第四話
ダリル侯爵家の屋敷は贅の限りを尽くして建てられた豪華な建物だ。広々とした庭の作りも美しく、フィンレーはよくそこで茶会を開催してはシエロに招待状を送ってくる。令嬢たちから赤髪の貴公子と持て囃される美丈夫で、引く手数多の令嬢たちと婚約を交わさないのはシエロのせいだと、社交界ではもっぱらの噂になっていた。
フィンレーからの招待にアルバと共に出席したシエロは、出迎えてくれた彼から熱烈な歓迎を受けた。アルバの手を貸りて馬車から降りた途端に、彼の手から引き剥がされる勢いで抱き寄せられたのだ。この慣れ慣れしさには慣れているシエロだったが、アルバの前では止めて欲しかった。少々不愉快そうに眉を寄せるアルバが見られたのはよしとしても、すきな男の前で他の男に抱き締められているのは気が進まない。
「よく来たな、シエロ! 逢いたかったぞ!」
フィンレーは少々、好意を抱いた相手への距離が近すぎる傾向にあった。そのせいで令嬢たちから誤解されることも多い。シエロへの求愛は顕著で、幼い頃に運命の相手だと宣言されてからずっと、彼はシエロの婚約者になる気でいる。そんなはずがないとわかっているくせに、思い込みが激しいところは少々面倒くさい。
どうにか抱擁を解いてもらうと、さり気なく距離を取った。庭へと案内してくれるフィンレーのあとをついていきながら、アルバの顔を盗み見る。その視線に気づいた彼が、いつもあんななのかと言いたげな目線を寄越した。事前にフィンレーの言動については伝えてあったが、あそこまでとは思いも寄らなかったのだろう。
茶会の会場はいつも以上に張り切って準備されていた。ダリル家のシェフが腕を振るった料理や菓子がテーブル上に所狭しと並び、傍らではメイドたちが茶を注ごうと待機している。シエロは促されるままフィンレーの向かいに座り、アルバがそのうしろに立った。するとフィンレーがアルバも座るようにと促した。それに丁寧に礼を述べたアルバがシエロの隣に収まる。フィンレーからの値踏みするような視線が気にはなったものの、当のアルバはいつも通りの仏頂面を貫いていた。
控えていたメイドたちにフィンレーが合図を送ると、淹れたての紅茶をカップに注いでくれた。紅茶のいい香りが鼻を擽って、勧められるがままに口をつける。遠慮なく食べろとフィンレーから言われたアルバはしかし、菓子には手をつけようとはしなかった。マナーなく食べる様子を期待していたらしいフィンレーは少々不満げな顔をしている。
「フィンレー、紹介が遅れたが彼が僕の護衛のアルバだ。お前も知っているだろう?」
「腕のいい剣闘士がいると聞いて、父上が目をつけていたんだ。まさか皇室が買うとは思わなかったよ。奴隷が欲しければ俺がいくらでも買ってやったのに」
「言葉が過ぎるぞ、フィンレー。僕はアルバを買ったんじゃない。あくまでも騎士として雇ったんだ」
「それでも金を払ったのは同じだろう?」
「アルバは僕を助けてくれたんだ。僕は僕の身代金を払ったに過ぎない」
「そうは言っても、悪い噂になっているぞ、シエロ。皇太子殿下が好みの男を金で買ったって」
僅かに身を乗り出したフィンレーにそう言われて、シエロは羞恥で全身が熱くなった。恩赦という大義名分を使って奴隷から解放した上で雇ったと言ったところで、考えてみればフィンレーの言う通りだ。シエロはすきな男をどうにかできる権力を持っていて、実際にその権限を発動させた。その事実には、どう言い訳したところで代わりがない。
羞恥に耐えようと握り締めていたシエロの手に、不意にアルバの手が伸びてきた。シエロの力を抜くように優しく撫でたあとで、そっと指を絡めてくれる。そんなことをされたのは初めてで、思わず弾かれたようにアルバの顔を見てしまった。彼の長い指で手を撫でられるたび、心臓を擽られているような心地がする。別の意味での恥ずかしさで頬が赤くなるのを、フィンレーに目敏く指摘された。
「なんだ、シエロ。お前が買ったのは愛人か? お前はそういう男が好みというわけだ」
「フィンレーさま、わたしのことはいくら言われても構いませんが、シエロさまを侮辱するのはお止めください」
アルバの凛とした声音にフィンレーがぐっと押し黙った。それからバツが悪そうな顔をして、小さな声で悪かったと謝ってくれる。それで気が済んだのか、アルバの手が離れてしまったので、シエロは一抹の寂しさを覚えた。それでも庇ってくれたことがうれしくて、頬が弛むのを怺えきれない。
「僕がアルバをすきなことは否定しない。だがお前には関係ないことだ」
「なにが関係ないんだ。俺はお前の婚約者候補じゃないか。それを忘れてもらっては困る」
心外だと言いたげに踏ん反り返るフィンレーに、シエロは鼻で笑い飛ばしてやりたい気持ちをぐっと怺える。知らない男と婚約するよりはマシだと、この男のどこを見て思っていたのだろう。アルバを前に焦っているだけかもしれないが、こんなに不躾な男だっただろうか。しばらく逢わないうちに、他の候補者たちと比べてよく思い過ぎていたのかもしれない。
会話の内容は不穏だったが、茶会が催されている庭の気候は最高によかった。視線を景色へと移すと、不愉快な気持ちに苛まれそうな心が晴れていく。フィンレーは粗探しをするようにアルバをじろじろと見ながら、どっしりと構えている男に歯痒い思いをしているようだった。それをいい気味だと心の中で笑いながら、しかしどうしてダリルはアルバを手に入れようとしていたのかが気になってくる。
まさかダリル侯爵家が専属の剣闘士を雇おうとしたわけではないだろう。フィンレーがアルバを気に入らないのは、彼がシエロの心を捉えているからだ。得ようとしていた奴隷を皇室に奪われたことを恨んでいるようには見えない。聞いて答えてくれるかどうか、と探るようにフィンレーを見て、口を割らせる権限を使うかどうか悩む。
言え、といえばフィンレーは逆らえない。けれどそれをするのをシエロはあまり好まなかった。権力があるからこそ不用意に振るってはいけない。幼い頃より、父からそう教えられていたからだ。
「僕の婚約者はそのうち父が決めるだろう」
「お前が言えば陛下は受け入れるに決まっている。俺はお前の婚約者になるためにずっと努力してきたんだ。事業で帝国に貢献もしている。俺を選んでくれよ、シエロ。その男を傍に侍らせていたっていい。俺たちが恙無く世継を作るには、その男が必要だろう?」
平然とそう言ってのけたフィンレーを、シエロは思わず凝視してしまった。たしかにフィンレーの言う通り、シエロと世継を儲けようとすればシエロのヒートを誘発できる存在が必要になる。けれどそれは少数にしか明かされていない極秘事項だ。たとえ元老院筆頭のダリル侯爵家を以てしても、その秘密を知っているはずがない。
ダリル侯爵がアルバと接触しているのを見たとき、なんのために彼が必要なのだろうと勘繰るヴィクターも、シエロもその理由に思い当たらなかった。けれどフィンレーの愚かな口から零れた言葉でその理由が明白になる。アルバがその表情に僅かな怪訝さを滲ませてふたりを交互に見た。当事者であるのになにも知らないアルバには悪いけれど、ここでそれを明かすことはできない。
なんらかの方法でシエロが運命の男を見つけたことを知ったダリル侯爵は、シエロたちが動く前にアルバを手中に収めようとしたのだろう。そうしてそのあと、シエロに献上して恩を売ろうと考えた。そうすることで侯爵家の所有物であるアルバはフィンレーに逆らえないし、シエロのヒートを誘発したあとでどうにでもすればいい。そこまでの考えに至ったシエロは、ヴィクターを連れてこなかったことを後悔した。ここに彼がいれば、城内に潜伏しているであろう侯爵家のスパイたちをすぐさま洗い出してくれただろうに。
「アルバを傍に置いておけるなら、その選択肢はありかもしれないな。だが、そうなれば僕はお前には見向きしなくなるぞ、フィンレー」
そう冗談交じりに告げて、シエロは自分を落ち着けるために紅茶を飲んだ。傍らのメイドが気を遣って、美味そうな菓子を皿に取り分けてくれる。こんな他聞されている場所でしてよい話ではないのに、フィンレーは彼女たちを追い払うことはしなかった。自分が皇太子殿下の婚約者になるのだ、と屋敷の者たちに知らしめておきたいのだろう。
嫌に速くなった鼓動が落ち着いてくると、さてこの場をどう切り抜けようかと考えた。さっさと切り上げて帰ろうにもまだ始まってから幾ばくも経ってはいない。深める親交もないのだけれど、もう少し彼と会話を交わすのが礼儀だ。けれどこれ以上、アルバを貶めるフィンレーの発言を聞き流すこともできない。
「おいおい、シエロ。俺が顔だけの男に劣ると思っているのか?聞くところによれば文字も読めないそうじゃないか」
シエロの内心を推し測りもせずに、フィンレーが平然とそう言ってのける。シエロの笑みが引き攣るのにも気づいていない。あくまでもアルバを貶めることで、自分の方が優れているのだとシエロに教えようとしているのだとわかってはいる。想い人を貶されて平気でいられる人間が存在しないことを、傲慢な彼の頭は理解ができないのだ。
「どこでそれを聞いた?」
「怒っているのか? お前のことを探るために影を潜ませることは、どの家もやっていることだろう?」
シエロの声が低くなるのをフィンレーが鼻で笑い飛ばした。それで、シエロの心が決まる。
この男と婚約することは、きっと一生ない。
「フィンレー、僕のひと言で婚約者が決まることが本当にあると思うか?」
努めてにこやかにそう言うと、フィンレーが顔を輝かせて身を乗り出してきた。彼はシエロが心を決めて、彼と婚約することを約束すると思っているのだろう。
「お前が選んだ男なら陛下が無下にするはずがない! もちろん、俺のようにそれ相応の身分がないと駄目だがな。これでお前にヒートがくればすべて丸く収まる。そのときはいちばんに俺を呼べよ。相手をしてやる」
歓喜の笑みを浮かべていたフィンレーはしかし、次のシエロの言葉で顔を強張らせた。
「ヒートがきてもお前を呼ぶことはないよ、フィンレー。僕の一存がまかり通るなら、お前とは絶対に婚約はしない」
「お、おい、シエロ。なにを言っているのかわかっているのか? お前は今ダリル侯爵家を除外すると言ったんだぞ?」
「僕はすべて自分の発言には責任を持っているつもりだ。ここにヴィクターがいなくて残念だ。そうすれば直ちに対策を講じられただろうに」
ヴィクターの名前を出すとフィンレーの顔色が変わった。ヴィクターの父であるカサンドラ公爵は宰相として皇帝の右腕を務めている。その息子であるヴィクターもふたりの皇子のお目付け役として、若くして一目置かれる存在なのだ。
「考え直してくれ、シエロ。俺がお前を想っていることはわかっているだろう? その男を貶したことは謝るから」
しどろもどろになって床に膝をつきそうな勢いのフィンレーを前に、シエロは無言で立ち上がった。縋るように伸ばされた手はアルバがさり気なく阻んでくれる。アルバから鋭い視線で睨まれたフィンレーは、元奴隷と蔑んだ相手から見下ろされているにも関わらず食い下がる意気地を見せなかった。それが終いだった。
帰る、と宣言すると、メイドたちが厳かに頭を下げた。アルバを従えて馬車に戻ると、すぐさま走り出した車内で頭を抱える。ついかっとなってしまったが、これはあくまでもシエロの独断だ。国の繁栄のためには気に入らない相手とも婚約しなければならないし、フィンレーの言動ひとつでダリル侯爵家を切るメリットはどこにもない。
「俺が悪く言われたことなど、放っておけばよかっただろう」
アルバの呆れた声音にシエロはぐうの音も出なかった。ヴィクターの小言を考えると城に帰りたかった気持ちも遠くなってしまう。それでも、アルバが悪く言われるのは耐えられなかった。シエロさえ見下していたフィンレーは、シエロの伴侶として得られるだろう栄光がすきなのだ。
「僕のアルバを馬鹿にされたんだぞ。腹が立って当然だ」
「僕のアルバ、か」
拗ねるようにそう言ってしまったシエロは、アルバの復唱でつい本音が零れてしまっていたことに気づいた。アルバの反応を盗み見ながら、嫌だったか?と恐る恐る問う。それに彼が「悪くはない」と答えてくれたので、とりあえず胸を撫で下ろした。
「侯爵家というのはそんなに偉いのか?」
「そうだな。だが爵位はあくまでも位に過ぎない。栄えているかどうかは別だ。ヴィクターのカサンドラ公爵家はダリルより爵位が上だが、ダリルの方が経済的には豊かだ。それ故に文句を言いづらい」
「だからお前に対しても見下したような物言いをしていたのか」
「まぁ、僕がお前を見つけたのが気に喰わなかったんだろう。フィンレーは婚約者の中でも大分有力だったからな。なにも知らない他国の王子と結婚するくらいなら、あいつの方が随分とマシだと考えていたくらいだ」
「俺のことだってなにも知りやしないだろう。それに、運命だなんだと言っておきながら、他の男と婚約とは随分と薄情なんだな」
「なんだ、一応は気にしてくれているのか? 僕に興味がないと言うくせに」
アルバの声に揶揄する響きを聞き取って、シエロもそう応戦した。そうだったな、と答える彼の声がいつもよりも柔らかく感じるのはシエロの聞き間違いではないだろう。
窓に肘をかけて過ぎゆく外の景色を眺めるアルバの横顔は、惚れ惚れするほど整っていた。均整の取れた身体つきも、身形さえ整えれば品のある佇まいも、貴公子と持て囃されるフィンレーにちっとも劣っていない。彼を見たシエロをよく思わない貴族たちが、皇太子が顔のいい男を侍らせていると陰口を叩くのも頷けた。今まで他の男には見向きもしなかったシエロなのだから、猶更だ。
「さっきは庇ってくれてありがとう。まさか手を握ってもらえるとは思わなかった」
「俺もお前を貶されて腹が立ったんだ。俺はお前に買われたつもりもないし」
「僕のために怒ってくれたのか?」
「お前も俺のために腹を立ててくれただろう。それと同じだ。なにかおかしいか?」
ぽかんとしたシエロはそう追い打ちをかけられて慌てて首を振った。庇ってくれたことといい、手を握ってくれたことといい、アルバの中にシエロに対してよい変化が起きていることは間違いないらしい。そう気づいてしまうと、胸の奥がじんわりと温かくなってきた。ついうれしさに弛みそうな頬を引き締めて、これからやらなければならないことを必死に考える。
まずはヴィクターに事の成り行きを説明しなければならない。絶対に盛大な溜息を吐かれる、と考えるだけで、アルバがくれた柔らかな気持ちはすぐに萎んでしまった。
「そんなにヴィクターさまに報告するのが憂鬱なのか?」
「ヴィーは怒ると怖いんだ」
頭が痛いとこめかみを押さえるシエロに、アルバが僅かに眦を綻ばせたように見えた。けれどそれは笑っているというよりは、呆れているように見える。
「俺は正しい判断をしたと思うぞ。あの男と結婚してしあわせになれるとは思えない」
「たしかにな。だが、僕の結婚はしあわせ云々より国にどう繫栄をもたらすかどうかだ。僕のしあわせは二の次だ」
それに、しあわせな結婚を考えようとすれば、相手は目の前にいる男しか選択肢はない。それをわかっていて言えないのは、きっと叶うことがないとわかっているからだ。
「条件だけ見ればフィンレーは悪くない。今日は酷かったが、普段はあそこまでの物言いはしない男だ、とは思う」
「俺に口を出す権利はないな。余計なことを言った」
「いや、お前は悪くないよ。僕の意見がまかり通るなら、僕はお前を選ぶのにな」
冗談めかしてそう言ってみたら、アルバは困ったように眉を寄せた。てっきり馬鹿を言うなと呆れられると思っていただけに、予想外の反応に面食らってしまう。
「俺では身分が吊り合わない。それに学もない」
「なんだ、嫌だと拒絶しないのか?」
「俺はお前の運命の相手なんだろう? だったらお前がそう思うのは自然なことなんじゃないのか?」
「そう、だな、うん。そうだ」
シエロははにかみながら、アルバから言われた言葉を噛み締めた。本当にそうなれたらどんなにいいだろうと、考えることはやめにする。その代わりにひとつ、アルバに提案を投げた。それはアルバに字が読めないと言われて以来、ずっと考えていたことだった。
「身分はともかく、学は得ることができるぞ。どうだ、アルバ。僕が読み書きを教えてやる」
「お前の手を煩わせることはないだろう。暇なときにカリオンに頼む」
「駄目だ!僕がそうしたいんだから!」
勢い余って立ち上がったシオンは突然の馬車の揺れによろめいた。咄嗟に動いたアルバに抱き留められて小さな声で礼を言う。ひとり興奮してしまったことがなんだか無性に恥ずかしい。
その気持ちを払拭するように、きちんと座り直して咳払いをしたところで、馬車を止めた侍従が大丈夫だったかと確認にきた。彼に話によれば、馬車の車輪が轍の石に取られたらしい。問題なく進めると言うので、シエロは後程その石を取り除いて置くように指示して話を終わらせた。扉が閉まって、また馬車が静かに動き出す。
侍従が来てくれたお陰で、シエロは大分焦った気持ちを落ち着けることができていた。つい先ほど大きな声を出してしまったのは、いい考えだと温めていたことをあっさり棄却されそうになったからだ。それにシエロではなくカリオンから文字を教わると言われたことに傷ついた。特に他意のない、シエロの忙しさを考えての発言だろうと、傷ついたことには変わりがない。
「ともかく、僕が文字を教えてやる。いいな」
「お前がそうしたいのならそれでいい」
彼が断わるはずがないとわかっているのに、受け入れてもらえたことに安堵した。自分から言い出しておきながら人に物事を教えたことなどないシエロが、ヴィクターに泣きついたのはここから数時間ほどあとのことになる。




