第22話 宛名の控え
朝の七時半、御殿場に電話をかけた。
「青い箱? この前、全部出したじゃない」
「ノートの下を、見てほしいの。手紙とか、郵便の控えとか」
「控えねえ……。おじいちゃん、何でも取っておく人だったから」
母は、昼に折り返すと言って電話を切った。
私は気圧計を鞄に入れて、組合に向かった。
空は、朝より雲が厚くなっている。
◇
四階の放送部屋に入ると、隊長が待っていた。
腕を組んで、ホワイトボードの煙突の地図を見ている。
「新しい層の調査を、明後日やる。新宿第一の第二十一層だ」
「明後日、ですか」
「救助隊と、灯台に頼んだ。予報士が一人要る」
隊長が、私を見た。
「見ていない空の予報は出せない、って言ったな。なら、見に行け」
昨日の全国版の、私の言葉だ。
隊長は、ちゃんと聞いていた。
「行きます」
隊長は短くうなずいて、部屋を出ていった。
ドアの前で一度だけ振り返る。
「苔が無いかもしれない。暗いぞ。明かりは多めに持ってけ」
◇
昼の十二時過ぎ、母から動画の通話がかかってきた。
画面いっぱいに、青い紙を貼った段ボールが映る。
「あったわよ。いちばん底。輪ゴムで束ねてあった」
母が、薄い紙の束を画面に近づける。
国際郵便の、送り状の控えだ。
六枚ある。
日付は、どれも同じだった。
十四年前の、春。
差出人の欄は、全部、祖父の字で「雨宮晴之」。
「読むわよ。英語のとこは、分かんないから、国の名前だけね」
アイスランド。
スイス。
チリ。
ケニア。
カナダ。
六枚目で、母の声が止まった。
「これだけ、日本だわ。山梨県、富士吉田市。水野、って書いてある」
「水野さん?」
「富士山の測候所で、おじいちゃんと一緒だった人よ。お葬式には来られなくて、お花だけ届いたの」
祖父の、最後のノートの一行を思い出す。
富士の上でも同じだと、昔の同僚から電話。
あの晩、電話をかけてきた人だ。
たぶん、間違いない。
「品名のとこに、何て書いてある?」
「えっとね……バロ、メーター。六枚とも同じ」
気圧計。
祖父は、同じ日に、六台を送っていた。
「お母さん。それ、写真に撮って送って」
「撮るけど……しずく、あんた、また何か始めたの」
「おじいちゃんが、始めてたの」
母は、少し黙ってから笑った。
「あの人らしいわね。誰にも言わないで、こっそり続けるの」
◇
午後、早瀬さんが放送部屋に来た。
今日も、灰色のパーカーだ。
「昨日から、各地の予報士さんに一人ずつ電話をしています。次の版に、お名前を載せていいかどうか」
「みなさん、何て」
「北見さんは、三秒黙ってから『載せろ』と。まだ、一人も断っていません」
早瀬さんは、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。
新しい版の見本だ。
ダンジョン、層、時刻、苔の色、天井の結露、縦穴の糸。いちばん右の欄が、見た人。
私は、送り状の写真を見せた。
早瀬さんは、六つの宛名を、長いあいだ見ていた。
「見た人の欄を、世界の分まで作れたら、いいですね」
部屋の隅で、熊谷さんが杖を鳴らした。
明後日の調査の話は、隊長から聞いたらしい。
「俺は行けねえ。足がこれだ」
「はい」
「新しい層ってのは、最初はひどく寒いそうだ。十五年前に最初に潜った連中から聞いた。苔も、明かりも無えってな」
熊谷さんは、窓の外の曇り空を見た。
「最後尾は、神崎に歩かせろ。あいつは、後ろを見る目がある」
◇
夜の九時。全国版。
いつもの天気を読み終えてから、私は、祖父の気圧計をカメラの前に置いた。
文字盤の、赤い線が映る。
「今日は、最後に一つ、お願いがあります」
六日前の晩、この針は右に振れた。
同じ晩、アイスランドの予報士の針も、右に振れていた。
その針は、祖父が十四年前に送った、これと同じ気圧計だった。
私は、それを順番に話した。
送り状は六枚。宛先の国の名前も、読み上げた。
「残りの気圧計が、どこにあるのか分かりません。もう、無いのかもしれません」
「もし、文字盤に赤い線の入った古い気圧計を見かけたら、組合まで知らせてください」
"じいちゃん有能すぎる"
"十四年前に世界に観測網作ってたのか"
"一回じゃ予報にならないって分かってたんだな"
"スイスの観測所なら知り合いいるかも"
"I'm watching from Canada. I'll ask around."
英語のコメントが混じっている。
全国版を、海の向こうでも見ている人がいる。
ヨウンナさんも、その一人だ。
「明後日、新宿第一の新しい層を、調査隊と一緒に見てきます。見た空の予報は、その夜にお伝えします」
"お姉さん本人が行くの!?"
"灯台も一緒か"
"苔ないって噂だけど大丈夫か"
"明かり多めに持ってけ"
隊長と同じことを言うコメントがあって、少し笑った。
◇
アパートに帰ると、雨が降り始めていた。
夕方から下り坂、のとおりだ。
机に気圧計を置いて、日付が変わるまで、送り状の写真を見ていた。
祖父の字で書かれた、六つの宛名。
それぞれの国の、空をよく見ている人たち。
一時過ぎ、メールが一通届いた。
チリからだった。
私は、ルシアといいます。アンデスの観測所の所長だった父に、十四年前、日本から気圧計が届きました。
父は三年前に亡くなりました。
針は、父の言いつけどおり、今は私が毎日見ています。私は、サンティアゴの近くのダンジョンの予報士です。
針は、こちらでも右に振れました。
それから、もう一つ、伝えたいことがあります。
昨日から、針が、小さく揺れています。
右へ少し。左へ少し。止まりそうで、止まりません。
あなたの針は、どうですか。
私は、机の上の気圧計に顔を近づけた。
針は、真ん中にある。
赤い線のところで、止まっている。
そう見えていた。
電気スタンドを近づけて、息を止めて、文字盤を見る。
針の先が、髪の毛一本ぶんだけ、右へ寄って、左へ戻った。
止まっていなかった。




