を吐いて、もう一層開いた。
話し終えると、喉がからからだった。
神崎さんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと空を見上げる。
「……じゃあ、俺たちは十五年、ずっと地上の空の中を歩いてたんですね」
その言い方がなんだかおかしくて、私は少しだけ笑う。
笑ったら、胸のつかえが、ふっと軽くなった。
「全国版で、話しますか」
「まだです」
私は、首を振る。
「一回目は、祖父が見ました。二回目は、私が見ました。でも、二回で決めたら、祖父に叱られます。三回目を見るまでは、観測ノートにだけ書いておきます」
「三回目は、いつですか」
「分かりません」
言ってから、自分で少し驚く。
この一週間、何度この言葉を言っただろう。
でも今は、言うのが怖くない。
「父も、同じことを言いそうです」
神崎さんが、手すりに腕をのせる。
「灯台が自動になってからも、父は日誌を付けていました。誰も読まないのにって、母はあきれていた。でも父は、いつか誰かが読むかもしれないからって」
「祖父のノートも、ずっと、押し入れの奥にありました」
「雨宮さんが、読みました」
神崎さんが、私を見る。
「雨宮さんの読みを、最初に聞けてよかった」
顔が熱い。
今日は、縦穴の風のせいにはできない。
◇
灯台を下りて、岬の先のベンチに座る。
来る途中のコンビニで買ったおにぎりを、二人で食べる。
神崎さんは、自動販売機で缶のお茶を二本買ってきた。温かいほうだ。
海の上を、カモメが風に乗って滑っていく。
羽ばたかなくても、空気の流れだけで、ずっと同じ高さにいられるらしい。
あの鳥たちは、私よりずっと上手に、風を読んでいる。
一時過ぎに、岬を出た。
駐車場で、ワゴンの鍵を出しながら、神崎さんが言う。
「次の休みも、晴れますか」
「週間予報は、まだ出していません」
「じゃあ、出たら教えてください。晴れの日に、合わせます」
私は、少しだけ考えてから答える。
「……晴れの日を、探しておきます」
帰りの車の中で、頭の中の天気予報が、勝手に続きを読み上げる。
本日の関東地方は、晴れ。
ところにより——。
その先は、まだ予報に書けない。
一回しか観測していないことは、予報にならない。
祖父が、そう言っていた。
助手席の窓から、西の空を見る。
富士山が、小さく、くっきりと見えた。笠雲は、かかっていない。
◇
夜の八時。組合の四階の放送部屋に入る。
全国版の準備をしていると、パソコンに、見慣れないメールが一通届いていた。
英語だ。差出人の名前の後ろに、アイスランド、とある。
翻訳にかけて、読む。
日本の全国版を、毎日見ています。私は、レイキャビクの近くのダンジョンの、ただ一人の予報士です。
昨日、こちらのダンジョンでも、いちばん深い層の奥に、新しい階段が開きました。
五日前には、三分ほど揺れました。現地時間の、昼の十二時二十分過ぎです。
日本時間に、直す。
夜の九時二十分過ぎ。
全国版の最中に、地図が揺れた、あの時刻だ。
メールの最後の一行は、翻訳にかけるまでもなかった。
短い英文だった。
Our needle swung right, too.
こちらの針も、右に振れた。
机の上の、祖父の気圧計を見る。
針は、真ん中で静かに止まっている。
あの晩、地面の下へ押し込まれた空は、日本の空だけではなかった。
↓第2章の番外編「小さな字」(早瀬視点。トップページが変わるまでの一晩)
https://note.com/wise_turtle184/n/n0864dc14127a




