表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

第六話

 国政会議でのシエロの意見は、宰相であるカサンドラ公爵の後押しもあって思ったよりもすんなりと受け入れられた。すぐに実行することはできないが、十二分に検討することを父に約束してもらえたので、シエロとしては大満足の結果で終わった。しかし問題はそのあとに起きた。父が急にシエロの相手探しのための舞踏会を開くと宣言したのだ。


「ダリルからフィンレーを候補から外したと聞いたぞ、シエロ。それから元奴隷の男を護衛に抜擢したそうじゃないか。騎士団長から報告が上がっているが、随分と腕が立つらしいな。お前が選んだのは一体どんな男なのか、是非父にも紹介しておくれ」

「アルバは非常にできた男です、陛下。シエロの目に狂いはありません」


 隣に座っていたユーリウスが、不満げな顔をする元老院たちを見回しながら鼻高々に宣言した。それに父が興味深そうに食いついて、早く逢いたいものだと笑みを深くする。


「シエロ、次の舞踏会でお前が自分で相手を選ぶといい。お前が選んだ運命がどんな男なのか、父にしっかりと見せておくれ。いいな」

「陛下、お言葉ですがシエロさまが選んだ男は元奴隷ですよ。まさか由緒正しい貴族や王族の令息たちを差し置いて、奴隷を婚約者に据えるおつもりで?」

「それはシエロ次第だろう。シエロが選んだアルファにケチをつけることはできまい。それともお前たちは、運命のアルファがいながら、自分たちの息子と無理矢理結婚させようと思っているのか? わたしの大切なシエロを不幸にしてもいいと?」 


 至極穏やかな声音の内に、逆らえない厳しさが潜んでいた。ダリル侯爵が悔しそうに頭を下げると、他の貴族たちもそれに倣う。シエロはそれを唖然として眺めながら、父から言われた言葉の意味をよくよく考えていた。


 舞踏会にはもちろん貴族の令息たちや各国の王子など、父のお眼鏡に叶う粒ぞろいのアルファたちが招待されるだろう。その中からシエロは誰を選んでもいい。そして裏を返せば、舞踏会に参加している者の中でなら誰を選んでも文句は言わないということだ。


 突然目の前に活路が見出されて、驚きを通り越して混乱していた。アルバと結ばれるハッピーエンドを示されても、素直に喜ぶ気持ちにはなれない。困ったことになってしまった。もしかしたらユーリウスやヴィクターが上手いこと父を口説き落としてくれたのかもしれない。けれどそれを、シエロはともかくアルバは望んでいないのだ。


 それとも彼は立場をわきまえているだけで、しがらみがなくなれば想いを返してくれるのだろうか。今までは結ばれないと思い込んでいたから、アルバへの想いをぶつけることができていた。彼もそれをわかっていたから受け流してくれていた部分もある。それがどうやら父は許すつもりであるらしいと告げて、一体どうなるというのだろう。散々自分は相応しくないと言っていたあの口が、シエロへの愛を囁くとは考えられない。


 元老院から具体的な文句が出る前に議会は解散した。父から相手をしっかりと選ぶようにと念押しされてから会議室を出ると、ユーリウスがよかったなと満面の笑みを向けてくる。それに笑い返したつもりで、頬が引き攣るのを感じた。うれしくないのかと問われると、上手い答えを返せない。


「どうした、シエロ。父がアルバをお前の運命だと認めると言ったんだぞ?」

「そこまでは言っていないよ、ユーリ。父さまはただアルバを披露しろと言ったんだ。貴族たちの目の前で、僕に相応しいか計るつもりだろう」

「それが憂鬱でそんな顔をしているのか?お前の選んだアルファは僕が見た中でも最高だと思うぞ?」

「そうじゃないよ、ユーリ。そうじゃない」


 シエロの否定にユーリウスが不思議そうな顔をした。

 とりあえず皇子宮まで辿り着くと、弟が手近な部屋に茶を持ってくるようメイドに頼んでくれる。普段は応接間として使われている部屋に茶の用意が整うと、ユーリウスが念入りに人払いをしてくれた。ユーリウスの護衛が扉の外に待機はしているが、中の声はそこまで届かない。アルバは今日、シエロが会議に出ている間は休みだった。


「シエロ、アルバに拒絶されるのが怖いと聞いたぞ。本気であの男にそんなことをされると思っているわけじゃないだろう?」


 ユーリウスの声は、シエロとほとんど同じ声音をしているくせに柔らかく優しかった。それに首を振ったはいいものの、それがどういう意味を示すのかはシエロ自身もわかっていない。


 あの日ヴィクターに話したことは余すことなくユーリウスへ共有されている。双子とはいえ以心伝心とはいかない上に、アルファではオメガの苦しみをわかり切れないと身に染みていながら、ユーリウスはシエロの心に寄り添おうとしてくれていた。隣に座って肩を抱いてくれる、魂の片割れがいとおしい。シエロがアルバを選ぶことで、ユーリウスには苦労をかけるだろう。ヴィクターとの未来を奪うことになるかもしれない。


 そういうことをすべて加味した上で自分だけのしあわせを選ぶ傲慢さを、シエロは持ち合わせていなかった。怖いのはなにも、アルバに拒絶されることだけではないのだ。


「僕たちのことを気にしているのなら、それは杞憂だ。僕もヴィーもお前にはしあわせになってほしいと願っているし、お前がしあわせならあとのことはどうとでもなる。お前がアルバと帝位に就くのが不安なら、僕が代わりになってもいいぞ。まぁ、父さまはまだまだお元気だし、じっくり悩む時間はいくらでもある」

「それでお前は後悔しないか? もし、ヴィクターと結ばれないことがあっても?」

「それは元々想定の範囲内だ。それにヴィクターを以てして乗り越えられないことは、誰にも乗り越えられないさ。それにお前に子が生まれれば、僕が帝位に就いたとしても後継者となりうる」


 そこまで言われてようやく、シエロの心のわだかまりがひとつ溶けた。シエロがいくら気にしようとも、彼らが大丈夫だと言うのなら食い下がる必要はない。ユーリウスは昔からシエロのスペアとしての人生を生きてきた。それが彼の望んだ、弟として生まれた人生なのだとようやくわかる。


「ありがとう、ユーリ。少し心が軽くなった」

「それならもっと軽くしよう。いつものお前なら飛び上がって喜んでいたはずだろう?」


 ユーリウスの言い分はもっともで、アルバに出逢ったばかりのシエロだったらその通りの気持ちを抱いていたはずだ。けれどあの頃のシエロは知らなかった。欲しいものはなんでも手に入れることができていたシエロは、欲しいと願っても手に入らないものがあることを知った。そして気持ちが伴わないものを手に入れたところで、虚しさが勝ることも。


「お前たちが父さまを説得してくれたことには感謝しているよ。だが、アルバにとってこれが最良な選択だとは思えないんだ。それに僕は、今のところアルバが運命の相手だと証明する手立てがない」

「アルバはお前の匂いを嗅ぎ取ることができるだろう。それがなによりの証明にはならないか?」

「周りがわからないからと、口から出まかせを言っていると詰られるだけだ。僕がアルバを選んでもいいことなどない。敵意の目に晒されて苦しむのがオチだ」

「素直じゃないな、シエロ。お前が御託を並べて、アルバから逃げているだけだろう? どういう反応をされるかわからなくて怖いから」


 図星を言い当てられて返す言葉が見つからなかった。ぐっと声を詰まらせて俯くシエロに、ユーリウスが呆れたような笑みを寄越す。それから慰めるように、しっかりとした力強い腕に抱き締められた。


「僕が保証しよう、シエロ。アルバはお前のことを好いている。間違いなくな」

「僕だって嫌われていないことはわかっている。でもアルバは、僕の伴侶には相応しくないと自分で言っていた」

「それは認められないとわかっているからだろう? でも父さまは認めるおつもりだ。お前が選んだ、お前を大切してくれる男なら誰でもな。それにアルバは当てはまる。あの男はシエロを、なによりも大切に思っている。他のアルファに近づくなと憎むほどにな」

「それはお前の妄想じゃないか?」

「そんなことはない。同じアルファだからわかることもあるんだぞ。アルファっていうのは、自分のオメガに対する執着が強いんだ。お前からはアルバの気配がちゃんとする」


 ユーリウスの諭すような声音が擽ったくて、シエロの答える声にも自然と笑みが滲んでいた。こんなところを見られたらアルバに睨まれるなと揶揄されると、勢いよく身体を離される。同じ顔なのにどうしてこんなに柔らかな表情ができるのかと、シエロは時々弟のことが羨ましくなった。シエロ以上にポジティブなユーリウスは、基本的に落ち込むということを知らないのだ。


「とにかく、一度アルバと話し合うことだ。お前の番になりたい男は数えきれないほどいるんだと、思い知らせてやればいい」

「だからこそ相応しい相手を見極めろと言われたんだ。それにオメガが嫌いだとはっきりと言われた」

「だがお前ならいいとも言っただろう」


 突然挟まれた声にふたりして弾かれたように振り返ると、少々不満そうな顔をしたアルバが立っていた。話に夢中になっていたせいでノックの音を失念したらしい。基本返事がない場合、中で危険に晒されている可能性も鑑みて、護衛は無断で扉を開けてもよいことになっている。どうやらいつの間にか、アルバが戻ってくる時間になっていたようだ。


「そうなのか! それはいい!」


 早合点したユーリウスが満面の笑みで、シエロの向かい側へと移動した。先ほど冗談めかしていたように、シエロの傍にいてアルバから睨まれたくはないようだ。アルバがユーリウスに改めて挨拶をしてから定位置であるシエロの背後へと移動した。彼のいないところで彼の話をしていたのがなんとなくうしろめたくて、シエロは背後の気配に過敏になってしまう。


「シエロ、いい機会だから言ってしまえ。先延ばしにしたっていいことはないぞ。僕が証人になるから」

「なんの話です?」


 怪訝そうなアルバの問いにユーリウスは笑っただけだった。たしかに先延ばしにしていたら、言い出すタイミングを見失いかねない。すきな男の前ではいつもの調子が出せないシエロは、このままでは舞踏会本番まで言い出ない可能性の方が高い。


 ユーリウスは柔らかな笑みで見守る体を装っていたが、シエロは結構な圧を感じていた。お前が言わないのなら僕が言うぞ、とその笑みの下で思っているのが手に取るようにわかる。シエロは緊張しだした鼓動を落ち着けるようにひと息吐いてから、今言ってしまった方がいいと自らを奮い立たせた。ユーリウスの前でなら、流石のアルバも断るのに手酷い言葉は使うまい。


 近くに来るように声をかけると、アルバがシエロの傍に片膝をついた。それだけでどこぞの王族よりも格好よく見えてしまうのは、シエロの惚れた欲目だろう。居住まいを正して咳払いをした。口から飛び出しそうな心臓をどうにかして心の内へと押し込める。


「近々僕の婚約者を決める舞踏会が開かれる。その際、お前のことを父に紹介することになった」

「それで、追っ払われやしないかと不安になっているのか?」


 至極真面目な顔で見当違いのことを言われて首を振った。アルバがまどろっこしそうに眉を寄せるのに、俄かに鼓動が逸りだす。言ってしまえと思っているのに、上手い言葉が喉につかえて出てこない。

 そんなシエロを見かねたのか、ユーリウスが助け舟を出してくれた。


「父がそこでシエロに必ず伴侶を決めるようにとおっしゃったんだ。シエロが選んだ男なら誰でもいい。まぁ、その舞踏会は実質お前がシエロの運命なのだと知らしめる場なんだよ、アルバ。シエロの伴侶になりたい男は数えきれないほどいるからな」


 ユーリウスの言葉を咀嚼しているような間があった。それからそうなのか? と問うような視線を投げられて、そうだと勇気を出して頷く。はち切れんばかりの鼓動が誰かに柔く握られているようで気持ち悪い。


「ユーリウスさま、シエロさまとふたりで話してもよいでしょうか?」


 呆れたように嘆息したアルバにそう言われたユーリウスが、二つ返事で部屋を出ていった。扉を閉める間際に、しっかり気張れよと言いたげに片目を瞑るのが見えた。弟のポジティブさの半分でもあれば、もう少し楽観的に捉えることができただろう。そもそものシエロだって、自分がこんなに思い悩んでいるのが信じられないくらいなのだ。


「シエロ、どうして自分で言わないんだ? お前らしくもない」

「僕だって言う勇気が出ないことがあるんだ。お前に関することは特に。フィンレーが僕の意見が婚約者を左右すると言っていただろう? 父さまは本当にそうなさるおつもりだ」

「だったらもっと喜ぶべきだろう? お前がすきな男を選べるんだ」

「選んだら困るくせに。この前、自分で僕には相応しくないと言ったじゃないか」

「だがお前は俺と番になりたいと言ってくれただろう。あのときは陛下に認められるわけがないと思っていたんだ。その状況が変わったんだろう? よかったじゃないか」

「なにがいいんだ。僕はお前を困らせたくないのに、まるで僕と番になってもいいと言っているみたいじゃないか!」


 つい詰るような響きになってしまった。アルバが驚いたように微かに目を丸くして、また重苦しい溜息を吐かれる。そうやって呆れられるたび、わがままな世間知らずだと思われているのだろうなと思ってしまう。シエロとは違う世界で生きてきたアルバからしてみれば、のうのうと甘やかされて育ったシエロは大分子供のように見えるのだろう。

 それが今は、色々な感情がごちゃ混ぜになっているせいで無性に哀しい。


「僕のこと、面倒くさいと思っているんだろう? もっとはっきり、番になれと言えばいいのにと思っている」

「そうだな、よくわかっているじゃないか。どうしてそう言わない?」

「お前がそうしたいと思っていないからだ! 僕はお前を僕に縛りつけたくないんだ。番になったらそれこそ、僕の傍に一生いてもらわなければならないんだぞ」

「そうだな。それのなにが悪いんだ? どうして俺の意見を気にする?」

「気にするだろう! 運命を感じているのは僕だけだ! お前は僕と同じ気持ちじゃない」

「それはお前にはわからないだろう、シエロ。それに俺だってわからない。俺は誰かをあいすることを知らないんだ」


 淡々とした言葉の中に、微かな申し訳なさが潜んでいた。胸の奥が刺されたように痛んで、泣きそうになるのを唇を噛んで怺えた。アルバが悪いわけではないのに、ここで泣いたら彼のせいのようになってしまう。それなのに伸びてきた彼の手に両頬を包まれて、ついぽろりと涙が零れてしまった。


「泣くな、シエロ。お前の番になれと言ってくれ。そうすれば俺はその通りにするから」

「僕のことすきでもないくせに、後悔するぞ」

「それでも俺のことがすきなんだろう。たしかに、俺はお前と同じ気持ちを持ち合わせていないかもしれない。ただ、俺はお前のものになるのは案外いい気分なんだ。それに他の男に敵意を向けなくて済む」

「敵意を向けていたのか?」


 ぽかんとしたシエロは、知らなかったのか? とアルバが微かに笑うのを見た。それだけで胸を占めていたふたつ目のわだかまりが溶けて、きれいさっぱり消えてしまう。ついもう一度、本当に後悔しないのかと念押ししてしまった。今すぐ番になるわけではないので、心変わりをする猶予はまだまだある。それでもアルバがいいと言うのなら、もう二度と手放すつもりはない。


「お前がそうしたいなら俺は従う。お前の願いなら余すところなく叶えてやりたい。だから俺を選べ」

「すきだと言われるより、甘い言葉を囁かれている気分だ」


 なんだか恥ずかしくなって小さな声でそう言えば、アルバの唇が涙を掬うようにシエロの瞼に落ちた。触れられたところがじんわりと熱を持って、その擽ったさに思わず笑みが零れた。それなのに同時に泣きたくもなってくるのが不思議だった。

 そうしてシエロは、うれしくても涙が出るのだということを知る羽目になった。




 それからの日々は目まぐるしくあっという間に過ぎた。ようやくアルバの気持ちが自分に向いているらしいと思い知ったシエロは浮かれ気味で、公務の間も顔を引き締めるのに一苦労だった。一方のアルバは相変わらず仏頂面を貫いていたが、ふたりきりのときはほんの少しだけいつもより態度が柔らかいように感じた。甘い言葉を囁かれたり、触れ合うことはもちろんない。それでも大切に想われているのだと思い返すたび、シエロのしあわせな気持ちは膨らんでいった。


「どうだシエロ!僕の目に狂いはなかっただろう?」


 舞踏会当日を迎えたシエロは、控え室で正装したアルバにぽかんと見惚れてしまった。その反応に満足したのか、ユーリウスがドヤ顔を寄越す。アルバは普段よりもかっちりとした衣装が着慣れないのか、それともこれまでの準備に疲れ果てているのか、若干うんざりとした気配を漂わせている。それでもその見栄えは実に素晴らしかった。


 ふたりの衣装は今回、自分が用意すると言って聞かなかったユーリウスが、国内有数のデザイナーを集めてああでもないこうでもないと連日試行錯誤を重ねた上でできあがったものだった。晴れの舞台でのお洒落に余念がないユーリウスと違って、シエロは人に任せがちだ。今までは大体ユーリウスとデザインを合わせることが多かったが、今回はアルバの衣装と対になるようなデザインになっていた。シエロの婚約者を選ぶ舞踏会であるという触れ込みだが、もはや答えは決まっていると言いたげな衣装に、元老院や令息たちはげんなりとした顔をするに違いない。


 舞踏会の日取りが決まると、シエロの元へはエスコートを志願する手紙が山ほど届いた。せめて最後のチャンスを掴もうとする必死さには恐れ入ったが、そのすべてにお断りの手紙を返して、シエロはその相手にアルバを選んだ。彼は本番までの間ヴィクターとユーリウスから舞踏会のマナーをひと通り叩き込まれたらしいが、その成果はこれからわかる。少なくとも立ち居振る舞いなら、どの貴族令息にも劣らない。


「凄く素敵だ、アルバ。僕のアルファだなんて信じられない」


 ここ最近そんな言葉が易々と口から零れるようになったシエロは、ユーリウスからやれやれと言いたげな苦笑いを向けられた。流石のアルバも面食らったようで、少し照れ臭そうに顔を背ける。その様子が新鮮で、シエロは頬を笑みに崩した。


「その言葉はそっくりそのまま返す。お前こそ、他の男に見せたくないくらいだ」


 本気で言っているのか、はたまた冗談なのかわからない答えに、シエロは声を上げて笑った。その軽やかな笑い声にユーリウスもつられた笑みを零して、しあわせそうでなによりだと言ってくれる。


「勝負はこれからだぞ、シエロ。父さまにアルバを認めさせなくてはな」


 ユーリウスにそう釘を刺されても、シエロの心は浮足立ったままだった。そろそろ時間だと急かされて、アルバと共に大広間へと向かう。シエロたちは皇帝と皇后が入場したのち、ユーリウスのあとで入場する手筈になっていた。すでに両親は入場したと見えて、閉められた扉の向こうから父の演説する声が聞こえてくる。


 ユーリウスの名が呼ばれて恭しく扉が開かれた。優雅に礼をして階段を降りていく背を見送りながら、シエロは緊張する鼓動を落ち着けるようにひとつ息を吐く。傍らのアルバも緊張しているのか、絡めた腕が強張っている気がした。


「緊張しているか?」

「当たり前だ。こんなことになるとは、夢にも思っていなかった。この服もなんだか堅苦しくて似合っている気がしない」

「一夜のことだと思って我慢してくれ。これ以上は望んだりしないから」

「俺はお前の番になるんだろう? これから先、こういうことがまたあるんじゃないか?」

「それは、たしかにそうかもしれない」


 アルバに言われて初めて気づいたシエロに、彼が呆れたような溜息を寄越した。浮かれているシエロとは違って、どうやら彼はもっと具体的にシエロとの未来を考えてくれているらしい。そのことが無性にうれしくて、胸の高鳴りを感じる。アルバの腕に抱き着く力を強めると、歩きにくいだろうと苦笑いが返ってきた。どうやら嫌がられてはいないようだ。


 シエロの名が呼ばれて、再び扉が恭しく開いた。ふたりで光の中へと進み出ると、アルバが優雅なおじきを披露する。彼のエスコートが完璧だったのはさることながら、初めて披露されたアルバの洗礼された美しさに周りから感嘆の声が漏れた。帝国では珍しい褐色の肌と、整った顔立ちは特に令嬢たちの目を惹いている。ひそひそと囁かれる、あれが本当に元奴隷なのかという声も気にならないほど、シエロは勝ち誇った気分だった。己のアルファがいかに素晴らしいかを見せつけられて実にいい気分なのだ。


 舞踏会の会場では数多の招待客たちがこれからの成り行きに固唾を飲んでいた。アルバを伴って両親の前へ進み出ると、待ち望んでいたと言いたげな父から声がかかる。


「シエロ、その男がお前の選んだ男か?」

「その通りです、陛下。彼はアルバ=ラントス。僕を助けてくれた、たったひとりの運命の相手です」


 胸を張ってそう宣言したシエロの言葉に呼応するように、アルバが皇帝に向って恭しく頭を下げた。高いところで並んで椅子に座っている両親が微笑み合うと、満足そうに父が肯いた。


「皇帝、皇后両陛下にご挨拶申し上げます」

「その肌の色は東の国の出か。元奴隷だと聞いていたが、そうしているとここにいる誰にも見劣りがしないな。礼節もしっかりと身に着けておるようだ」

「ヴィクターさまにご指導いただきました。それからユーリウス殿下とシエロ殿下にも」

「それはいい。剣闘士として随分と腕が立つと聞いている。是非我が騎士と手合わせをしてみないか?」


 ぎょっとして頭を上げそうになったアルバが寸でのところで思い止まった。どう答えるのが正しいのかわからないのだろう、思い悩んでいるような間ができる。見上げる父は悪戯を思いついた子供の用な笑みを浮かべている一方、隣の母はやれやれと言いたげに頭を抱えていた。母の反応を見るに、父はアルバの実力を騎士団長から聞いてからのち、己の騎士と手合わせさせたくてうずうずしていたのだろう。


「陛下、ここは舞踏会ですよ。闘技場ではありません。それに礼服では動きづらい」

「シエロ、我々はいつ何時危険な目に遭うかわからぬのだぞ。護衛はどのような状況でも確実に敵を仕留めなければならない。それができぬとは言わせぬぞ、アルバ」

「お許しいただけるのであれば、是非手合わせしたく思います」


 アルバの答えに満足したのか、顔を上げる許しが出た。アルバの頬が強張っているように見えるのは、大勢の前で失態を晒すわけにはいかぬという緊張からだろうか。シエロも至極楽しそうな父が準備を申しつけるのを眺めながら、俄かな緊張感に顔を引き締めた。父の護衛を務めている男は帝国騎士団一の実力者だ。若手の騎士が束になっても叶わないと謳われるほど強いと聞いている。己の騎士を疑いたくはないが、いくらアルバの腕が立つといっても流石に敵うとは思えない。それでもアルバがやると答えたのは、シエロの顔を潰さないために違いなかった。


 招待客たちが円になった中心がふたりの闘いの場となった。用意された模擬戦闘用の剣は、アルバや騎士たちが実際に鍛錬で手にしているものだ。それを手にアルバと父の護衛が向かい合うと、皇帝が闘いの音頭を取るために上座から降りてきた。皆が恭しく頭を垂れて迎える中、母がシエロを手招きする。父が空けた椅子に座って、一緒に見物しようと言っているらしい。


「あの人ったら本当に、これがやりたくて仕方がなかったのよ」


 隣に収まると、母から重苦しい溜息と苦笑いが零れた。父も見目麗しいが、シエロとユーリウスの美貌は完全に母からの遺伝だった。通りすがれば誰もが振り返るような美貌を持ち合わせていながら、町娘に扮して帝国留学を目論むような母である。時折破天荒な思いつきを披露する父とは実にお似合いで、国民たちはその仲睦まじい様子を実に誇りに思っていた。


「アルバ、もしお前が勝てたら望みをなんでも叶えてやろう。なにが欲しいか考えておけ」


 自分の騎士が負けるはずないと高を括って、父が大勢の前でそう宣言した。それに母があんなことを言ってと頭を抱えるのに、シエロは思わず微笑んでしまう。


 なにか考えるようにしていたアルバが、不意にシエロの方を見た。結構な距離があったが、しっかりと目が合ったことがわかる。それにどきりと鼓動を高鳴らせていたら、不意に彼が口端を微かな笑みに吊り上げた。見ていろ、とその顔が自信に満ちるように見える。


「それでは、わたしが勝った暁にはシエロ殿下の番として認めてください」


 アルバの凛とした声に会場が静まり返った。その言葉の意味を飲み込んだらしい貴族たちが、口々にひそひそと囁き合うざわめきが広がる。皇帝が可笑しそうな笑い声を上げて、それはいい! と承諾した。それに抗議の声がいくつか上がったが、真っ向から楯突く勇気のある者は誰もいない。


「シエロ、素敵な方を見つけたのね」


 まさかの言葉に唖然としていたシエロは母の言葉に我に返った。今の言葉は本当にアルバの口から出たものだろうか。自分の耳が信じられないのに、高鳴る鼓動がうるさい。全身の熱が上がったように感じられて、真っ赤な頬を隠すように俯けば、母に微笑まし気な笑みを零された。かわいい顔を見られてよかったわと言われると、なんだか恥ずかしくて逃げてしまいたくなる。


「アルバはお前を好いていると言っただろう? だが、ライアー子爵は手強いぞ」


 いつの間にか傍に来ていたユーリウスの言葉で、ふたりの手合わせがいつの間にか始まっていたことを知った。勝負を見守る招待客たちは、ふたりを遠巻きにしながらも一進一退の攻防をはらはらしながら見守っている。ユーリウスの言葉通り、アルバはライアー子爵に対して善戦しているようには見えるものの、対する相手が悪過ぎた。アルバがいくら有能な剣闘士として実践に長けていても、ライアー子爵は長年皇帝の側近として常に帝国一の実力を保持してきた男だ。見応えのある試合ではあるが、徐々にアルバの方が押されてきているように見える。シエロが目を見張った刹那、アルバの手から剣が跳ね飛ばされた。くるくると回りながら宙を舞った剣は、慌てて場を開けた招待客の間へと落ちた。


「勝負あったな!」


 父の楽しそうな声が終わりを告げて、ふたりが向かい合って頭を下げ合った。アルバは至っていつも通りに見えたが、悔しくないはずがないと思う。子爵から手応えのある手合わせだったと褒められはしても、負けた事実に変わりはない。


 もしこれが演習場であったのなら、もう少し話は違っていたかもしれない。第一、大広間は手合わせをする場には不向きだ。磨かれた大理石は滑るし、動きやすい服装でもない。それでも帝国一の騎士相手に善戦して見せたのだから、アルバの護衛騎士としての能力を見せつけることには成功したはずだ。ただ、負けたことを揶揄する外野がうるさい。


 他の騎士が同じようにライアー子爵相手に善戦したら称賛の声が上がっていたはずだ。それがわかるからこそ、シエロの中でふつふつと怒りが湧いてきていた。それ以上に、シエロのために戦ってくれたアルバを称えてやりたい。この男が己のアルファなのだと、ここにいる全員の前で宣言してその鼻を明かしてやりたい。だってアルバは父に向って、シエロの番として認めて欲しいと言ってくれた。その気持ちを大切にしたいと思うのは、彼のオメガとしては当然だろう。


「なかなかよい試合だったぞ! さすがはシエロが見出しただけはある」

「ですが負けは負けでしょう。これでシエロ殿下の番候補からは外れますかな?」


 皇帝の言葉に続けて、ダリル侯爵が揶揄するように笑った。それに他の貴族たちも呼応して笑うのに、皇帝の表情が温度をなくした。アルバの元へと人混みを掻き分けていたシエロは、その父の様子に足を止める。父の顔から笑みが消えたときは、わりと本気で怒っているときなのだ。


「ダリル、お前の息子はもう候補から外れておろう。それにこれは、シエロが選んだ男の実力をお前たちに知らしめるためのもの。お前たちの息子の誰が、ライアー相手に勝てる? ここまで善戦した男を見たのは初めてだと記憶しているが」

「わたしも陛下に同意します。昨今ではいちばん手応えのある相手でした。アルバ殿はシエロさまに相応しい相手でしょう」


 ふたりに言い込められて、ダリル侯爵が悔しそうに頭を下げた。彼に同意して笑った貴族たちも気まずそうにしながら彼に倣う。シエロはそれをざまあみろと心の中で嘲笑いながら、父とライアー子爵の言葉をしっかりと胸に刻んだ。シエロは父を大分誤解していた。父はシエロに甘いだけではなく、その考えを理解して尊重してくれている。それをわからずに、アルバを隠し通そうとしていた自分はどんなに愚かであったことか。


 父の気持ちがうれしくて、シエロの足取りは軽くなった。しかしそれも束の間、首を垂れる人々の間を縫ってアルバの元へ行こうとしたシエロを、突然の強い力が襲う。腕を強く掴まれて思い切り引き寄せられた。身分の高い者たちしかいないこの場でそんなことをされることなど想定しているはずもなく、そのまま身体が誰かの腕の中へと絡め捕られる。


「シエロっ!」


 慌てたようなアルバの声がシエロの名を呼んだ。はっとしてどうにか離れようと藻掻くシエロを、何者かが力尽くで抑え込もうとする。首を捕らえられそうになるのにぞっとするのと、その気配が消えるのは同時だった。その代わりに、アルバの腕の中へと囲われる。


 随分と長い間抗っていたように感じたが、実際は数分の出来事だったようだ。なにが起きたのかようやく理解した辺りが騒然としだす。数人がかりで抑えつけられた相手から、アルバによって引き離された。珍しくその顔が強張っているように見えるのに、らしくないなぁと笑いそうになる。それが上手い笑みにならなかったのは、助けてもらえて安堵した途端に俄かな恐怖に襲われたせいだ。


「シエロ、大丈夫か?」


 腰が抜けてその場に頽れそうになるのをアルバが支えてくれた。彼が嫌がることはしたくないのに、今だけはとその胸に縋る。シエロが震えていることに気づいたのか、彼が安心させるように抱き締めてくれた。なにかされたのか?と労わるように聞いてくれるのに、一瞬だけ当たった歯の感覚が蘇った。


 噛まれてはいない、と思う。ただたしかに、一瞬とはいえ皮膚に誰かの歯が当たったのがわかった。その誰かは、シエロに選ばれる可能性がないと知って無理矢理うなじを噛んでしまおうと画策したのだろうか。番になってしまえばオメガの方から解消することはできない。それを狙ったのだ。


 その場で言うと大ごとになりそうだったので、シエロは大丈夫だと笑みを取り繕った。取り押さえられた青年は、伯爵家の令息だったように思う。何度か顔を合わせて話をしたことはあるにはあるが、特に記憶に残るような男ではない。エスコートを申し出る手紙の中にも名前があったような気がするが、シエロの認識はその程度だった。


「よくもまぁ、わたしの前で息子に狼藉を働けたものだな。万が一のことがあったらどう責任を取るつもりだ?」


 無様に床へと押しつけられている青年を父が見下していた。それを勇敢にも見返した青年が言いがかりだと弁明する。


「シエロさまと僕は想い合っているのです、陛下! その男に騙されているだけでっ、」

「話にならないな。衛兵、連れて行け。処分は後程伝えることとする」

「陛下! 本当に誤解なのです! 僕とシエロさまは本当にっ!」


 青年の食い下がる悲痛な言い訳は、衛兵に引き摺られるように広間から連れ出されたあとも微かに聞こえてくるようだった。父が重苦しい溜息を吐いて、騒然とする広間中を鋭い眼差して見回す。シエロの婚約者に名乗りを上げようとこの場に集まったアルファたちは、どこか居心地が悪そうに顔を俯けていた。その中には彼と親しく付き合っていた者もいるのだろう。いくらシエロに選ばれないとはいえ、あんな行動に出る者がいることは想定外だった。シエロだけではなく、父も護衛騎士たちも同様だったはずだ。


「陛下、恐れながらシエロ殿下をお部屋にお連れしてもよろしいでしょうか?」


 重苦しい空気を物ともせず、アルバがそう申し出てくれた。正直なところこの場からいち早く立ち去りたかったシエロにとって、それは願ってもいない申し出だった。身体の震えは治まってきてはいても、それはすぐ傍にアルバがいて、守ってくれていると感じているからに過ぎない。気を抜けば恐怖がぶり返して、吐き気を催しそうだった。早くアルバから離れてやりたいのに、そうしてやれないのもつらい心に拍車をかける。


「これ以上この催しを続けることもなかろう。アルバ、シエロのことをくれぐれも頼む」

「その男もアルファでしょう。シエロさまが危険だとは思わないのですか?」


 そう申し出た元老院のひとりが、皇帝に睨まれてすぐに黙った。ダリル侯爵と近しい間柄の貴族で、必ず彼に加担するうちのひとりだったと記憶していたが、今は誰の声だったのか上手く思い出せなかった。父の許しを得たアルバに立てるかと促されて、できないと首を振る。すっかり腰が抜けてしまって、自分では歩くことができそうになかった。


「ひとりでは立てそうにない」

「大丈夫だ、どこへだって運んでやる」


 シエロを安堵させようとしてくれたのか、アルバの声が酷く優しかった。背中と膝裏を支えられて軽々と抱き上げられてしまえば、その優しさがいやに心へと染み渡ってつい涙腺が弛んでしまう。皇太子として弱いところを見せたくはないのに、今はアルバに縋っていたかった。今だけは、己のアルファに守られるか弱いオメガでいたい。


「ユーリウス、シエロの部屋へ案内してやりなさい。それからあとでわたしの部屋へ来るように」


 父の命を受けたユーリウスが優雅に頭を下げてから、先導に立ってアルバをシエロの部屋へと案内してくれた。普段暮らしている皇子宮とは別に、この城の中にもシエロとユーリウスのために用意された部屋がある。皇帝宮と呼ばれる一角に、家族のための私室が設けられているのだ。


 広間から長い廊下を抜けて、階段を上がった西側の区画が皇子ふたりに与えられた空間だった。幼い頃は子供室として使われ、住居を別とした今も大規模な式典が行われるときはこちらを使う。同じく城内に滞在している来賓たちとの交流が便利な上、有事の際は皇子宮に戻るよりも格段に近い。まさかこんな事態が起こるとは夢にも思っていなかったが、シエロは大広間から離れて自室へと近づくたびに気持ちが薙いでいくのを感じていた。


「今日はゆっくり休むといい。僕は戻って父さまを手伝うけど、なにかあったらすぐに知らせてくれ」


 最初の言葉はシエロに、続いての言葉はアルバに向かって念押してから、ユーリウスが戻っていった。しっかりと扉を閉めていったのは、この部屋にふたり以外の誰かが入らないようにとの懸念だろう。念のため外に衛兵が立ってはいるが、どうしても彼らの立場は貴族たちよりも弱くなる。


 ソファへと身体を降ろされて、変に緊張していたことに気づいた。彼に抱え上げられるのは二度目だったが、一度目に比べると随分丁寧な扱い方をされるようになったものだと思う。目の前に膝をついたアルバに顔を覗き込まれると、その表情に心配そうな気配が滲んでいるのがわかった。そこに嫌悪が見て取れないことに、シエロはとりあえず安堵する。


「落ち着いたか?」

「ああ。お前のお陰で大分落ち着いた。不愉快な思いをさせて悪かったな」

「お前は少し俺のことを気にし過ぎているな。運ばれているときくらい楽にしていればよかったのに」


 緊張していたことがバレていたのだ、と赤くなるシエロをアルバが揶揄するように笑った。だって、と言い訳しようと口を開いても、上手い答えは出てきそうになかった。シエロならいいと言ってくれても、アルバが苦手とするオメガであることには変わりがない。その部分はどうしても、気にするなと言われても気になってしまうのだ。


 どうしようもなくすきだからこそ、不愉快に思われたくはない。


「メイドに茶の用意を頼んでくる。他にいるものは、」


 立ち上がったアルバの手を咄嗟に掴んでしまったせいで、彼の言葉がそこで切れた。行ってしまうのが惜しいと思っていた心が、言葉より先に行動として出てしまった。それに驚いたのはシエロも同じで、赤くなっている頬にまたじわりと熱が滲む。


「どうした?」


 言葉の代わりにアルバの手を握り締めたシエロに、彼が目線を合わせてそう聞いてくれた。初めて逢ってからの数か月でアルバは驚くほどやさしくなった。いや、その認識は正しくないかもしれない。ただ態度が乱雑だっただけで、出逢ったときからずっとアルバに助けられてばかりいる。


 シエロに出逢ったばっかりに、彼はオメガの番になる羽目になったのだ。それでもさっき、彼は父に対して認めて欲しいと言ってくれた。シエロが番になってくれと言ったからそうしてくれるのだとわかってはいても、アルバの口から自発的にそう言ってもらえたことがどうしようもなくうれしかった。


 それなのに、その気分はすぐに台無しになってしまった。自分勝手なアルファに抑えつけられた恐怖は、未だにシエロの中で燻っている。あの歯がもし、うなじの皮膚を食い破っていたら。そう考えるだけで生きている心地がしない。もし万が一そうなっていたら、シエロは二度とアルバの番にはなることはできなくなってしまう。


「傍にいて欲しい。お前がもし嫌じゃなかったら」

「どうしてそう俺の機嫌を伺うような言い方をするんだ。出逢った頃は頼むことすら知らなかったのに」


 わざとらしくアルバが溜息を吐いたのが、シエロの気持ちを軽くするための冗談だと伝わってきた。命令してくれたら従う、と彼は暗に伝えてきているのだ。それでも、アルバが変わったようにシエロも変わった。相手に嫌われないように、少しでも好いてもらえるようにと考えて、行動することを学んだのだから。


 アルバが隣に座ってくると、すぐ傍にある彼の存在感に大きな安堵を覚えた。その腕に抱き着きたくなるのは我慢したが、つい頬が弛むのはそのままにする。見つめてくるアルバの頬が微かに弛んだように見えたのは、シエロの震えがすっかり治まったことがわかったからだろうか。


「その様子じゃあ大丈夫そうに見えるが、本当に大丈夫か? あの男になにされたんだ」

「たいしたことはされてない。お前が助けてくれたし、今だって傍にいてくれている。ただ、僕はああいう危険に晒されるのに慣れていないんだ。だから驚いただけで、」

「シエロ、どうして隠すんだ。あの男に噛まれそうになったんだろう。俺が見えていないとでも思ったか? あの場であの男を殺さなかったことを褒めて欲しいくらいだ」


 アルバの手がシエロの手に触れた。あ、と思っているうちに懇願するように握り込まれて、ひんやりとした彼の手にシエロのぬくもりが移っていく。シエロが危機に晒されたあのとき、真っ先にシエロの名を呼んだのはアルバだった。警告を発するような声を出したとき、彼にはすべてが見えていたのだ。


「殺したいと思ったのか?」


 アルバが咄嗟にそう考えてくれたことが意外だった。改めて彼を見てみても、そう思っているようには見えない。ただ冗談を言っているようにも見えなかった。だからそれは、シエロが信じられないだけで本音なのだろう。


 噛まれてはいないのだから、言う必要はないと思っていた。言ってしまえば表沙汰になって、あの男の処分は更に重くなる。命までは取られないだろうが、近いところまではいくかもしれない。そう考えると、皇太子という立場上民を慮るのであれば、中々言い出す気にはなれなかった。


「今も思っている。他の男に噛まれていたらと考えるだけで怖い」

「怖い? お前が? 僕から解放されて万々歳じゃあ、」

「シエロ、お前が言わないのなら勝手に確かめさせてもらうぞ。それから、お前がどう思っているか知らないが、俺は自分の言ったことには責任を持つ。それだけは忘れるな」


 全然甘くもない、いつも通りの声音のくせに、どうしてこんなに頭の芯が痺れるのだろう。シエロが言われたことを理解している間に、うなじに傷ひとつついていないことを確認される。アルバの指が擽るようにうなじを撫でるのに、肌が痺れて甘い疼きを生んでいった。彼にそんなつもりはないのだと自分に強く言い聞かせる。恋しいアルファに触れられるオメガの気持ちを、アルバはきっとわかってはいない。

 シエロだって、たった今自覚したくらいだ。


「噛まれていないってわかっただろう? もうやめて、」


 シエロの必死の懇願は聞き入れられることはなかった。どうしてそんなことをしようと思ったのか、アルバの唇がシエロのうなじへと柔らかに触れる。あんなに怖かった行為と同じなのに、アルバであるというだけで心がとろけそうになるのだから不思議だった。柔い皮膚を唇で食まれる心地に思わず肩が震えた。


「なんだ、お前も欲情したりするんだな」


 なんだか可笑しそうな声音でそう言ったアルバの手に太腿の内側を撫でられた。羞恥に頭が沸騰しそうになって、思わず際どい所へと侵入してくる手を阻むように掴む。こういうことは嫌いなくせに、アルバが楽しそうに見えるのはなぜだろう。シエロを揶揄う口実ができてうれしいと言うわけでもなさそうだ。


「傍にいてくれて助かった。もういいから、ひとりにして欲しい」


 流されてしまいたくなる気持ちをどうにか抑え込んで、アルバの身体を押し返した。なんだか残念そうに見返してきたアルバに溜息を吐かれる、その理由がわからない。


「ああ、俺はヒートの相手をさせてもらえないんだったな。だが、俺は他の男に譲るつもりはない」

「お前、なにを言っている? オメガの相手をするのは嫌なんだろう?」

「ああ、嫌だ。だがお前の相手なら悪くはない」

「ああ言えばこう言う! 僕は己惚れないようにと思っているのに」


 つい唇を尖らせるのに、アルバが笑った。いつもの微かな笑みではなく、明らかにおかしそうに笑われている。己惚れればいいじゃないか、と言われてしまうと、もう反論の余地がなかった。どうやらシエロが思っているよりもずっと、そしてアルバが自覚しているよりもずっと、シエロは彼から大切に想われているらしい。

 だからちょっと、試してみたくなった。今ならもしかして、シエロの願いは叶うかもしれない。


「じゃあキスして欲しい」

「己惚れないんじゃなかったのか?」


 嫌がられたら冗談だと言おうと決めていたシエロだったが、アルバは嫌がったりはしなかった。拍子抜けしたシエロにおかしそうに目を細めたアルバが、そっとシエロの唇を撫でる。焦がれ続けた唇がシエロの唇へと触れた。それは最初の乱暴なくちづけとは違い、震えるほどに優しかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ