第12話 祖父のノート
朝の六時。
結局、ほとんど眠れなかった。
机の上の気圧計の針は、夜中と同じ場所で、右に振れたまま止まっている。
裏ぶたの鉛筆の字も、夢ではなかった。
スマホを開くと、ソラミルの新版が、ちょうど最初の予報を出したところだった。
全国的に晴れ。魔素安定度99%。
絶好の探索日和です。
絶好の、という言葉に、指が止まる。
第二十層の前にも、同じ言葉を見た。
ソラミルが悪いわけではない。数字だけを見れば、たしかに全国のダンジョンは、十五年でいちばん穏やかだ。
上層の魔素は四割減ったまま。モンスターの動きも、目に見えて鈍いという。
七時を過ぎると、探索者のアカウントが一斉に動き出した。
今日は深層まで行けそう。白い凪、最高
天気のお姉さん、今回はさすがに慎重すぎでは
魔素が薄いうちに記録を取りたい。自己最深まで行きます
組合は八時に、第五層より深くへの立ち入りを控えるよう、全国にお願いを出した。
お願い、以上のものではない。
深層の記録を狙う事務所が、いくつも生配信の予定を告知していく。
八時半、隊長から電話がかかってくる。
『朝の観測が届いた。上の層は、全国どこも白いままだ』
「深いほうは、どうですか」
『それが妙でな。深い層の魔素計が、少しずつ上がってる。上で減ったぶんが、下へ溜まっていくみたいに』
上で減って、下で増える。
魔素が、消えたのではなく、深いほうへ移っている。
それを、どう読めばいいのか。
左に振れる針なら、五年分の答えがある。右に振れる針には、一つもない。
『あんたの気圧計は』
「まだ、右です」
『……そうか。今夜の九時までに、何か言えそうか』
「言えるように、してきます」
電話を切って、窓の外を見る。
地上の空は、雲一つなく晴れていた。
私には、潜る人を止める理由を言えない。
分からない、としか言えないのだから。
だから、分かるところまで、行くしかない。
母に電話をかけると、三回目の呼び出しで出た。
「しずく? 朝から、どうしたの」
「おじいちゃんの、地上の天気のノート。まだ家にある?」
「あるわよ。押し入れの奥の、青い箱。捨てられなくてね」
「今日、取りに行ってもいい?」
「いいけど、お昼は食べていきなさいよ」
祖父の家は、静岡の御殿場にある。
祖父が亡くなってからは、母が一人で住んでいる。
ダンジョンの観測ノートは、形見分けのときに全部もらった。けれど、地上の天気のノートは、関係ないと思って置いてきた。
電話を切ると、メッセージが一件届いていた。
神崎さんからだ。
灯台は、組合のお願いに従って、今日は潜りません。何かできることはありますか。
少し迷ってから、御殿場へ行くことを書いた。
返事は、一分もしないうちに来た。
灯台の機材車でよければ、送ります。九時半に迎えに行きます。
◇
灯台の機材車は、白いワゴンだった。
後ろの席には、ロープとヘルメットと、美羽さんの配信用のライトが積んである。
「狭くてすみません。大河の槍は下ろしてきました」
「いえ。ありがとうございます、本当に」
東名高速に乗ると、神崎さんは運転しながら、祖父のことを聞いた。
私は、測候所のことと、気圧計のことと、裏ぶたの字のことを話した。
「地上のノートって、ダンジョンができる前のものですか」
「前からずっと、です。祖父は測候所を辞めてからも、毎日、家で空を見て、記録を付けていました」
「父も、灯台の日誌を毎日付けていました。灯台が自動になって、人がいらなくなってからも」
神崎さんは、前を見たまま言う。
「誰にも読まれない記録って、読まれる日が来るんですね」
私は、うなずくことしかできなかった。
しばらく、エンジンの音だけが続く。
神崎さんが、前を見たまま、もう一度口を開く。
「針が右に振れるのは、悪いことなんですか」
「分かりません。ただ、祖父は、分からないことを大げさに書く人じゃありませんでした」
開けるな、と言った裏ぶたの内側に、わざわざ書き残した一行。
祖父は、いつか右に振れる日が来ると、知っていたのかもしれない。
窓の外に、富士山が見えてくる。
頂上に、薄い笠のような雲がかかっていた。
富士山が笠をかぶったら雨。小さいころ、祖父に最初に教わった空の読み方だ。
地上の空は、今日も、ちゃんと天気を教えてくれる。
ダンジョンの空だけが、何も言わない。
◇
祖父の家は、記憶の中より少し小さかった。
玄関に出てきた母は、私の後ろに立つ神崎さんを見て、目を丸くした。
「あら」
「神崎です。雨宮さんの、その……配信の、常連です」
「知ってるわよ。灯台の人でしょう。毎晩見てるもの」
神崎さんが、見たことのない顔で固まった。
母は笑って、二人分のスリッパを並べた。
お昼の焼きそばを食べながら、母は、祖父の話をした。
私が聞いたことのない話だった。
「ダンジョンができる前の晩ね、おじいちゃん、一晩中起きてたのよ。居間で、気圧計の前に座って」
「気圧計の前に?」
「空がおかしい、って。晴れてるのに、おかしいって。お母さん、年寄りの心配性だと思って先に寝ちゃった」
母は、箸を置いて、少しだけ笑う。
「次の朝、テレビをつけたら、あれでしょう。それからよ。おじいちゃんが、地下の空のことばっかり調べるようになったの」
押し入れの奥の青い箱は、段ボールに青い紙を貼っただけのものだった。
ふたを開けると、大学ノートがぎっしり詰まっている。
背表紙に、祖父の字で年号が書いてある。四十年分の、地上の空だ。
いちばん新しい年のノートは、いちばん上にあった。
最後の一冊。
ページをめくる。
毎朝六時の気圧、気温、風向き、雲の形。祖父の字は、どのページも同じ大きさで並んでいる。
それが、ある晩で、急に乱れていた。
二十二時。気圧、急に上がる。近くに高気圧なし。
二十三時。まだ上がる。富士の上でも同じだと、昔の同僚から電話。
空が、地面の下へ押し込まれていくようだ。
そこで、記録は終わっていた。
次のページからは、何も書かれていない。
私は、ページの上の日付を見る。
この国で、その日付を知らない人はいない。
ダンジョンが、世界中に現れた日の、前の晩だ。
隣でのぞき込んでいた神崎さんが、息を止めたのが分かった。
気圧が上がると、気圧計の針は、右に振れる。
祖父の気圧計は、そのころまだ、ただの気圧計だった。
十五年前、ダンジョンが現れる前の晩も、祖父の気圧計の針は、右に振れていた。




