第11話 白い苔
針は、右に振れたまま戻らない。
私は、気圧計から目を離して、灯台の画面を見る。
美羽さんのカメラが、上り階段の段を映して揺れている。
先頭は大河さん、最後尾は神崎さん。悠真さんは途中で一度だけ振り返り、壁の苔を撮らせた。
第六層の苔は、もう全部、白い。
『第五層、着きました。全員います』
神崎さんの声に、息の乱れはない。
私は、ようやく息を吐いた。
「ありがとうございます。第五層の苔の色を、見せてもらえますか」
『……黄緑です。ただ、いつもより明るい。たぶん』
たぶん、ではない。
画面の中の苔は、昼間の光を当てたように白っぽく光っている。
苔は、魔素が薄いほど明るく光る。
第八層で、灯台の皆さんを霧の外へ出したときに使った目印だ。
だとしたら、白い苔は、ほとんど魔素がない色だ。
『雨宮さん。第五層で様子を見ますか。それとも、地上まで上がりますか』
神崎さんが、カメラの向こうから聞いてくる。
魔素が薄いなら、危険は少ないはずだ。数字の上では。
でも、苔の色は、何日もかけて変わるものだ。それが、数秒で変わった。
理屈の分からないものの近くに、人を置いておきたくない。
「地上まで上がってください。縦穴のそばは通らずに」
『了解。悠真、縦穴から遠いほうの階段は』
『東』
悠真さんが、短く答える。
四人の背中が、画面の奥の暗がりへ遠ざかっていく。
全国の地図の揺れは、三分ほどで止まった。
九時二十七分。
真っ赤だった地図が、今度は端から順に、色を失っていく。
「隊長。数字を読んでもらえますか」
「……上の層が、軒並み下がってる。ソラミルの解析だと、全国の平均で四割減だ」
四割。
魔素計の針が、ここまで一斉に下がるのを、私は見たことがない。
"白くなった"
"魔素が減るのはいいことじゃないの?"
"嵐の逆?"
地図の色が抜けるのに合わせるように、コメントの調子も変わっていく。
"モンスター弱くなるなら明日チャンスでは"
"深層行くなら今か"
"お姉さん、何が起きてるの"
コメントの速さに、目が追いつかない。
その中で、一つだけ、見慣れた名前が目に留まった。
"元山岳部です。山では、大荒れの前に風がぴたりと止むことがあります。凪は、いい知らせとは限りません"
私も、同じことを考えていた。
でも、ダンジョンの空が、地上の山と同じように動くとは限らない。
二十万を超える人が、私の次の一言を待っている。
予報のふりをすることは、できた。
それらしい言葉を並べて、それらしい確率を付けることも。
でも、それは祖父が、いちばん嫌った予報だ。
「分かりません」
私は、カメラを見て言う。
「全国のダンジョンで、同時に魔素が抜けました。こういう記録は、私の知る限りありません。何が起きているのか、明日どうなるのか、今の私には分かりません」
"正直"
"分からないって言える予報士、初めて見た"
"え、こわ"
「なので、ここからは予報ではなく、お願いです。明日は、全国のどのダンジョンでも、第五層より深くへ潜るのを控えてください。外れたら、謝ります。今夜の予報は、ここまでです」
同接の数字は、配信を切るまで、一人も減らなかった。
◇
放送部屋の電話は、切ったとたんに鳴り始めた。
一本目は、富良野の予報士の北見さんだった。
『雨宮さん、うちも白いよ。第三層まで、見たことない色だ』
二本目は九州から。三本目は四国から。
隊長が受話器を肩に挟んだまま、ホワイトボードに地名を書いていく。
十五分で、ボードは地名で埋まった。
白くなっていないダンジョンは、一つもなかった。
四本目の電話を置いたところで、隊長のスマホが震えた。
画面を見て、隊長が顔をしかめる。
「ソラミル社からだ。明日の朝六時に、予定どおり新版に切り替えるそうだ」
「このタイミングで、ですか」
「前から決まってたアップデートだとさ。上の層の数字がこれだけ下がれば、新版は『全国的に安定』と出すだろう、とも書いてある」
数字の上では、それは正しい。
魔素が薄ければ、嵐は起きない。モンスターも弱る。
明日の朝、全国の探索者は、見たこともないほど穏やかなダンジョンに入ることになる。
そう考えただけで、背中が冷たくなった。
「組合として、明日の深層の立ち入りを止められるか、上に掛け合ってみる」
隊長が、ペンを置いて言う。
「ただ、止められるとは言えない。組合が出せるのは、お願いだけだ。魔素が薄いなら稼ぎ時だって連中は、必ず出る」
「……はい」
部屋の隅で、熊谷さんが杖をついて立ち上がる。
モニターの白い地図を、長いこと黙って見ていた。
「十四年潜ったが、白い苔は見たことがねえ」
「私もです。それに、祖父の気圧計が、右に振れたままなんです」
熊谷さんが、机の上の気圧計をのぞき込む。
私がブレイヴラインにいたころ、この針が左に振れるのを、何度も一緒に見てきた人だ。
「しずくちゃん。右に振れるってのは、どういうことだ」
「分かりません。祖父から聞いたことがないんです」
熊谷さんは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、帰り際に一度だけ振り返って、覚えとけ、と言った。
「分からねえときに分からねえと言えるのは、才能だ」
◇
アパートに帰り着いたのは、夜中の一時を過ぎたころだった。
スマホには、神崎さんからのメッセージが一件。
全員、地上に出ました。明日、何か手伝えることがあれば言ってください。
短い返事を打って、机の上に気圧計を置く。
針は、右に振れたまま、少しも戻らない。
祖父が亡くなって、六年になる。
この気圧計は、私が予報士の試験に受かった日に、祖父から直接もらったものだ。
改造のところは繊細だから、裏ぶたは開けるな。そう言われて、一度も開けたことがない。
小さいころ、祖父の家の居間で、この針ばかり眺めていた。
雨の前には、針が少しだけ左へ寄る。晴れる前には、右へ戻る。
空が見えなくても、空が分かる。それが、不思議でたまらなかった。
ダンジョンの魔素を拾うようになってからは、右へ戻るだけで、右へ振れることはなかった。
右は、この針にとって、ずっと何もない方角だった。
開けるな、と言った祖父は、もういない。
今は、中を見なければ、何も分からない。
精密ドライバーで、裏ぶたの小さなねじを四つ外す。
真鍮のふたが、思ったより軽く外れた。
歯車と、細い銅線と、見覚えのない小さなガラスの筒。
それから、ふたの内側に、鉛筆の字が一行。
針が右に振れたら、地上のノートの、最後の一冊を読みなさい。
祖父の字だった。




