第19話 答え合わせ
夕方の六時を過ぎても、放送部屋の電話は鳴りやまなかった。
最初は、北見さんだった。
『雨宮さん。うちの一番下の層の奥に、階段がある。昨日までは、壁だったところだ』
次は、秩父。それから、阿蘇、仙台、松江。
どの予報士も、同じことを言う。
いちばん深い層の奥に、昨日までなかった下り階段が開いている。
ホワイトボードの全国の地図に、赤いペンで印を付けていく。
七時には、ほとんどのダンジョンに印が付く。
印の付いたダンジョンに、例外は、一つもない。
全国のダンジョンが、同じ日に、一層ずつ深くなった。
上の層の報告も、同じように揃っている。
白かった苔が、夕方から少しずつ黄緑に戻り始めている。天井には、結露の粒が、また付き始めた。
吐き出された魔素が、上の層まで戻ってきたのだ。白い凪は、終わった。
組合の発表を、私が読み上げる。
新しい層には、当面、誰も入らないこと。
今度も、「お願い」の形だった。
けれど、新しい階段を下りたいと言う人は、どのダンジョンにもほとんどいなかった。
熊谷さんは、壁ぎわで杖に顎を乗せて、地図を見ている。
「十四年潜って、層が増えたのは初めてだ」
「十五年前は、どうだったんですか」
「最初の年は、毎日のように層が増えた、と聞いてる。俺が潜り始めた頃には、もう二十層まであった。それからは、一度も増えてねえ」
ダンジョンは、最初から深かったわけではない。
出現した年に、少しずつ開いていった。
そして、十四年間、止まっていた。
でも、なぜ開くのかは、誰も知らない。
◇
九時、全国版の赤いランプが点いた。
同接の数字は、始まる前から三十万を超えている。
隣には、早瀬さんが座っている。今日も、灰色のパーカーだ。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です。まず、答え合わせをします」
この番組は、いつも答え合わせから始める。
今日も、それは変えない。
「一昨日、吐き出しの始まりは、今日の午前十一時、前後一時間とお伝えしました。実際に始まったのは、十時五十八分です」
全国版で伝えたのは、十一時、前後一時間。
吸い終わりの時刻から、私が読み直した真ん中は、十一時十二分だった。
十四分、早かったことになる。
「幅の中には入りました。でも、吸い終わりの時刻から読み直した真ん中から、十四分ずれています。平らになってから吐くまでを、二つの例から十四時間と読みましたが、今日は十三時間四十六分でした。すみませんでした」
私は、頭を下げる。
隣で、早瀬さんも頭を下げている。
「解析を担当した早瀬です。私の線も、同じだけずれていました。それから、会社のトップページに、今朝まで九十九パーセントを出していたことも、お詫びします」
"十四分で謝るのか"
"全国版の最初の日は十分で謝ってた"
"この人たちの予報で、今日一人も死んでないんだが"
"だから信用できるんだよ"
"元山岳部:例が三つになった。次はもっと当たる"
元山岳部さんの言うとおりだ。
四年前と、あの土曜日と、今日。
例は、三つになった。
三つあれば、次は、少しだけ真ん中に近づける。
「もう一つ、予報できなかったことがあります」
私は、全国の地図を画面に出す。
赤い印で埋まった、全国のダンジョン。
「全国のダンジョンが、今日、一層ずつ深くなりました。吐き出しのあとに層が増えることは、私は予報できませんでした。なぜ増えたのかも、今は、分かりません。分かったら、この番組でお伝えします」
分からない、と、また言った。
白い苔の夜ほど、怖くはない。
配信を切ったあと、早瀬さんが、パソコンを閉じながら言った。
「次の版には、苔と結露の観測を入れます。各地の予報士さんの数字を、名前付きで。会社に、そう約束させました」
AIが予報士に取って代わるのではなく、予報士の目を、AIが借りる。
黒川さんが言った形とは、並べ方が逆だ。
熊谷さんが、杖をついて立ち上がる。
「しずくちゃん。謝り方が、じいさんに似てきたな」
熊谷さんは、祖父に会ったことがない。
私の口から、祖父の口癖を聞いていただけだ。
それでも、なぜか、そのとおりだと思えた。
◇
アパートに帰ったのは、十一時過ぎだった。
灯台の四人は、夕方、地上に戻ってから一度だけ放送部屋に顔を出して、先に帰った。
誰も、ほとんど口をきかなかった。美羽さんだけが、ドアの前で振り返って、小さく手を振る。
神崎さんは、何か言いかけて、やめたように見えた。
机の上に、祖父の気圧計を置く。
針は、真ん中で止まっている。
その横に、母に頼んで借りてきた、地上の天気のノートの最後の一冊。
出現の前の晩の、最後のページを開く。
二十二時。気圧、急に上がる。近くに高気圧なし。
二十三時。まだ上がる。富士の上でも同じだと、昔の同僚から電話。
空が、地面の下へ押し込まれていくようだ。
何度も読んだ一行だ。
祖父らしくない、詩みたいな書き方だと思っていた。
子どもの頃、御殿場の家の縁側で、祖父と富士山を見ていたことがある。
笠雲がかかると、祖父は必ず洗濯物を取り込んだ。
なんで分かるの、と訊くと、祖父は笑って言った。見たとおりに書いておけば、空はいつか答えてくれる、と。
でも、祖父は、観測員だった。
見たものしか、書かない人だった。
あの晩、ダンジョンは空を吸った。
地上の空気を、地面の下へ吸い込んだ。
吸い込まれた空気は、どこへ行ったのか。
ペンを持つ手が、止まる。
ダンジョンの中には、天気がある。
風が吹き、霧が流れ、嵐が来る。
地面の下なのに、空と同じように。
十五年間、それが当たり前だった。
あそこにあるのは、押し込まれた空なのだ。
息を吸って、空を押し込む。
押し込まれた空のぶんだけ、地面の下に、場所が開く。
十五年前の晩に、最初の層が開いた。
そして今日、ダンジョンは溜めた息を吐き出して、もう一層、開いた。
祖父は、あの晩、一回だけそれを見た。
私は、今日、二回目を見た。
観測ノートの新しいページに、今日の日付を書く。
その下に、祖父のように、見たものだけを書いていく。
十時五十八分、針が左へ。十五時過ぎ、真ん中へ。全国で、一層ずつ深くなる。
最後に、一行だけ、自分の考えを書き足す。
吸ったものは、いつか吐く。吐いたあと、ダンジョンは深くなる。
スマホが震えた。
神崎さんからのメッセージだ。
明日、地上は晴れますか。
窓を開けると、夜の風が、少しだけ冷たい。
西の空に、雲はない。星が、よく見える。
私は、天気予報士の顔で、返事を打った。
晴れます、と。




