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第五話

 シエロとアルバの授業はシエロの公務が早く終わる日の午後、主に皇子宮の図書室にて行われた。図書室は皇子宮の三分の一ほどの面積を占めており、あらゆる分野の書物が床から天井まで設えられた書棚にぎっしりと詰まっている。貴重な書物を保護するために窓は少なく、全体的に薄暗い。床には分厚い絨毯が敷かれ、窓にも分厚いカーテンが吊り下がっているせいで、ここで話す言葉は響くことなく布に吸い込まれてしまいそうな気がした。


 ヴィクターから授業をする心づもりを教えられたシエロだったが、自分が思っているよりもずっと物事を教えることに向いていた。アルバの呑み込みが早いのも手伝って、数回授業を重ねただけである程度の簡単な読み書きができるようになり、子供向けの簡単な本であれば読むことができるようになった。最初は仏頂面で授業を受けていたアルバだったが、日が経つにつれ理解ができるようになってくると、学ぶ楽しさに目に光が宿るようになった。シエロがアルバの笑みを見たのは、少々難解な文章を解読できたときだ。


 自分に向けられたものではないとわかってはいても、その笑みの破壊力はシエロの心臓を高鳴らせるには充分過ぎる。思ったことがすぐ口から出てしまいがちなシエロは、その笑みを見たときについ「笑った!」と声に出してしまった。目を見開いて驚いているシエロをまじまじと見たアルバが、少々バツが悪そうな顔をして自分の頬を触る。それがおかしくて笑うと、今度はたしかにシエロに向かって微かな笑みを浮かべてくれた。

 それがうれしくて、うれしくてうれしくて、ほんの少し泣きそうになる。


「もっとそうやって笑えばいい。すごくいいと思う」

「俺はお前たちみたいに、顔に笑みを貼りつけて生きるのは苦手なんだ。お前だけの特権だと思って内緒にしておいてくれ」

「はは、それはいいな。贅沢なものをもらった気分になる。お前が笑うくらいだ、色々なことを学ぶのは楽しいだろう?」

「ああ。なにかを学ぶことは楽しいのだと久々に思い出した。奴隷に身を落とされてからは、言葉を覚えるのに必死だったからな。楽しさなど皆無だった」


 アルバが再び手元に視線を落とした。そう教えてくれた声音はいつもよりも柔らかで、彼にとっては思い出したくもないつらい過去を語っていることが信じられなかった。シエロはそれに心を痛めながら、もう少し踏み込んでいいものかと迷う。アルバのことを知りたければ直接聞けばいい、と言われたことはある。けれどそれはアルバの気が向いたとき、という条件付きだった。

 今がその、シエロに話してもいいと気が向いているタイミングなのだろうか。そう悩むシエロに気づいたようにアルバが顔を上げた。


「学ぶことが楽しいと、思っていた頃のことを教えて欲しい。お前がどんな風に育って、ここまで来たのか知りたい」

「聞いたってつまらないぞ」

「お前のことが知りたいなら直接聞けと言ってくれただろう?気が向いたから、少し教えてくれたんじゃないのか?」


 勇気を振り絞ってそう言ったせいで、緊張する鼓動が苦しかった。言い淀むような、アルバの言葉を待つ間が永遠のように思える。言いたくないのならいい、とシエロが口を開きそうになった頃、アルバがようやく口を開いた。


「俺は東の辺境の国の出だ。両親はなにをしていたのだったか、それなりに恵まれた環境で育った気がする。もうよく覚えてはいない。少なくとも教育も受けさせてもらえたし、あの頃はいろいろなことを学べるのが楽しかった。だが七つになるかならないかのとき、両親と出かけている最中に盗賊に襲われた。俺の国はここほど治安がよくないから、貴族が襲われることなど珍しくはなかったんだ。それで俺は金になると攫われて、奴隷として売り飛ばされた。両親がどうなったのかは知らない。おそらく生きてはいないだろう」

「どうして早く言わなかったんだ。すぐに調べてやれたのに!」


 思わず声を上げるシエロへ、アルバが呆れたように嘆息した。どうしたって情報は得られないと、わかり切っている者の態度だ。


「言ってどうする? ここからは遠く離れているし、情報を得るのも楽じゃない。それに今更、あの国に俺の居場所などない」


 心からの心配を無碍にされて、シエロの胸はこれ以上なくぎりぎりと締め上げられる。アルバの言い分もわかるが、シエロなら彼の家族を探し出すことができるだろう。しかしいくらお国柄が違うとはいえ、攫われた裕福な家の子供を探さないことなどあるのだろうか。よくは覚えていないアルバの、つらい境遇からの記憶違いということもあり得よう。だがシエロは彼の言葉を信じることにする。


「そのあとは色々なところを転々とした。公用語の勉強をしていなかったから、話せるようになるまで意思疎通に苦労したし、随分と酷い待遇を受けた。けれど奴隷なんてそんなものだろうと思いながら、売られた先での待遇を大人しく飲むしかなかった。丁度商人の護衛としてこの国にきたとき、あの男に剣闘士にならないかと声をかけられたんだ。それで気づいたときにはあの男に売られていた。剣闘士は悪い話じゃなかった。自分で賞金を稼いで身代金を払えば自由を買えるからな」

「そこに僕が現れて、勝手なことをしたというわけか」

「そうだな。世間知らずのお坊ちゃんを助けてやりたいと思ったのは初めてだった。カリオンから聞いているんだろう。俺はオメガが嫌いだ」


 もちろんその事情は把握していたものの、直接本人の口から聞くのとでは衝撃の大きさが異なる。言葉の意味は強かったし、ショックはもちろん受けた。泣きそうになって唇を噛んだシエロだったが、それでもアルバの声のトーンが拒絶を孕んでいなかったことだけが救いだと、自分に言い聞かせて耐える。アルバだって別に、シエロを泣かそうと思って言っているわけではないのだから。


「そういう顔をするから言いたくなかったんだ。だが、俺の口からちゃんと伝えておいた方がいいと思うようになった。俺はオメガが嫌いだ。あの男が見目のいいアルファの奴隷をオメガの貴族に斡旋して荒稼ぎしていたからな。お前に護衛として買われたときも、そういうことだと勝手に解釈した。俺のことを運命だとかほざくし、その上俺の嫌なことはしないと言うし、俺の機嫌を気にして笑わなくなるし」

「ちょっと待ってくれ、それ以上言われると泣きそうだ」

「どうして泣く?」

「すきな男に拒絶されているんだぞ。聞きたくないし、心の準備が欲しい」


 本当に泣きそうだったので、シエロはわざとらしく両耳を塞いだ。子供じみた抵抗だとわかってはいても、実際に拒絶の言葉が続くのなら聞くに堪えない。アルバがそんなシエロに嘆息して、拒絶じゃないとシエロの手を掴んだ。そっと耳から手を外されて、ちゃんと聞いてくれと請われる。


「僕はお前にヒートの相手をさせようと思っていない。もしヒートがきても、だ」


 弁明のようにそう言えば、アルバが怪訝そうな顔をした。それはそうだ、フィンレーからシエロのヒートにはアルバが必要だとだけ教えられて、その詳細を知らずにここまで過ごしている。アルバが自らの秘密を明かしてくれているのに、シエロがなにも言わないのはずるい。


「それはどういう意味だ、シエロ。フィンレーさまも同じようなことを言っていたな。お前のヒートには俺が必要で、ヒートがきたらあの男を呼べと」

「僕はたしかにオメガだが、アルファと双子で生まれたせいか身体がアルファに近いらしい。魔法士が言うには、僕のヒートには運命の相手が必要らしいんだ。それで父さまは僕の運命の相手を探している。フィンレーがお前を必要としたのも、僕がお前に出逢ったことを知ったからだ」


 努めて冷静を装おうとしても、心臓が緊張で高鳴って苦しかった。嫌な冷や汗が背を流れるし、アルバがどう反応を寄越すかが想像できなくて怖い。それでも、言わなければいけなかった。


「僕はヒートのために、お前を利用しているわけじゃない。僕がお前と番になりたいのは本心なんだ、アルバ。でも、それを強要したくはない」

「もし本当に俺が運命の相手なら、どうしてヒートがこないんだ?」


 アルバの言い分は最もだった。そう言うに値する時間は経ている。それに上手く答えられないのは、シエロがいちばんそのことを疑問に思っていたからだった。

 どうしてヒートがこないのか。アルバが運命の相手ではないのか? と怖くなったこともある。けれど本能は彼がそうだと告げていた。魔法士はふたりの気持ちに齟齬があるのが原因ではないかという。


「それは、たぶん、僕の身体が怖がっているんじゃないかと思う。ヒートがきてしまったら他の男と結婚させられる。お前とは一緒にいられないから」


 アルバの気持ちがシエロと同じではないからだとは、口が裂けても言えなかった。嫌われてはいない。きっと少しずつ好いてくれてはいる。けれど彼はシエロと結ばれることを望んではいない。それが痛いほどわかる。


 彼はちゃんとわきまえている。シエロがアルバをすきだと想っていることも、それに応えてはいけないことも。結ばれないことも、想ったところで叶いはしないことも。だから、想いを返してはくれない。

 そう、わかってしまった。


「だから、安心してくれていい。僕はお前にそんなことを強要したりはしないから」

「お前はそうやって、俺の言葉を先回りする癖があるな。そんなに俺に嫌われるのが怖いのか?」

「好いたアルファに拒絶されるオメガの哀しみはお前にはわからないよ。それこそ死んでしまいそうになるんだ」

「だったら、そんなことは二度と心配しなくていい。俺はお前を拒絶しないし、どこかへ行けと言われるまで離れたりしない」


 思わず顔を俯けていたシエロは、弾かれたように顔を上げた。その頬にアルバの手が伸びてきて、いつの間にか流れていた涙をそっと拭ってくれた。別の意味で高鳴った鼓動に頬を赤くすると、彼の眦が微かな笑みに弛んだ。


「さっきの話の続きだ、シエロ。俺はお前だから雇われたんだ。自分でも驚くことに、オメガの相手をさせられようがお前ならいいとさえ思っていた。それだけは覚えておいて欲しい。まぁ、考えてみれば悪い条件じゃない。きちんと給料も貰えているし」

「ダリルの方が条件がよかったんじゃないか?」


 気恥ずかしさを隠すようにそう言ったアルバに、揶揄するような答えを返す。そうしないとつい期待してしまいそうになった。ヒートの相手をしてくれるんじゃないかという、淡い期待を抱きそうになった。


 おそらくそれは期待などではなく、事実としてアルバの中に存在はしている。けれどそうしてもらったら、次は番になりたいという欲がシエロの中から溢れてしまうだろう。それはシエロとしても避けておきたかった。自分の望み通りの人生を選び取ることは、皇太子として生まれた以上できない相談だとわかっている。


「本気でそう思うなら、あの家への認識を変えた方がいい。いずれ皇太子殿下の護衛にしてやるだの、衣食住の保証があるだけマシだろうだの、聞く耳を持つだけ無駄だと思っていたが、いずれお前に差し出すために俺を買おうとしていたのなら説明がつく。自分たちの下に置いておいた方が、いざというとき立場を代わりやすいだろうからな」


 溜息交じりに教えられた内容は、シエロが考えていたことと大体同じだった。このことを父に報告せずにダリルを野放しにしておくべきか迷うが、遅かれ早かれ、他の貴族たちも同じような動きを取ったかもしれない。皇太子の伴侶となればその家は皇族と姻戚関係になれる。将来安泰とまでは言えないが、一時の栄華を誇ることくらいは可能だ。


「仮にあの男がシエロの伴侶になったら共にこの国を治めることになるんだろう?お前がいいと思う相手を選ぶことも大切だが、俺は国を治めるに足る人物を選ぶべきだと思う」

「それは暗にお前を選ぶなと僕を牽制しているのか?」

「俺が統治者に相応しくないことは明白だ。誰も元奴隷をお前の伴侶として認めたりはしない。現に俺を護衛にしたことだって、いい顔されていないだろう?」

「言いたい奴には言わせておけばいい。それにお前が僕の運命だと知れば、全員がお前に期待の目を向けるさ」

「それはあまりいい気分じゃないな」


 アルバが苦々し気にそう言った。シエロのヒートを引き起こすためのアルファだと思われたくはないのだろう。そしてシエロはこのまま、ヒートなどこなければいいのにと願っている自分に気づいた。先ほど彼に自分の身体が怖がっているのだと言い訳をしたことを思い出して、まったくその通りであることを思い知る。永遠にヒートがこなければ、アルバの傍にいられる。いちばん最初に運命だと詰め寄ったのはシエロの方だというのに、結局のところシエロはアルバに心底惚れているだけなのだ。


「そういえば、お前は欲しくないのか?僕を手に入れれば、名誉も地位も欲しいままにできるぞ」


 話しているうちにすっかり勉強する気が失せてしまったので、シエロは机の上に組んだ腕に頬を預けたまま、そうアルバに問うてみる。向かいに座る彼が少し考えたような間を開けて、要らないという答えを返してきた。


「そんなもののために、俺はシエロを利用しようとは思わない。お前はもっと、俺になんか手が届かない存在であるべきだ。敬われて、大切にされるべきだと思う」

「あんまり僕を煽てるのはやめてくれ。お前を想う僕の気持ちは底なしなんだぞ」


 そう唇を尖らせれば、アルバが苦笑った。ついさっきちゃんと笑うところを見たばかりなのに、突然彼の頬の筋肉は随分と柔らかに動くようになったらしい。すきな男の色々な表情が見られることはうれしかったが、それがシエロ以外の誰かに向けられるかもしれないと考えると胸が苦しかった。彼が笑うところはシエロだけが見ていたい。子供じみた独占欲を、シエロはそっと握り潰した。


「俺は統治者には相応しくないと言っただろう。だが、少なくともお貴族さまたちよりは市井のことを知っているとは思っている」

「たしかに、僕はあまり街やその周りの村のことは知らないな。父は昔、よくお忍びで街に出ていたと聞いている。僕も街に出てみたい」

「あんな危ない目に遭っておいて、街に行きたいと言うのか? 俺がいなかったらどうなっていたか、考えたことがあるのか?」

「それはひとりだったからだろう? お前がいれば怖いことはない」


 そうと決まれば、我を曲げないシエロである。アルバは不満そうな顔をしていたが、結局のところシエロの提案に折れる形で、渋々同行させられることとなった。




 そんなわけでシエロはアルバへの授業を数回に一度帝国図書館で行うこととして、それを理由に何度か街に出ることに成功した。帝国図書館は首都の中心にあり、その周りはアカデミーや博物館、美術館などの学術的建造物が立ち並ぶエリアだ。シエロとユーリウスの唯一自由に外出が許される場所でもあり、そこへ出掛けることにするのがいちばん怪しまれないだろう。というのが、相談したヴィクターの意見だった。


 視察などに出るときは帝国の紋章が掲げられた豪奢な馬車を使うが、私的な外出にはもう少し簡易的なものが用いられる。シエロはあくまでも一貴族のお坊ちゃんという体で外出し、護衛にアルバがついているという設定だった。いつもより少々簡素なデザインの服を着て、お忍び用のローブで顔を隠せば誰も皇太子だとは疑わないという寸法だ。


 その日も図書館での勉強を終えたあと、数時間だけという約束でアルバと街に出た。アルバはシエロが思っているよりもずっと街の構造に詳しく、色々なエリアに連れていってくれた。活気のある街を歩き、市井の人々の生活を肌で感じていると、みな中々にいい顔をして生活をしているように思える。もちろん全員の暮らし向きがいいわけではないだろうし、アルバはあえて治安の悪い場所にはシエロを連れていってくれなかった。シエロがすべてを知るためには見るべきだといくら主張しても、危ない目には遭わせられないと譲らなかったので、シエロの方が折れるしかなかった。奴隷であったアルバが酷いと表現する地域が華やかな首都に存在すること自体信じられないことではあったが、それを今後どうにかしていくのも皇太子たるシエロの役目なのだと身に染みる。


 今日は街の東側をひと通り案内してもらったあと、その辺りでいちばん大きいというマーケットに連れてきてもらった。大きな通りの両脇に天蓋付きの露店が所狭しと並び、ぎっしりと並べられた商品の向こうから露天商たちが賑やかに声を上げている。それに張り合う客たちも元気に声を張り上げ、活気が溢れている場所だった。


 街に出るたびに色々なマーケットに連れていってもらったが、ここがいちばん大きいように感じた。果物や野菜を売る露店の向こうには装飾品や日用品を売る店が並び、合間合間に飲み物や軽食を売る店が挟まっている。人々は店を冷やかしたり食べ歩いたりしながら、各々楽しそうな時間を過ごしているようだった。皇子宮からめったに出ず、買い物といえば商人が目ぼしい商品を持ってくるだけだったので、シエロは庶民たちがこうやって買い物をするのだと初めて知ることになった。自分で買いたい物の店に行き、商品を吟味して気に入るものに金を払う。アルバからすれば当たり前の行為を物珍し気にしているシエロは、何度か彼から笑われる羽目になっていた。


「この前のとこもすごかったが、ここも負けず劣らずすごいな! 近くでなにか催し物でもあるのか?」

「いや、ここはいつもこんな感じだ。ここら辺りの地価は高いから、ある程度いい店が揃っていると言われている。物価も他の地域に比べると高めだな」

「そうなのか。アルバはこういうところによく来ていたのか?」

「カリオンがいろんなところに出掛けるのがすきだったからな。暇なときはよく付き合わされた。こうしてお前を案内できているんだから、あいつには感謝しないといけない」

「じゃあなにか土産を買っていってやろう。口止めしておけば他言はしないだろう」

「今度はあいつをお供にしたらいい。俺の知らない場所にも連れていってくれる」

「それは駄目だ。僕がお前と出掛けたいんだから」


 そう言ってアルバの腕に抱き着くと、困ったような溜息が返ってきた。それでも振り解かれることがないとわかっているから、シエロはそれで満足している。人混みの中ではぐれないようにと特別に許可してもらったのだ。


 目新しいものをひと通り見終えたあたりで、香ばしいいい匂いがシエロの鼻を掠めた。街に出るまで庶民の食べ物など口にしたことがなかったシエロだが、マーケットに寄るたびに美味そうな串焼きや焼き菓子などに舌鼓を打つようになっていた。店によって串焼きの味も違えば素材も違うし、菓子なども素朴に見えて味わい深かった。生クリームやフルーツでデコレーションされたケーキは街のパティスリーで売ってはいる。けれどシエロはマーケットで売っている素朴な焼き菓子やパンが結構気に入っていた。


 あの菓子は美味かったなぁと思い出したところで、ぐうとシエロの腹が鳴った。羞恥で頬が熱くなるのへ、アルバがどれが食べたいと聞いてくれた。彼は相変わらずあまり物を食べなかったが、シエロの食べたいものを買ってくれ、残った分を食べてくれる優しさを持ち合わせていた。


「じゃああの串揚げと、あとその隣の、」


 シエロのオーダーを聞いたあと、そんなに食べられるのかと呆れた顔をしながらアルバが露店へと向かった。アルバの姿が見える場所で比較的治安がいいと判断されたところでは、シエロはその間だけ自由を許される。遠くまで行かないことと大人しくしていることを言いつけられてはいたものの、傍の露店を冷やかすことは禁止さてはいなかった。


「あんた、いいとこのお坊ちゃんかい?」


 すぐそばに装飾品を売る店があったのでぼんやりと眺めていたら、露天商らしい女から話しかけられた。ごく一般的な商人らしい格好で、貴族相手にも物怖じしない態度に好感が持てた。シエロがフードで顔を隠しているのを見て、そう判断したのだろう。


「格好いいにいちゃんを連れていたね。あれ、あんたの護衛だろ?今日はお忍びで遊びに来たのかい?」

「そんなところだ。ここは賑やかなところだな」

「この街いちばんのマーケットだからね! うちの商品はお貴族さまの装飾にだって負けず劣らないよ。この珊瑚石は南の海で取れた最高級品だし、この虹色水晶は西の鉱山から取れた最高級品だ」


 女が言うように、並べられている商品はどれも、こんなところではまず出逢えない代物のように見えた。ただそれが彼女が言うように、本当に高級品なのかはわからない。口車に乗せて高額を吹っ掛けてくる商人もいるのだということを、シエロはヴィクターとアルバから口を酸っぱくして言われていた。それに念のため、金を持たせてもらってはいない。そもそも欲しいと思っても、買う手立てを持ち合わせていないのだった。


 アルバが戻ってくるのを待ちながら女の口上に適当な相槌を打っていたシエロは、突然背中に衝撃を覚えた。そのまま前につんのめると、その衝撃で商品がいくつか床へと落ちてしまう。女が声を荒げると、ぶつかってきたらしい男が自分のせいではないと口汚く応戦した。それを呆気に取られて眺めていたシエロへ、突然男の矛先が向く。


「大体、この男がこんなところに立っているのが悪いんだろう! 見るところいいとこのお坊ちゃんのようだし、弁償はこの男にしてもらえ!」


 どうやら昼間から酔っているらしい男は気が大きくなっているらしい。女は納得できないと言いたげな顔をしていたが、男の勢いに呑まれてしまいそうな雰囲気だった。もしかしてこれは、ふたりがグルになってシエロをカモにしようとしているのではないかと疑い始めた頃、騒ぎに気づいたアルバが慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。


「アルバ! 助けてくれ」


 安堵して縋りつくシエロはアルバの背後に庇われてようやく、物事を冷静に判断することができそうだった。男も恰幅がよかったが、長身で仏頂面のアルバに物怖じしたらしい。先ほどまでの威勢は鳴りを潜めて、機嫌を伺うような猫撫で声になった。


「あ、アルバじゃねぇか! てっきり皇太子殿下の護衛に召し上げられたのかと思っていたぜ」

「アルバ、知り合いか?」

「闘技場に出入りしていた武器商人のひとりだ。お前、この女と組んでこの人を食い物にしようとしたんじゃないだろうな」

「ちょっと、言いがかりだよ! あたしはこの男の被害者さ! 商品だって、別に弁償してもらおうと思っちゃいないよ!」


 慌てて弁明したのは女の方で、どうやら本当に無関係らしかった。男もそんなつもりはないと首が千切れやしないかと心配になる勢いで否定するように首を振ったので、シエロはどうやら過去にこの男とアルバの間になにか不穏なことがあったのだろうと察した。


「皇太子殿下、?」


 シエロは顔を隠していたが、フードの下からその容貌が見えたのだろう、男の顔色が変わった。アルバが皇太子殿下の護衛に召し上げられたことを知っていた男は、シエロの正体に思い当たった途端に慌てて地面へと平伏した。どうやら酔いはすっかり醒めたらしく、その口調はしっかりとしていた。


「申し訳ありません、皇太子殿下! ご無礼をお許しください!」


 思いのほか大きな声に、マーケットにいた人々が何事かと足を止めた。それからざわざわと口々にシエロの名が飛び交い、慌てて否定しようとするシエロを前に、飛び出しきた露天商の女が男の隣に平伏した。そんなことをされては体が悪いのはシエロである。しかもそこまで謝られることをされた覚えもない。


「頭を上げてくれ。頼むから」


 ふたりの前にしゃがみ込んだシエロが小声でそう頼むと、不思議そうに顔を上げたふたりが顔を見合わせた。それから言われた通りに立ち上がってくれたので、シエロは心底ほっとする。騒めく人々を落ち着かせるためには顔を晒すしかないだろう。あとでヴィクターにしこたま怒られるなと思いながら、シエロはフードを頭から外した。


 その容貌が光に晒されたとき、人々の間に感嘆の声が広がっていった。それから本当に皇太子なのかと疑念を抱いていた人々が、次々と敬意を表して頭を下げていく。市井の人々はまず、生きている間にこんなに間近で皇太子に見える機会はない。折々の式典で遠目に拝見することが精一杯なのだ。


「騒ぎを起こして申し訳ない。僕は皇太子のシエロ=ガルシアだ。今日は市井の生活を知りたくてここに来ている。いい機会だから、なにか困っていることがあれば教えて欲しい」


 顔を晒す羽目になったのだから、なにか成果を持って帰りたかったシエロに、ひとりの少女がおずおずと手を挙げて進み出た。彼女は隣の露店にいて、今年十四になると言う。


「街には庶民が通う高等学校がありません。わたしたちにもアカデミーの門を開いていただくことはできないですか?」

「俺たちは簡単な読み書きしかできないから、お役人からの書類がわからねぇんだ」

「そうそう! それで税金を吹っ掛けられたりな!」


 少女の言葉に他の露天商たちが同意して、歩いていた人々も口々に各々の不満や意見をぶつけてきた。庶民の学校は東西南北の地区にひとつずつ設けられているが、簡単な読み書き算数だけでそれ以上の教育が望めないこと、金を積まなければアカデミーに入れないこと、役人たちがわざと難しい言葉で書類を作り、高額な税金を吹っ掛けてくること。それはシエロが家庭教師の下で学んでいる間、ひとつも教えてもらえなかった事実だった。それをしっかりと胸に刻んで、できる限り改善できるように努めると伝えた。絶対にできるとは言い切れないが、次の国政会議で議題に上げることくらいはシエロにだってできる。


 シエロの心意気に感動してくれたらしい露店の人たちが、自分の店から様々な土産を持たせてくれた。装飾品などの高価なものは受け取れないと断ったが、野菜や菓子などは有難く受け取って馬車へと戻る。串揚げを食べ損ねて残念がるシエロを、また結果を報告がてら遊びに来たらいいとアルバが慰めてくれた。


 少々帰るのが遅くなったので、ヴィクターが心配を顔に貼りつけてやきもきしていた。そこに大量の野菜やら菓子やらを持って買ってきたもので、ヴィクターの堪忍袋の緒が切れた。なにか絶対に問題を起こしただろうと問い詰められたので、部屋に戻ってからシエロは洗いざらい事情を話す羽目になった。それでもシエロの思惑通り、市井の人々の意見には彼も思うところがあったらしい。


 野菜や菓子はシエロからの贈り物だと称して、アルバが厨房へと持っていった。彼を追い払う体のいい言い訳になり、それらはメイドたちによって各々すきに配られるだろう。せっかくなので菓子のいくつかはヴィクターとの話し合いの際のお供になる。メイドに紅茶を淹れてもらうと、ようやく場が整った。


「僕はこれを次の会議で父さまにぶつけてみようと思うんだ。アカデミーは庶民に門を開いていないのか?」

「入学金が払えるような豪商の生徒は受け入れている。もしくは金が払えなくてもアルファで、優秀さが保証されている場合だな。だがベータやオメガはまず受け入れられない」

「それはおかしい。試験を設けて、合格したものを受け入れる制度にするべきだ。あと優秀さを証明できた者には国が授業料を負担するのはどうだ? そうすれば貴族ではない、アカデミーで学んだ優秀な教師を周りの町や村にも送ることができるだろう。貴族はどうしても庶民を見下すからな」

「それはいい考えだと思う。だが、陛下はともかく、ダリル率いる元老院の老害は首を縦には振らないだろうな。庶民が力を持つと楯突くものが増える」

「国民に学を与えれば国力が増すだろう。犯罪率も低下するかもしれない。あとアルバが治安が悪い地域があると言っていた。そういうところに住まわざるを得ない者たちにも目を向けた方がいいと思う。特にオメガは保護してやらなければ」


 シエロの意見を頷きながら聞いていたヴィクターが感心したように唸った。どうやらここまでの考えをシエロが打ち出してくるとは思いも寄らなかったらしい。幼馴染として、お目付け役として、常にユーリウスとシエロを傍で見守っていた彼の目には、どうしてもアルファであるユーリウスの方が優秀に映るのだ。


「お前はいい意味でも悪い意味でも、アルバに感化されているな。だが、いいものの見方をしている」

「それは褒めているのか?」

「アルバをお前の護衛にしてよかったと言っているんだ。あいつは案外、お前の伴侶に向いているかもしれないな」


 ヴィクターにそんなことを言われたので、思わずシエロは面食らってしまった。上手く表情を取り繕えなかったのは、彼の口からそんな言葉が出てくるとは思いも寄らなかったからだ。


「どうした? 変な顔をして」

「だって、お前が変なこと言うから。そんなことができないのは、ヴィーがいちばんよくわかっているだろう?」

「ああ。だがそれをわかっていて、俺はアルバをお前のために得る努力をした。本当に運命の相手だと証明ができれば、話は変わってくるかもしれない。フィンレーと婚約する気はないと言ったんだろう?そのことにダリルがお冠だ。陛下は現状、見守っておられる状態だ。お前の意見をいちばん大切にされる方だからな」

「フィンレーにも、婚約者に関しては僕の意見が通るだろうと言われた。だが、アルバがいいと言ったところで父が肯くとは思えない」

「忘れたのか? シエロ。陛下は街に忍び出たときに皇后さまを見初められた。結果、皇后さまが身分を偽って留学していた隣国の王女だったというだけで、町娘と結婚すると啖呵を切られた。幼い頃、俺たちはそれを幾度となく聞かされていたじゃないか」

「だが母は王女で町娘ではなかった。アルバとは話が違う」


 そこでシエロは、彼がかつて裕福な家の息子だったらしいという話を思い出した。けれどここでそれをヴィクターに話すのは、妄想も大概にしろと言われてしまいそうで憚られる。元々の身分よりも奴隷として生きてきた年月の方が長いし、今更それを証明することは複雑な手段が必要になる。第一アルバがそれを望んでいない。


「それでも、オメガには運命の相手がいる。お前が結局誰と結ばれようが、お前のアルファはひとりだけだ。アルバを想いながら他の男と番になるのはなによりもつらいだろう。だから陛下はお前の運命を探されていたんだ。それが吊り合う身分の男であれと願いながらな」

「そこまでして見つかったのが、吊り合う身分の男でなかったということか。皮肉なことだな」

「シエロ、あの男の態度はだいぶ軟化してきている。それに目を惹きつける華も実力もある。足りない教養だってかなりのスピードで身につけている。俺から見ても充分優秀なアルファだ。運命だと証明ができれば陛下だって首を縦に振らざるを得ない」

「ヒートがこないのにどうやって証明する!?」


 そう吐き出した悲痛な叫びに、シエロの胸が打ち震えた。自分で自分の心を傷つけてしまうのが痛くて、じくじくと血を流して膿んでいくのを感じる。目を丸くしたヴィクターに恐る恐る名前を呼ばれた。腫れ物に触るような声の響きを申し訳なく思った。けれどシエロだってわからないのだ。

 どうやって、アルバを運命の相手だと証明すればいいのか、わからない。


「大きな声を出して悪かった。僕はヒートがくるのが怖いんだと思う。アルバはオメガが嫌いなんだ。僕のことは受け入れてくれているけど、いざというとき拒絶されたら、きっと生きてはいけない」

「シエロ、そんなことはない。アルファは運命のオメガを拒絶することはできないはずだ。問答無用で惹かれてしまう」

「あれが問答無用で惹かれているように見えるか?」


 そう冗談めかして言うシエロに、ヴィクターがようやく安堵の息を漏らした。アルバのシエロに対する態度はかなり軟化したように思えるとはいえ、ヴィクターから見てもシエロに惹きつけられているようには見えないのだろう。それはそれで哀しい事実ではあるが、シエロは心情を誤魔化すことには成功した。


 アルバにオメガが嫌いだと言われて以来、シエロの心は拒絶される恐怖に怯えていた。アルバは傍にいてくれると言ってくれたし、その言動も最初に比べると格段に優しくなっている。己のアルファに守られている安心感を感じ始めているからこそ、シエロは怖いのだ。もし今ヒートがきてしまったら、アルバからの好意がなくなるのではないか? 言葉ではシエロならいいと言ってくれたが、いざその身体がどう反応を寄越すかはそのときにならないとわからないじゃないか。


「お前が他の男と結婚すると言い張っても、俺はアルバと結ばれることを願うぞ。アルバがそれを承知していても、だ」

「そんなことをしても誰も喜ばないぞ。僕がうれしいだけだ」

「それが重要なんだろう。俺はお前に哀しい思いをさせたくはないんだ。友達だからな」

「それに、いざというときは優秀なスペアがいるしな?」


 ユーリウスを引っ張り出して気恥ずかし気なヴィクターをそう揶揄する。ヴィクターはユーリウスのことをそんな風には思っていないだろうが、いざというときはきっと、彼の片腕として政務の場に就くのだろう。ただしそれはあくまでも最終手段であって、きっとふたりは望んでいない。


 それ故にシエロが有力な貴族や他国の王子たちと婚姻を結ばねばならないのに、ふたりしてアルバとのハッピーエンドを願ってくる。だからシエロはつい、心が揺らいでしまうのだ。シエロのしあわせを願ってくれるふたりの気持ちを無碍にしたくない以上に、自分自身がそう願って止まないから。


「それはともかく、スラムの対策はすでに進められているから安心してくれ」


 ヴィクターが咳払いをして居住まいを正すと、話を元の本筋に戻した。


「学校に関しての意見は俺からも父を通して陛下に進言しておくよ。宰相を味方につけておいた方が心強いだろう?」

「ありがとう、ヴィー。そうしてくれ」


 すべてを承知して部屋から出ていくヴィクターを見送ったあと、シエロはどっと疲れてソファへと沈み込んだ。ヴィクターからあんなことを言われたものだから、いい加減そろそろ戻ってくるだろうアルバに、どんな顔をして逢えばいいのかすっかりわからなくなってしまった。


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