第13話 吸う空
最後の一冊を閉じようとして、裏表紙が少しだけ膨らんでいるのに気づいた。
内側に、茶色い封筒がセロハンテープで留めてある。
封筒の表には、祖父の字で一行。
しずくへ。
手が、少し震えた。
神崎さんが、黙って半歩下がる。
母は、台所で洗い物の音を立てている。聞こえないふりをしてくれているのだと思う。
中には、便箋が三枚。
日付は、私に気圧計を譲る、少し前の秋だった。
あの晩、針が右に振れたのは、高気圧のせいではなかった。
空気が、地面の下へ吸われていた。
次の朝、世界中に穴が開いていた。
魔素計は、魔素が多いか少ないかしか測らない。流れの向きは測れない。
だから、気圧計を直した。魔素の流れを拾うようにした。
直してから九年、針は一度も右に振れていない。
左にはよく振れる。嵐の前には必ず振れる。
嵐は、ダンジョンが吐く息だと思っている。あの晩に吸いこんだものを、少しずつ吐いているのだ。
もし、また右に振れたら、ダンジョンがまた吸っている。
吸ったものは、いつか吐く。
いつ、どれだけ吐くのかは分からない。見たのは、あの一晩だけだ。
一回では、予報にならない。
一回しか見ていないものを、どう読むかは、しずくが決めなさい。
しずくは、もう私より空が読める。
三枚目は、そこで終わっていた。
私は便箋をたたみ、封筒に戻して、しばらく膝の上に置いていた。
「……一回では、予報にならない」
口に出すと、祖父の声で聞こえた。
予報は、同じことが何度も起きたから出せる。
雲がこう動いたら、何時間後に雨。百回、千回の記録があるから、確率が出せる。
一回きりのことには、確率がない。
「雨宮さん」
神崎さんが、窓の外を指さした。
富士山の笠雲が、朝より厚くなっている。
「あれは、当たりそうですね」
「はい。夕方には、降ると思います」
◇
東名に乗ったところで、フロントガラスに最初の一粒が落ちた。
足柄を過ぎるころには、ワイパーが休みなく動いている。
白いワゴンの中は、雨の音と、ワイパーの音だけになった。
膝の上の鞄には、タオルでくるんだ祖父の気圧計が入っている。
今朝、家を出るときに持ってきた。
途中で何度か、タオルをめくって針を見た。右に振れたまま、動かない。
「降りましたね、雨」
神崎さんが、前を見たまま言う。
「おじいさんの読み方、当たりました」
「富士山の笠雲は、何百年も前から言われていることですから。何万回も当たってきた読み方です」
「右の針は」
「一回です」
雨が強くなる。
前のトラックの赤いランプが、にじんで見えた。
地上の天気は、同じことが何万回も起きてきた。
だから天気図があり、統計があり、予報がある。
ダンジョンの天気は、まだ十五年分しかない。祖父と私の観測ノートを足しても、それだけだ。
その十五年の中で、高気圧もないのに針が右に振れたのは、始まりの一晩と、昨日の夜だけ。
「今夜の全国版で、何を言えばいいのか、分からないんです」
自分でも驚くくらい、弱い声だった。
「ソラミルの新版は、全国的に晴れと出しています。上の層だけ見れば、それは正しいんです。苔は白くて、魔素はほとんどなくて、モンスターも弱っている。探索日和に見えます」
「でも、深い層は上がっている」
「はい。祖父の言うとおり、吸っているんだと思います。でも、いつ吐くのかは分からない。根拠は、十五年前の一回と、祖父のメモだけです」
神崎さんは、しばらく何も言わなかった。
ウインカーを出して、車線を変える。
「雨宮さんの配信、最初に必ず、前の日の答え合わせをしますよね」
「……はい」
「外れた日も、ちゃんと言う。だから俺たちは、雨宮さんの予報を信じているんだと思います。当たるからじゃなくて」
ワイパーが、雨を払う。
「一回しか見ていないなら、一回しか見ていないと言えばいい。それでも、雨宮さんがどう読んだかを、俺は聞きたいです」
私は、膝の上の鞄を、両手で抱え直した。
◇
夜の九時。
組合の本部、四階の放送部屋。
窓の外は、まだ雨が降っている。
熊谷さんが、杖をついて部屋の隅の椅子に座った。隊長は腕を組んで、ドアのそばに立っている。
同接は、始まる前から二十万を超えていた。
六つのモニターの一つに、全国の魔素計の地図が映っている。
上の層は、どこも白い。昨日の夜から、少しも色が戻っていない。
深い層の表示に切り替えると、地図のあちこちが、薄い橙色ににじんでいた。
朝より、にじみが広がっている。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」
いつものように、答え合わせから始める。
昨日の夜、私は「分かりません」と言った。今日も、半分は分からない。そのまま伝えた。
"正直"
"半分は分かるってこと?"
"ソラミルは99%って言ってるけど"
「今日は、予報を二つ並べて出します」
画面を二つに分ける。
左に、ソラミルの新版。右に、私の予報。
左は、ソラミルの予報。全国的に晴れ、魔素安定度99%。
上の層の数字だけを見れば、そのとおりだ。私も、上の層は晴れだと思う。
ソラミルが間違っているのではない。見ている場所が違うだけだ。
「右が、私の予報です」
上層、晴れ。ただし、白い凪。
深層、魔素が上昇中。
近いうちに、吐き出しのおそれ。時刻は、まだ出せません。
"吐き出しってなに"
"凪?"
"元山岳部だけど、大荒れの前に風が止むやつか"
「祖父は、富士山測候所の観測員でした。十五年前、ダンジョンが現れる前の晩も、祖父の気圧計の針は、今と同じ向きに振れていました」
「祖父は、それを、ダンジョンが空気を吸いこんでいたのだと考えました。吸ったものは、いつか吐く。今、深い層の魔素が上がっているのは、上の層から吸いこんだ分がそこに溜まっているからだと、私は読んでいます」
"まじか"
"十五年前と同じ……?"
"それ根拠は"
「根拠は、一回です」
コメントの流れが、一瞬、止まった気がした。
「十五年前の一晩の記録と、祖父が残したメモだけです。一回きりのことに、確率は出せません。だから今日は、降魔確率を出しません」
「どちらの予報を信じるかは、皆さんが決めてください。ただ、私がどう読んだかを、言います。深い層には、行かないでください。吐く時刻は、出せるようになったら、すぐにお伝えします」
"了解、今週は上で稼ぐ"
"一回で煽るなよ"
"確率出せない予報って予報なの?"
"外れたらどうすんの"
「外れたら、謝ります」
私は、画面の中の二つの予報を見た。
「それを、毎日続けます」
部屋の隅で、熊谷さんが、小さくうなずいたのが見えた。
◇
配信を切ったのは、十時を少し過ぎたころだった。
窓の雨は、小降りになっている。
机の上の気圧計の針は、右に振れたまま、少しも戻らない。
スマホが震えた。
美羽さんから、リンクが一つだけ送られてきていた。
開くと、掲示板のスレッドだった。
題名の最後に、こう書いてある。
【今回は外れる】




