第15話 一人きりの予報士たち
朝の六時、組合の四階は、まだ電気が半分しか点いていない。
放送部屋の机に、祖父の気圧計を置く。
針は、右に振れたままだ。
パソコンを開くと、夜のうちに届いたメールが四十通を超えている。
件名は、どれも短い。
富良野、六時、第一層。秩父、五時半、苔の写真。阿蘇、結露なし。
昨夜、掲示板を閉じたあとで、全国の予報士に一斉にメールを送った。
明日の朝、潜れる人は、第一層の苔と天井の結露を見て、写真を送ってください。
予報ではない。観測のお願いだ。
写真を一枚ずつ開いていく。
苔は、どこも白い。
天井には、結露の粒が一つもない。
乾いた岩肌が、懐中電灯の光を跳ね返しているだけだ。
結露は、空気の中の水が冷えた天井に付いたものだ。
それが消えているということは、水ごと、空気が下へ持っていかれている。
電話が鳴った。
北見さんだ。
『雨宮さん、写真見たかい。うちの一層、天井がからからだ』
「見ました。どこも同じです」
『それとね、昨夜から気になってたことがある。言うかどうか迷ったんだけど』
北見さんは、少し間を置いた。
『この一週間、うちの予報、ずっと早かったんだよ。夕方の不安定が、言った時刻より五分、十分早く来る。毎日だ。腕が落ちたんだと思ってた』
私は、ペンを止めた。
「北見さん。それ、全国版の前の日も、ですか」
『前の日がいちばんずれた。十二分』
電話を切ってから、自分の観測ノートをめくる。
全国版の初回の晩、私は答え合わせで謝っている。
前の日の第十一層の不安定は、十六時五十分に始まった。十七時までの撤収と言っていたから、十分早かった。
縦穴の補正を入れても、そのずれは消えなかった。
メールの受信箱に戻る。
届いた観測の最後に、何人もが、同じようなことを書き添えている。
『関係ないかもしれませんが、この数日、予報が早めに外れていました』
『自分の読み違いだと思って、誰にも言っていません』
『うちだけかと』
ダンジョンの予報士は、半分以上が一人きりだ。
外れても、隣の机に相談できる人がいない。
だから、みんな、自分のせいだと思って黙っていた。
私も、そうだった。
ホワイトボードに、日付を横に並べる。
その下に、届いた「ずれ」を一つずつ書き込んでいく。
富良野、秩父、阿蘇、新宿第一。
どこも、遅れたのではない。早かった。
そして、日を追うごとに、少しずつ大きくなっている。
夕方の不安定は、空気の重いところに、上から空気が流れ込んで起きる。
それが、どこでも早く来ていた。
下から、誰かが空気を引っ張っていたからだ。
吸い始めたのは、あの揺れの夜ではなかった。
その一週間前から、ダンジョンは、少しずつ息を吸っていた。
私の十分のずれは、その息の始まりだった。
◇
十時に、灯台の四人が放送部屋に来る。
「上層なら、今日も潜れる」
神崎さんが言う。
白い層は、モンスターがほとんど動かない。組合のお願いも、第五層より上は止めていない。
「縦穴を、見てきてほしいんです」
私は、赤い糸を四本、机に並べる。
第十二層の縦穴の縁で、神崎さんたちの前に垂らしてみせた、祖父の道具だ。
「第一層から第五層まで、縦穴の縁で糸を垂らしてください。どっちになびくか、どれくらい強いか」
「風上とかじゃなくて、上か下か、ってことですよね」
美羽さんが、カメラの電池を確かめながら言う。
「はい。たぶん、下です」
悠真さんが、黙って手帳を開く。
七年分の、各層の縦穴の位置と太さ。
その上に、私は全国版で使っている新宿第一の地図を重ねる。
縦穴は、第五層までに、大小あわせて三十一本ある。
でも、ほとんどは途中の層で行き止まりになる。
下の層まで、途切れずにつながっている穴は、ほんの数本しかない。
「吸うときに下へ強く引く穴は、吐くときに、いちばん強く吹き上げる穴です」
大河さんが、地図をのぞき込む。
「煙突ってやつか。第二十層の大階段みたいな」
「はい。それが、どこにあるのかを知りたいんです」
四人を送り出して、美羽さんの配信を画面の端に出す。
第一層の白い苔が、ゆっくり流れていく。
"朝から灯台の配信だ"
"何してんの、糸?"
"お姉さんの赤い糸だ"
"ほんとに下になびいてる"
最初の縦穴の縁で、美羽さんが糸を垂らした。
赤い糸は、まっすぐ下を向いている。
穴の底へ、吸い込まれるように。
第十二層のあの縦穴では、糸は上になびいた。
下から、かすかな風が吹き上げていた。
今は、逆だ。
◇
午後三時、四人が地上に戻ってくる。
悠真さんの手帳の縦穴に、神崎さんが赤いペンで印を付けていく。
糸がほとんど動かなかった穴には、何も付けない。
糸が下を向いた穴には、丸。
糸が穴の中へ引っ張られて、指に力を入れないと持っていかれそうだった穴には、二重丸。
二重丸は、三つだった。
一つは、第一層の北の、いちばん太い穴。
残りの二つは、東の区域と、南の古い水路の脇。
悠真さんが、その三つに指を置く。
「……三本とも、十五層まで抜けてる」
低くて静かな声だった。
大河さんが、へえ、と言いかけて、やめた。
十五層より下は、手帳にない。
けれど、三本とも、深い層へまっすぐ通じている。
吐くとき、下に溜まったものは、この三本を駆け上がってくる。
ホワイトボードに、新宿第一の煙突の地図を描く。
三本の縦穴。その周りの通路。
そこから離れる道と、近づいてはいけない道。
夕方になると、全国の予報士から、同じような地図が届き始める。
富良野は二本。秩父は一本。阿蘇は四本。
それぞれの予報士が、それぞれのダンジョンで、糸を垂らしてくれたのだ。
手書きの地図の写真もあれば、方眼紙に定規で引いたものもある。
全国の煙突が、少しずつ埋まっていく。
どこへ逃げればいいのかは、分かり始めた。
でも、いつ逃げればいいのかは、まだ分からない。
吸い始めたのは、一週間前。
あの揺れの夜に、一気に強くなった。
深い層の魔素は、一日に二割ずつ上がっている。
いつまで吸い続けて、いつ吐くのか。
私の手元の数字だけでは、その先の線が引けない。
クレストダイブのアタックまで、あと二日。
ドアが叩かれた。
隊長が、顔だけ出す。
「雨宮さん。下に客だ」
「どなたですか」
隊長は、少し妙な顔をした。
「ソラミルを作ってる会社の人だ。あんたの予報と自分たちの予報を、並べて見に来たと言ってる」




