第16話 ソラミルの中の人
一階のロビーの隅、自動販売機の横の椅子に、その人は座っている。
三十代の半ばくらいの女性だ。
灰色のパーカーに、角の擦り切れたノートパソコン。
スーツの営業の人が来るのだと思っていたから、少し戸惑う。
膝の上の画面には、見慣れた地図が映っていた。
毎晩九時に、私が全国版で出している、全国の魔素計の地図だ。
私に気づくと、その人は立ち上がって頭を下げた。
「ソラミル社で、解析の部分を作っています。早瀬です」
名刺には、開発部の主任とだけある。
全国版に解析データを無償で出すよう、会社に掛け合ったのもこの人だという。
あの地図は、この人が毎晩送ってくれていたのだ。
「新版の説明資料、読まれましたか」
「掲示板で見ました。対象は第五層まで、と」
早瀬さんは、うなずく。
「あの一行は、私が入れました。トップページの九十九パーセントは、営業の画面です」
言い訳をしに来た人の顔ではない。
どちらかといえば、答え合わせをしに来た人の顔だ。
会社としての発表は変えられない。
でも、自分の作った数字と私の予報を、一度きちんと並べてみたい。
並べて、どこがずれているのかを見たい。
早瀬さんは、そう言って、もう一度頭を下げた。
◇
四階の放送部屋で、早瀬さんがパソコンを大きな画面につなぐ。
神崎さんと隊長が、壁ぎわで腕を組んでいる。
窓の外は、もう暗い。
画面に、線が何十本も重なって出てくる。
全国のダンジョンの、深い層の魔素計の数字だ。
どの線も、同じ形をしている。
揺れの夜から、ぐっと持ち上がる。
一日目は二割。二日目の今日は、一割と少し。
「上がり方が、鈍くなっています。新版は、これを『落ち着いてきた』と読みます」
上の層の白さと合わせて、安定度九十九パーセント。
数字だけを見れば、そう読むのが素直なのだろう。
私は、祖父の気圧計を机の真ん中に置いた。
針は、右に振れたままだ。
「落ち着いているんじゃありません。吸い切りかけているんだと思います。息を吸うとき、最後はゆっくりになりますから」
早瀬さんは、しばらく針を見ている。
魔素計は、量しか測れない。どちらへ流れているのかは分からない。
それは、祖父が手紙に書いていたことと同じだった。
だから祖父は、この気圧計を直したのだ。
私は、ホワイトボードを指す。
朝から書き込んできた、全国の予報士の「早いずれ」の表。
その横に、灯台が糸で調べた煙突の地図。
一週間前から少しずつ吸っていたこと。
揺れの夜に、それが急に強くなったこと。
今は、その吸い方が弱まりかけていること。
量ではなく、流れのほうの記録だ。
早瀬さんの指が、キーボードの上で止まる。
それから、表の数字を一つずつ打ち込み始めた。
「量はうちが持っています。流れは雨宮さんが持っている。重ねれば、いつ吸い終わるかは出せます」
神崎さんが、壁ぎわから訊く。
「吸い終わってから吐くまでは、どれくらいですか」
いちばん大事なところだ。
例は、二つある。
四年前の逆流と、第二十層の、あの土曜日。
四年前の記録は、全国の魔素計の古いデータとしてソラミルの中にある。
あの土曜日の記録は、私の観測ノートにある。
私は、あの土曜日のページを開いて渡した。
魔素計の数字と、針の向きと、時刻。
祖父に習ったとおり、五分おきに書いてある。
十二時五十分の欄には、「左へ大きく」と、震えた字がある。
早瀬さんは、ノートと画面を何度も見比べる。
深い層の数字が上がりきって、平らになる。そこから、針が左に振れるまで。
画面に、二本の線が並ぶ。
四年前と、あの土曜日。
規模はまるで違うのに、平らになってから吐き出すまでの形だけは、よく似ている。
「どちらも、十四時間前後です。でも、二例です。予報に使っていい数じゃありません」
「一例よりは、ましです」
私が言うと、早瀬さんは、初めて少しだけ笑った。
あの土曜日、ソラミルは「晴れ」を出し、私は「逆流型」を出した。
あのとき、この人は、どんな顔で画面を見ていたのだろう。
後で聞くと、早瀬さんは会社の机で、アルファの配信を最後まで見ていたそうだ。
あのあと出た、お試し版だったという声明の下書きも、早瀬さんが書いた。
規約の小さな字を指さすような文章しか、会社は通してくれなかった。
ただ、最後の一文だけは、自分で書き足したのだという。
深層では、専門の予報士の併用を推奨します。
◇
九時の全国版まで、あと二時間。
早瀬さんのパソコンが、今の上がり方の鈍り方から、線の先を引いていく。
計算が終わるまで、少しかかるらしい。
神崎さんが一階へ下りて、缶のお茶を四本買ってきた。
私の分は、机の端に、黙って置かれる。
冷たいほうではなく、温かいほうだった。
朝から何も飲んでいなかったことに、そのとき気づく。
隊長が、壁の時計と画面を見比べる。
「ブレイヴラインの黒川ってのが、前に似たことを言ってたな。AIと予報士のダブル予報」
「うちにも来ました。お断りしました」
早瀬さんは、画面から目を離さない。
二つ並べて、当たったほうを宣伝に使う、という話だったのだという。
「並べるのは、ずれを見つけるためです。どっちが上か決めるためじゃない」
私は、ホワイトボードの前に立つ。
祖父の手紙の言葉を思い出す。
どう読むかは、しずくが決めなさい。
二例しかない。
外れるかもしれない。
でも、何も出さなければ、明後日の正午に、あの大広間には人がいる。
「出します。ソラミルの数字と、私の読みと、根拠が二例しかないことも、全部並べて」
「私の名前も出してください。会社の名前じゃなく。外れたら、私も一緒に謝ります」
神崎さんが、小さく息を吐く。
隊長は、黙って内線の受話器を取った。今夜の全国版の枠を、延ばしてもらうのだろう。
画面の線の先に、時刻が浮かぶ。
平らになるのは、明日の夜、九時ごろ。
そこから、十四時間。
私は、青いペンで、それをホワイトボードに書き写した。
吐き出しの始まり、明後日、午前十一時。前後一時間。
「正午に第二十層で配信を始めるなら、朝のうちに潜り始める」
神崎さんが、ホワイトボードの字を見たまま言う。
「十一時には、第十九層から大階段を下りている」
あの土曜日のアルファと、同じ段取りだ。
その時刻、クレストダイブの人たちは、煙突の中にいる。




