第八話
アルバがユーリウスの護衛となる際不自然に思われぬよう、皇帝の発案で大規模な配置換えが行われた。皇帝にはライアー将軍と共に新たにユーリウスの護衛が就くことになり、アルバはユーリウスの護衛に、シエロには新たにカリオンが護衛として抜擢されることとなった。これはあくまでも一時的なものだと関係者が承知しているものなので、内部の混乱は少なかった。
貴族たちは不平不満を申し立てていたが、シエロからアルバが正式に離れたことにダリル侯爵含む元老院側はほくそ笑んでいるに違いない。その証拠に皇太子としての公務の場には、必ずひとり貴族の令息が意味もなく付き添っているようになった。おまけに新しい護衛はベータな上、庶民上がりなので御しやすい。カリオンは随分と馬鹿にされることが多いようだが、どうやら持ち前の明るさで上手い事潜り抜けてくれているようだ。
「俺はお貴族さまたちとは違って見下されることには慣れているし、いざとなれば俺の方が強いですからね。この前どっかのお坊ちゃんに手合わせを頼まれましたが、上手いこと負けてやるのが大変でした」
毎夜ユーリウスと設けている報告の場でカリオンを労ったシエロに、彼はへらりとそう笑ってみせた。シエロの臨時の護衛を選ぶ際、引き続きカリオンのベータ性が大義名分となった。そもそも帝国騎士団にはアルファ以外の者が少ないので、アルファを避けたいとシエロが願えば誰も異を唱えることはできない。舞踏会での出来事はこういう場面で役に立っていた。
報告の場にはシエロとユーリウス、それにアルバとカリオンに加えてヴィクターも参加していた。この計画の総指揮を執っているのはヴィクターで、ふたりの公務を上手いこと振り分けてくれていた。皇太子としての公務は皇帝と同席することも多い上、そこには多数の貴族が関わる。一方ユーリウスの方は単独行動が多く、外国からの来賓の相手や視察などがメインになる。シエロとして公務の場に出るユーリウスは、話を聞く限り随分と貴族の令息たちから馴れ馴れしく言い寄られているようだったが、シエロの方はなんの問題もなかった。ただアルバの傍にいるとどうしても弛んでしまう気を、いつでも引き締めていなければいけないくらいだ。
「前にシエロとして公務に出ていたときと今とではまったく状況が違うと言っていい。シエロの婚約者候補に名が上がっていた男たちは漏れなく全員、ここのところ顔を合わせているぞ。無駄に公務の場にいるし、虎視眈々と狙われているのがわかる。まったく、堕落するにも程があるよ。すべて終わったら、元老院の再編を提案すべきだな」
「お前が皇太子として提案したらいい。僕はそれでも構わないぞ」
冗談めかしてそう言うのに、怒りを通り越して呆れていたユーリウスが笑った。シエロとしても同じ感情を抱いただろうが、その場にいたユーリウスの方が余程陳情を訴えやすい。父でさえ入れ替わった双子の見分けがつかないのだから、ユーリウスがシエロとして提案を出しても疑われることはあるまい。
「お前が無事にアルバと結ばれた暁には、僕たちからの案として父さまに進言することとしよう。それまで泳がせておくのも面白いぞ。誰も僕がユーリウスだと思ってもいやしないんだ。どれほどシエロを想っていると訴えられたところで、見分けがつかないのだから聞いて呆れる」
「苦労をかけてすまないな、ユーリ」
「お前を護るためならこんなことはなんでもない。それにあの場にシエロがいなくてよかったと毎日のように思っているくらいだ。盛りのついたアルファなど目に余るだけだよ。それにフィンレーが随分と助けになってくれている。度を越した男をさり気なく牽制してくれるんだ。フィンレーがお前の婚約者候補筆頭だった事実が役に立っているよ」
あれからシエロは逢う機会がなかったが、ユーリウスはほとんど毎日のようにフィンレーと顔を突き合わせているらしい。フィンレーはダリル侯爵の側近として公務の場に同席するようになり、他の令息たちと同じようにユーリウスをシエロとして扱っているようだ。あの事件から貴族たちの皇子宮への立ち入りが厳しくなっているせいで、彼はこの場に同席することができない。情報はユーリウスか、ヴィクターを通して伝える取り決めにしてあった。
「アルバの前で言うことではないが、フィンレーは中々にいい相手だったと思うぞ。他の男たちとは違ってシエロのことを本気で考えているのがわかる。あの男がもしあちら側についてお前の首を狙っていたらと考えるのは怖いな」
「そうだったとしても、俺は誰にも渡すつもりはありませんが」
突然そうアルバに口を挟まれて、全員が驚きをもって彼を見た。当のアルバはなんらおかしなことを言ったつもりはないと言いたげな様子のまま、シエロへ微かな笑みを向けてくれる。ヒートに関しての不安をアルバに取り除いてもらってからというもの、シエロは確実に向けられる彼の好意を感じ取れるようになっていた。その口からすきだと言われたことは一度もないが、それでもいいのだと想えるくらい、大切に想われているのを感じることができる。
つい頬を笑みに崩すシエロに、カリオンが柔らかな微笑を向けてきた。アルバとの仲を心配してくれていた彼のこと、ふたりの良好な関係性を垣間見てうれしく思ってくれているのだろう。
「シエロにはアルバがついているから安心だろう。カリオンはユーリウスのことをくれぐれも注意して見てやってくれ。アルファとはいえ、危険に晒されていることには変わりがないからな」
ヴィクターの言葉に護衛のふたりが敬礼した。続けてふたりの明日の予定を確認し合ってから、その場がお開きになる。シエロは明後日に国賓として招かれた隣国の大使の接待が入っていたが、明日の公務は休みの予定だった。
「シエロ、顔が赤いな。熱でもあるんじゃないか?」
途中でユーリウスと別れて、アルバと共に自室へと向かったシエロは、扉の前での別れ際にそうアルバから指摘された。少々顔の火照りは感じていたが、それは先ほどアルバから微笑を向けられた名残だろう。彼の指がシエロの前髪を避けて、額が合わさるのに目を丸くする。そんなことをされては更に身体の熱が上がるというのに、アルバにはその自覚がまったくないから困るのだ。
「そんなことをされたら、赤くなるのは当然だろう! お前は僕に好かれている自覚を持つべきだ」
「それは充分持っているぞ。あれだけ好意を向けられていたら馬鹿でも気づく。なぁ、本当に大丈夫か? 普段より香りが甘い気がするが」
扉際に追い詰められて首筋に顔を近づけられると、鼓動が破裂しそうなくらいに高鳴ってしまう。それに気づいたらしいアルバに笑われて、シエロの頬は更に熱を上げる。笑うな! と詰れば、ついかわいくてと柔らかな声音が返ってきた。それにまた胸を高鳴らせてしまうシエロは、どこまでもこの男に敵う気がしなかった。
「僕のこと、かわいいと思っているのか?」
「そりゃあ、自分のオメガはかわいいだろう。そういうもんじゃないのか?」
「さ、さぁ、お前が言うならそうなんだろう」
もうこれ以上はその場にいるのが耐えられなくて、シエロは心配してくれるアルバからどうにか逃げ出すことに成功した。彼の鼻先でばたんと扉を閉めてしまうと、その先で彼がおかしそうに笑うのが手に取るようにわかる。
扉を背にずるずると座り込みながら、真っ赤になった顔を両掌で覆う。鼓動が狂おしいほど高鳴って息が苦しかった。先ほど聞いたアルバの言葉が、声が、耳から離れない。アルバはシエロのことを〈自分のオメガ〉と言った。本当に? と誰かに問いかけるシエロに、本当だと返る声はない。それでもたしかにそう聞こえた。
その言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、その喜びに泣きそうになった。自分のオメガという言葉以上に、甘美な響きの言葉などこの世に存在はしない気がした。
翌朝目を醒ました途端、少し身体がだるかった。最近バタバタしていたから疲れが出たのかもしれない。身支度を整えながら鏡を見て、顔の赤みはないし顔色も悪くはないことを確認する。だるさと言ってもほんの少しで気にならない程度だし、風邪の前兆かもしれない。今日は公務もないし、アルバとゆっくり過ごそうと考えながら部屋を出た。
「おはよう、アルバ。今日は久々に図書館にでも行かないか? 街に出てもいいな」
「それより昨日より香りがまた甘くなっている気がするが、どこかおかしなところはないか?」
部屋の外に立っていたアルバに挨拶もそこそこにそう指摘されたが、シエロ自身には己の香りの程度はわからない。多少だるいことは伝えたが、強いて言えば腹の奥がほんの少しだけ重たい感じがするくらいだ。疲れが出ると感じることがある違和感に過ぎないことも伝えれば、アルバはようやく安堵したようだった。
「僕への気持ちの変化で変わることがあるんじゃないのか?」
「そうかもしれないが、念のためユーリウスさまに確かめてもらってもいいか? 他のアルファに感じない香りなら、俺の問題だということだろう?」
アルバがそう言うので、シエロは朝食の席に着くなりユーリウスの反応を注意深く見てみた。ユーリウスとは向かい合って食事を取るので、香りがすれば彼の鼻には確実に届く。特になにも言われなかったところを見ると、シエロから甘い香りはしないのだろう。
「ユーリウスさま、シエロから甘い香りがしませんか?」
「シエロは特異な体質だから、お前以外のアルファが香りを感じることはないよ。だがヒートとなると話は別だ。それで初めてオメガとして覚醒すると言われているから、僕にも香りがわかるようになるはずだ。だが、今のところはなにも感じないな」
「そうですか。昨日から段々と甘い香りが強くなっている気がしたものですから」
「それはお前の気持ちの変化だと思う。アルファというのは、いとしいオメガの香りには特に敏感だろう?」
にやりとユーリウスに笑われて、アルバは面食らったようだった。納得したのかそれ以上食い下がることはしなかったが、傍で聞いていたシエロの方が恥ずかしい気持ちにさせられる。いくら以心伝心の双子だとはいえ、己の恋路を晒してしまうのは居心地が悪かった。ここ最近の言動を統括するに、アルバは少々己の感情の機微に疎いようだ。
ひとまず落ち着いて朝食を取っていると、慌てたようにヴィクターが食堂へと現れた。傍に来るなり、急遽来賓の対応に出て欲しいと頭を下げられる。なんでも、明日到着予定だった大使が一日早く到着するので、是非今日のうちに逢いたいという連絡がつい先ほど届いた、ということらしい。
「昼前にこちらへ到着する予定なので、是非昼食を共にしたいそうだ。会場は急遽城内に設けることで算段がついている。悪いが今から急いで情報を、」
「僕を誰だと思っているんだ? もうすべてこの頭に入っている」
シエロが余裕の表情を浮かべるのへ、ヴィクターが安堵の笑みを零した。かの国と帝国は親密な関係を築いているため、幼い頃から情報は頭に叩き込まれている。この度の外交の資料も事前に読み込んでいるので問題はなかった。アルバとの色恋に現を抜かしていたとしても、皇太子としての職務はしっかりと果たさなければならない。
城内は非常にバタついていたが、どうにか昼前には来賓を迎える準備が整った。ホールで来賓の到着を待っていたシエロは、現れたのが見目麗しい男であることにまず驚く。シエロの記憶違いでなければ、彼はかの国の第三王子あたりであったはずだ。大使は宰相を務める老齢の侯爵だと聞いていただけに、シエロの中で緊張感が高まる。傍にいたヴィクターも驚きを隠せずにいたので、急遽人員が変更された旨の連絡は届いていなかったようだ。
「はじめまして、ユーリウス殿下。ギデオンと申します。兄君とは一度婚礼の話が出ていたが、実にそっくりですね」
にこやかに手を差し出されて、シエロも初めましてと応じた。そう言われてシエロは、この男がアルバと出逢った日に逃げ出した見合い相手であることに思い当たった。関係強化のために婿候補にと是非進められたものの、シエロのお眼鏡には叶わなかったのだ。
シエロは直接顔を合わせたわけではないが、見合い写真を見せられていたから顔は知っている。外交相手としての情報も頭には入っていたが、それ以上の興味はなかった。だから握られた手をそのまま引き寄せられて、耳元で囁かれた言葉にぞっとした。
「同じ顔なら、アルファでもいいなぁ。それになんだか、きみからは甘い匂いがする」
チクリと小さな痛みを感じて慌てて手を引っ込めた。どうかしたのかと平然とする相手に、なんでもないと笑みを取り繕う。今の痛みはなんだろう? なにかに刺されたような気がしたが、一瞬だけだったので真相がわからない。特に肌に刺された形跡もなかった。
ギデオンは実に気さくな好青年を演じていたが、シエロには違う側面が見えてくるようだった。アルバから離れてはいけないと本能が警告している。背筋を冷たい汗が流れ落ちるのを感じて、シエロはにこやかな笑みを貼りつけたままさり気なく距離を取った。それでも来賓として迎える側である以上、失礼な態度を取ることは許されない。
応接間へと案内する間もギデオンは口を噤む気配はなく、親し気に話しかけてきた。他愛のない話ににこやかな相槌を打ちながら、少々馴れ馴れしい距離感に危機感が募っていく。そうしている間に、不意にあらゆる匂いに鼻が過敏になっていることに気づいた。
常日頃から、城内は清潔に保たれ、目立つ香りがすることはない。それが今や、色々な匂いが混じり合って吐き気を催しそうなほどだった。ギデオンが強い香水でも使っているのかと思ったが、感じる香りはそれだけではない。ギデオンから漂う香りがいちばん強く匂うのは、単純に距離が近いからだろうか。実に不愉快な香りが近づかれるたびに鼻を掠めていく。
「ユーリウス殿下、ぼんやりされておりますが」
ギデオンの言葉にはっとして、会話を聞き逃していたことに気づいた。今や頭痛を感じるほどなのに、シエロ以外はみなけろりとしている。具合が悪いとアルバに縋りつきたかったが、他国の大使の前で失態を演じるわけにもいかない。大丈夫だと笑みを取り繕うにも限界があったが、まだもう少しは耐えられそうだった。
「お加減が悪いようなら、少し休まれては? わたしがお供しますよ」
「いえ、ご心配には及びません。せっかくギデオン王子殿下直々にいらっしゃっていただけたのですから。大使は宰相の方だとお聞きしていたので、驚きました」
「ああ、そのつもりだったのですが、とある噂を耳にしまして」
「噂?」
「シエロ殿下のお相手選びですよ。ヒートの場に居合わせた者が運命の相手として選ばれるとか。それで是非、わたしも立候補したく」
「それは無駄足でしたね。兄の相手はもう決まっていますから」
「ですが殿下は今、まさにヒートを起こしかけていらっしゃる。わたしがその運命の相手なのですよ、シエロ殿下」
その言葉に全身の血が引いていくのを感じた。この場にはアルファの人間しかいない。シエロが感じているこの不愉快なまでの様々な香りは、それぞれのアルファから醸し出されるフェロモンだということに、たった今気づいてしまった。どうやらシエロのオメガとしての嗅覚が、ヒートになって初めて覚醒したらしい。
まだ頭がはっきりしているうちに、この場から逃げ出さなければいけない。にこやかな様子のギデオンに対し、シエロ側の側近たちの表情に緊張が走る。間に入ろうにもふたりの距離が近すぎて、やきもきしている気配まで伝わってくるようだった。
焦るシエロはそのとき、香りの渦の隙間にふわりと挟まる馨しい匂いを捉えた。いつもアルバが傍にいると、微かに香るよく知っている匂いだ。これがアルバのフェロモンだったのか、と自覚した途端、いとおしさが全身に広がっていった。急に身体から力が抜けて、不覚にもギデオンに支えられる羽目になる。
甘いだるさに身体が支配されて立っていられなかった。嫌だと思うのに、触れられる部分がじわりと痺れるようで、己の性を呪いたくなる。それでも、力ない身体を抱き寄せられたときには全身が恐怖で慄いた。不愉快な香りを発するこの男が運命の相手であるはずがない。
「やはりわたしが運命だったか!」
そう嬉々とした声で宣言されても、否定する声さえ出なかった。アルファにがっちりと捕まってしまえば、オメガに逃れる術はない。違う、アルバのはずなのに、と靄がかる頭で考えているうちに、シエロはぐずぐずと泣きじゃくっていた。違うとわかっているのに、そうだったらどうしようと怖がる心が顔を出した。絶対に違うとシエロが言ったところで、アルファの意見の方がどうしても強い。
「そんなに泣かなくとも、すぐに楽にしてやろう。誰か、シエロ殿下のために部屋を用意してはくれまいか?それとも今、ここで番になってしまおうか?」
「ギデオン殿下、シエロさまはお加減が悪いようですので、一端離れてくださいますか?」
うきうきとするギデオンに、ヴィクターが鋭い声を投げた。けれど彼はそれに動じることもなく、まるでシエロはもう自分のものだと言うように抱き寄せてくる。ぞわりと触れられた部分に怖気が走って、ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。助けを求めるようにアルバを見れば、険しい表情でギデオンを睨みつけていた。助けたいのは山々でも、下手な問題を起こさないようにと自分を必死で律しているのかもしれない。きつく握り締められた拳が、怒りに震えているように見えた。
身体が恐怖に強張って動くことができない。普段のシエロは嫌なことは嫌だとはっきり言うことができるのに、圧倒的なアルファ性を前にすると動くことができなかった。アルバに助けを請いたいのに、声が喉に貼りついて出てこない。そもそもわななく唇を開くことさえ難しかった。
「どうして離れる必要がある? ヒートの場に居合わせれば、どうしようといいのだろう?」
「どなたがそんなことを? 是非誰からお聞きになったのか教えていただきたいものです。シエロさまに狼藉を働けば、両国の関係性も崩れますよ」
「ふむ、それは困るな。だがシエロ殿下も限界だろう。可哀そうに、早く抱いてほしいと震えているのがわからないのか?」
「そう見えているのなら、その目は節穴のようですね、ギデオン殿下」
違うと否定できないシエロの代わりに、アルバが至極冷静な声で反論した。冷ややかな声音には静かな怒りが滲んでいる。その声を聞いただけで、恐怖で震えあがった心が和らいでいくのを感じた。アルバへの想いに縋ることで、ギデオンに抱かれている不愉快さを忘れようとする。
早く助け出して、その腕に抱いてほしい。その胸に縋っていとおしい香りを胸いっぱいに吸い込みたい。シエロが今求めているアルファはアルバだけだった。
「お前はたしか、シエロ殿下の護衛だったか。元奴隷だと聞いたが、随分と見目が麗しいな。その顔でシエロ殿下を誑かしたのか?」
ギデオンが馬鹿にするように笑えば、王子の側近たちがご機嫌を取るように同調した。不愉快そうに顔を顰めたアルバが、その手を離せと語気を強める。もはやギデオンに対して敬うことをやめたらしい。
「そいつはお前が触れていいような人じゃない」
「ほう? お前に手が届く相手でもないだろう?」
「それはいちばん俺がよくわかっている。だが、俺はシエロに選ばれた。その光栄をお前に渡すつもりはない」
「選ばれた? 選ばれたとして、なんだと言うんだ? 運命はこのわたしを選んだのだぞ?」
「そう言う割によく平然としていられるな。シエロから香る匂いがわからないのか?」
「たしかに微かな甘い匂いしかしないが、それはシエロ殿下がまだ不安定だからだろう。時期にわたしにしか感じなくなる」
「微かだと? 噎せ返るような甘い匂いがするのに?」
アルバの勝ち誇ったような言葉にギデオンが目を丸くした。王子が唖然と固まっている隙に、シエロはヴィクターに助け出される。すぐ傍にいたアルバに抱き留められると、いとおしい香りに包まれる幸福感を味わった。思わずその胸に鼻を摺りつけてしまえば、安心させるように背に回ってきた腕に強い安堵を覚えた。恐怖が溶けて消えてしまうと、ぐずぐずと鼻を啜りながら、違うのだと弁明する。
「お前の匂いがしたから、それでヒートが、」
「シエロ、大丈夫だ。あの男はお前の運命じゃない」
「でも、」
「ちゃんとわかっている。俺はお前が俺の運命だとちゃんとわかっているから。だから安心していい。お前は俺のオメガだろう?」
間近で、初めて聞く甘い声音で、そんな極上の愛を囁かれたら落ちない方がおかしい。身体の熱が上がって、腹の奥が熟れていくのを感じる。心が完全に陥落してしまったシエロは、もうアルバにぐずぐずにされたいと願うことしか考えられなくなってしまう。
「おい、いくらシエロ殿下に選ばれようと、お前が運命だと決まったわけじゃないだろう!? ヒートはわたしが引き起こしたんだ!」
アルバに甘えるように縋るシエロを見て、ギデオンがそう食い下がった。もう少し意識がはっきりとして身体に力が入っていたら、違うと言い返せていただろう。けれど今はもう、言わせておけばいいと投げやりになっていた。今のシエロにとって大切なのはこの瞬間、アルバが傍にいてくれていることだけだ。
「アルバ、早くふたりになりたい」
嫌がられるかもしれないと頭の隅では考えながらも、シエロの身体は本能の欲に従ってアルバに擦り寄ってしまう。咎めるように小さく名を呼ばれたのは、他人の目がある場所ではしゃっきりしておけと言いたかったからだろう。けれどシエロはもう駄目だった。いとおしいアルファがすぐ傍にいるのに、我慢しろという方が無茶だ。
「アルバ、はやく、」
「シエロ、もう少し我慢しろ」
困ったようにそう零したアルバがなにかを嚙み砕いた。彼の親指に下唇を抑えられた刹那、彼の唇が重なってくる。思わず我に返ったシエロは、開いた唇の隙間になにか苦いものを舌で押し込まれた。それが口の中で苦く溶けて喉を伝ってゆくと、少し頭がはっきりとしてくる。
どうやら抑制剤を飲まされたのだと思い当たると同時に、どうしてという思いに囚われた。ここでヒートに呑まれるわけにはいかないことはわかるし、シエロは自我をはっきりと保っていた方がいい。それでも己のアルファに発情を抑えられたのだという切なさがどうしても拭えない。
立てるか? と促されて、アルバに支えられながらどうにか立ち上がった。身体には力が入らないままだが、先ほどよりは幾分と頭がはっきりとしている。体調不良を理由に暇乞いをすれば、ギデオンが悔しさの滲む視線を投げてきた。そこにぎらりと光る欲望が、シエロの身体をはっきりと欲しているのがわかる。
「シエロ殿下! よくよく国のことを考えたら、その男を選ぼうとは思わないはずです! 実際今まで訪れなかったヒートがわたしと出逢った瞬間に起こったではありませんか!」
「元々シエロはヒートが近かったんだ。お前が原因なわけではない。それとも、確実にヒートを引き起こす方法でも持っていたのか?」
確信を突くようなアルバの言葉にギデオンが声を詰まらせた。それ以上は不利になると思ったのか、へらりとした笑みを貼りつけてそんなわけがないだろうと弁明する。それに大袈裟な溜息を吐いたヴィクターが、この場をお開きにしてくれた。
あとのことは彼に任せて自室へと向かう途中、廊下の角を折れて誰からも見えなくなったところで、アルバに軽々と抱き上げられた。ゆっくりとしか歩けないシエロに痺れを切らしたのだろう、アルバが早足でシエロの部屋へと向かっていく。どうやら早くと急いているのは自分だけではないらしい。そのうれしさに泣きそうになりながら、シエロは頬を笑みに崩した。
部屋に辿り着くやいなや、ベッドへと身体を投げ出される。舞踏会の日の優しさとは裏腹に、アルバにも余裕がないことが知れた。抑制剤の効果が切れてきたのか、シエロも身体の熱がぶり返してくる。少々手荒く押し倒されると、見下ろしてくるアルバが初めて見る男の顔をしていた。まるでシエロを抱きたくて仕方がないような、劣情がその表情から滲み出ているのがわかる。
その顔が信じられなくて、その頬に手を伸ばした。そっと触れると掌に擦り寄られて、その唇を押しつけられる。ああ、許されたのだと、そうわかった。シエロならいい、と言ってくれた言葉の意味をようやく実感する。泣きそうになる胸の内が甘い切なさに疼いて、アルバへのいとおしさにはち切れそうになっていた。
「お前、僕を抱くつもりでいるのか?」
「なんだ、早くふたりになりたいと強請ったのは嘘だったのか?」
「途中でやっぱり無理だと言うのはなしだぞ?」
「誰が言うものか。ここまで我慢したことを褒めて欲しいくらいなのに」
柔らかでしあわせそうに笑う、アルバの顔を初めて見た。それだけでシエロは胸がいっぱいになってしまって、泣きそうになるのを誤魔化すように笑う。伸びあがってその頬を啄めば、驚いたように丸くなった目が笑みに細まって、今度はアルバから唇を奪われた。
強請るように下唇を食まれる、擽ったさに頬が笑みに崩れていった。甘いくちづけを交わすしあわせを噛み締めながら、シエロはアルバにすべてを委ねたのだった。




