第三話
後日必ずアルバを連れていくと約束したカリオンは、数日後に不満顔をしたアルバを連れて登城した。その日から数日間シエロはアルバに逢わせてもらうことはできなかった。護衛騎士として働くにあたっての心構えを身につけ、騎士としての能力を測るための時間が必要だったからだ。
シエロとユーリウスが暮らす皇子宮は広大な城の敷地の中でも奥まった場所に位置している。それはオメガとして生まれたシエロを護るためであったが、いかせん騎士たちの詰め所からは遠過ぎた。公務や授業の合間にその姿を見に行ける距離ではないのが残念でならない。
それでも、同じ敷地内に彼がいるのだと考えるだけで心が浮ついていた。普段は気に入らないアルファを撥ねつけるような態度を取っているシエロが、愛想よく笑いかけてくれたと令息たちの中で噂になるほどだ。その結果シエロは、庭先でふたりきりの茶会を開いているときにユーリウスから小言を言われる羽目になった。心を開いてもらったのでは、と期待する令息たちの浮つき具合に、ユーリウスが辟易したせいだ。
「お前が自分のアルファを手に入れたのは僕だってうれしい。だが気をつけなければ、他の男たちが図に乗るだろう」
「別に愛想よくしているつもりはない」
「その浮つきが顔に出ているんだよ、シエロ。頬が笑みに弛んでいる。お前のその顔で微笑まれたら、その辺の男はイチコロだ」
ユーリウスに重苦しい溜息を吐かれた。そんなに弛んでいるだろうか、と頬に触れてみても、自分としては普段通りにしているつもりのシエロである。それに“お前のその顔で”と言ったユーリウスだってまったく同じ顔をしているのだ。
「ユーリが笑うのと変わらないだろう?」
「鏡で顔を見たことがあるのか?お前の方はなんというか、すきだという気持ちが滲み出ているのがわかる」
「そんなにわかりやすいか?」
「ヴィーが見たら小言を言われるな」
苦笑ったユーリウスが優雅に紅茶椀に口をつけた。それは困るな、とシエロも同意して、自分の頬を指でこねくり回した。それで笑みに弛むのを元に戻せるとは思っていなかったが、少しは意識してしかつめらしい顔をしてみる。それを見たユーリウスにおかしな顔をしていると笑われたが、シエロはアルバに逢うまでの自分がどんな顔をしていたのかをすっかり忘れてしまっていた。
「ヴィーから話を聞く限り、向こうはお前に好意を示していないという話だけれど、それはどうにかなりそうか?お前の匂いがわかったという話は聞いたが」
それが悩みの種なのだ、ということは言わずともユーリウスに伝わったらしい。痛みだしそうな頭を労わるようにこめかみを指で捏ね繰り回しながら、シエロはアルバの感情に乏しい顔を思い浮かべていた。思わず見惚れてしまうその容貌は、笑わないせいで一見怖く見えるし、反論する声にも冷たさや呆れが滲んでいる。それでもシエロに対する思いやりはゼロではない。ゼロではないと思いたい。
危ない場所だとわかっているからこそ、シエロとは二度と逢わないと言った。オメガが不用意にアルファの前に姿を現す危険性を、アルバはきちんと理解しているのだ。世間知らずに見えるシエロを、ただ一般論で諭しただけかもしれない。けれどそこに滲む優しさのようなものを感じて、シエロはアルバを手元に置くことを決めてしまった。この先、彼の方からも想いが返ってくる可能性は推測できない。嫌われている確立の方が高そうだ。それでも彼は断らなかった。断れないと悟ったのかもしれないが、それでも嫌だとは言わなかった。
その事実だけに、シエロは微かな希望を見出している。傍にいて、アルバの人となりを知って、シエロのことも知ってもらう。彼にとってみれば、甘やかされて育った皇太子など面倒くさい男かもしれない。それでもどうにか口説き落として、少しでも長く傍にいてもらえたらいい。
「運命を感じているのは僕の方だけだと言っただろう?この前顔を合わせたときも、僕のことをすきなような素振りはまるでなかった」
「口説き落とせる勝算は?」
「今のところはまるでない」
「ヴィーから護衛騎士になれと啖呵を切ったと聞いたぞ?」
ユーリウスに笑われて、あのときは勢い余ったことを認めてしまった。アルバはシエロの運命であることはほぼ間違いはないと思う。けれどそれと気持ちが別であることを、シエロは生まれて初めて知ったのだ。
「それでも、僕はすきな男の傍にいられることがうれしい。どうせそのうち、僕は他の男と結婚しなければならないんだ。だったらそれまで、すきな男を侍らせておいたって文句は言われないだろう」
「お前がそれでいいなら僕はいいけど。だが、僕の大切なシエロを傷つけたら、たとえお前のアルファでも容赦はしないぞ」
ユーリウスがわざとらしく怖い顔をしてみせるので、シエロは思わず笑ってしまった。アルバへの恋は叶わないと最初からわかっていた。わかってはいたのだけれど、あまりに強烈な引力で惹きつけられてしまったものだから、どうしても欲しくなってしまった。だってこれは、シエロの生まれて初めての恋なのだ。
「シエロ殿下、ユーリウス殿下、ヴィクターさまが新しい護衛を連れてまいりました」
ふたりで歓談していたところへ、メイドがそう伝えにきた。ユーリウスが連れてくるようにと言うと、頭を下げてそそくさと退散する。遂に逢えるのだと思った途端、シエロはそわそわと落ち着かなくなってきた。胸が浮ついて、擽られているような感覚がする。それを面白そうに見ていたユーリウスから、遂には少し落ち着けと紅茶を注がれてしまった。
「お前がそんなに舞い上がる男は、いったいどんなアルファなんだ?」
そう苦笑うユーリウスの前に、ヴィクターがふたりの男を引き連れてやってきた。浮ついて落ち着きがないカリオンは騎士の制服が似合っていない一方、落ち着き払っているアルバは護衛騎士の制服をピシッと着こなしていた。その不愛想に不満が滲み出ていようと、その姿は貴族令息だと紹介されてもおかしくはない。その見目の麗しさには思わず、ユーリウスも関心を込めてシエロを見た。見惚れていたシエロは、机の下で弟から足を蹴られてようやく我に返ったほどだ。
「よく似合っているぞ、アルバ!すごくいい!」
立ち上がった勢いあまって、テーブルの上の茶器をひっくり返しそうになった。思っていたよりもずっと舞い上がっていることに気づいて苦笑っても、心配そうな顔をするカリオンを他所にアルバは動じてはいない。ヴィクターに溜息を吐かれて、少しは落ち着くようにと窘められた。
「浮かれるのもわかるが、その様子じゃあすぐに陛下にバレるぞ。長くアルバを傍に置いておきたければ、その浮ついた心を隠す術を身につけろ」
「ヴィー、少しくらい浮かれさせてやれよ。いざというときは、僕がシエロのふりをするさ」
ユーリウスの言い分にヴィクターが溜息で答えた。それからカリオンとアルバを座るようにと促して、自分もユーリウスの隣に腰かける。カリオンとアルバは隣同士で、ヴィクターとシエロの間へと座った。華やかな菓子が載るテーブルを前にそわそわとするカリオンに、アルバが落ち着けと小さく嘆息した。
「これが落ち着いていられるかよ。こんなの生まれて初めて見たんだぜ」
「カリオン、殿下たちの前だぞ」
「別に構わない。非公式の場だし、これはお前たちを歓迎するために用意したんだ。マナーは追々覚えていけばいい」
シエロがそうフォローして食べるように促すと、カリオンは満面の笑みで手を合わせてから手近な菓子をひとつ手に取った。一応マナーを学んできたらしく、がっつきたいのを怺えているのが目に見えて微笑ましい。騎士たちは良家の子息が多いから、その中でも彼は浮いてしまうだろう。けれど彼の持ち前の明るさでどうにか切り抜けてくれることを願うしかない。
一方のアルバは菓子に手をつける様子はなかった。静かに茶を飲む様子は正装しているせいか、凛と洗礼されているように見える。彼の出自を知らなければ、良家の出だとシエロでさえも信じてしまいそうだった。
「甘いものは苦手だったか?」
「あまり好きではありません」
「そうか。それなら別のものを用意させよう。茶会ではなく晩餐に招待すればよかったな」
「俺のために手を煩わせる必要はありません」
「アルバは普段からあまり人前で食事はしないんです。俺もあんまり見たことがない」
アルバの言葉に戸惑っていたシエロは、カリオンのその言葉に救われた。どうやら彼は普段から、態度がきついアルバのフォロー役に回っているらしい。なんだか、自分ばかりが空回りしているなと落ち込みながら、へこたれるわけにはいかなかった。彼を傍に置くと身勝手に決めたのはシエロなのだから、どんなに冷たい態度を取られようと傷ついている暇などないのだ。
「皇子さまが双子っていうのは本当だったんですね。でも、ふたり並べて見ると違いがちゃんとわかる」
「今のシエロはふわふわしているからな。気を引き締めているときなら、僕たちの見分けはつかないだろう」
「たしかに、ユーリウスさまのふりをしていたとき、全然わかりませんでした」
「そういえば、お前はシエロを見破ったんだったな。僕たちの入れ替わりを見抜いたのはお前が初めてだ。どうやってわかったんだ?」
ただ黙って座っていたアルバはユーリウスから水を向けられて、視線を彼の方へと向けた。その視線にわかって当然だろうと言いたげな様子が見て取れるのは、ユーリウスがアルファだとわかっているからだろう。
「俺からすれば、どうしてわからないのかが疑問です。アルファならどちらがオメガかくらいはわかるでしょう。それに、捕らえられていたときもシエロさまがオメガだと皆わかっていましたよ」
「それは単なる見た目からの判断だろう。オメガは小柄で見目麗しいからな。僕のシエロほど麗しいオメガは存在しない」
ユーリウスに肩を抱き寄せられて頬を押しつけられると、同じ顔してなにを言っているのだろうと呆れる気持ちが増してきた。鬱陶しがって弟の腕から逃れると、揶揄するようににやりとする。それを溜息で一蹴すると、気を取り直すように紅茶に口をつけた。
ユーリウスの言う通り、オメガはアルファやベータに比べると小柄で、見目がよい傾向にあった。もちろん個人差があるのでその通りではないが、貴族社会で美麗だと持て囃されている令息の多くはオメガであり、令嬢の場合はアルファである。オメガは男性特有の第二性であり、元々子を孕める女には存在しない性なのだ。
アルファの男性は体格が優れていることが多いが、シエロと双子であるユーリウスはシエロと同じように華奢で小柄だ。それでも身体能力は彼の方が勝っているし、シエロが苦手な剣の実技も得意だ。騎士団と手合わせする際にはいつも有能な騎士たちを転がしている。そもそもオメガとアルファの双子自体が珍しく、帝国史上では初めてのことだと言われていた。それゆえにシエロはアルファ性が強く、オメガの発情期が遅れているのだと推測されている。
「俺もそう思います。アルバが必死に護ろうとするのも頷けるっていうか」
「カリオン」
菓子を茶で流し込んだカリオンがそう言うのへ、アルバが咎めるように名を呼ぶ。しかしカリオンは慣れているのか、口を閉じるつもりはなさそうだ。
「そんな怖い顔するなよ、アルバ。俺は見たぞ。あの日、あいつらから護るためにシエロさまを自分のオメガだと宣言したじゃないか。それに大勢の前で、」
「お前だってシエロさまを抱きたいとか言っていただろう」
「おい、それをここで言うか!?冗談ですよ?あのときはシエロさまが皇太子殿下だと知らなかったし」
アルバの応酬にしどろもどろになるカリオンを彼が鼻で笑った。シエロは気安いそのやり取りを少し羨まし気に眺めながら、あの日のことを思い返してしまう。アルバのその言葉が護ってくれるための建前だとわかってはいても、「俺のオメガ」という言葉の響きにはときめかずにはいられなかった。そのあとのくちづけを思い出して、ひとり頬を赤くして俯く。その様子に気づいたユーリウスが笑う気配がして、カリオンに話の先を促した。
「誰もお前のことを咎めたりはしないよ、カリオン。それより、そのあとなにが起こったんだ?」
「ユーリ!そのことはもういいだろう」
「お前が教えてくれないから聞いているんじゃないか。正確に把握しておかないと、成り代わるときに支障が出るだろ」
「お前が知りたいだけじゃないか。とにかく、そのことは話さなくていい」
ついむきになったシエロはわかったと残念そうなユーリウスに宥められた。ひとまず安堵はしたものの、抜け目のない弟のことだからそのうちカリオンから聞き出してしまいそうだ。それでも今、くちづけされた話をアルバの前でされるのは避けることができた。これ以上彼に不愉快な想いをさせたくない。
「そうだ、成り代わるといえば、明日の公務だが、また父さまがお前に相応しいアルファを用意しているらしい。あまりいい顔をするんじゃないぞ」
「わかっているよ、ユーリ。お前のふりをするつもりで挑めばいいんだろ」
そうしておけば少なくとも頬がにやけることはないだろう。それがいいとユーリウスも同意したので、それ以上の小言は聞かずに済んだ。ヴィクターがそろそろお開きの時間だと言って、メイドたちにテーブルを片付けさせる。カリオンはヴィクターと共に騎士の宿舎に戻るというので、アルバの案内はシエロたちに任された。そしてユーリウスはふたりが行ってしまうと、用事を思い出したと言ってそそくさと退散してしまう。
アルバとふたりきりで残されたシエロは俄かな気まずさに襲われた。いきなりふたりきりで残されても、嫌われている自覚がある手前どう接していいかわからない。結局普段通りの笑みを取り繕うことにした。不愛想の下でなにを考えているかわからない男でも、流石に主を無碍にしたりはしないだろう。
「これからお前はここで暮らしてもらう。ユーリの護衛騎士もここで暮らしているから、あとで挨拶をしておくといい」
「ユーリウスさまには護衛がいるのに、シエロさまにはいらっしゃらなかったのですか?」
少々ぶっきらぼうな響きは隠せないが、丁寧な言葉遣いで話されると、途端に距離を感じて寂しくなった。アルバは目上の者には敬語を使うようにと指導されたことを実践しているだけだ。それにそうだなと同意して、アルバについてくるように促した。
「懸想されては困るからと、僕の護衛は日替わりなんだ。万が一のことがあったら困るからな」
「それなのに、俺を護衛にすると?」
「僕にもそろそろ専属の護衛騎士が必要な時期だったんだ。いつまでもヴィクターに手間をかけさせるわけにはいかないし、僕がお前に傍にいて欲しいと思った」
「ああ、そう言えば俺のことを運命だと言っていましたね」
「そういうことだ。それに、お前は僕に興味がないと言った。だから襲われる心配はない」
平然を装い、少し笑みを浮かべながらそう言ったはいいものの、事実が自らの心を抉ってきた。それでもそれに気づかないふりをして、淡々と言葉を紡いでいく。
「さっきユーリが言っていたように、僕は定期的に父が用意したアルファと顔を合わせなければいけない。でもお前がいれば牽制になる。僕が僕のアルファを見つけたことはすぐに噂になるだろうからな」
「牽制していたら、いいお相手に巡り合えないのでは?」
「僕の婚約者はいずれ、父さまが適当な相手を見繕うだろう。これはただ運命の番に出逢うための過程でしかないんだ。でも僕はもうお前に出逢った。だからもう必要ない」
「言っている意味がよくわかりませんが」
「それは追々話すよ。今は案内に集中しよう。あと、ふたりのときは敬語を使わなくていい」
「そういうわけには」
「僕が皇太子だと知らなかったら、普段通りに話していただろう?なんだかお前が知らない人みたいに感じて寂しい」
「お前こそ、俺に啖呵を切った威勢はどこに置いてきたんだ」
溜息と共にそう言われたのに、シエロは零れる笑みを怺えきれなかった。それでとりあえず、アルバがシエロの提案を受け入れてくれたことがわかって安堵する。
「僕のことは名前で呼んでくれ。そうして欲しい」
「流石に無礼過ぎないか?」
「僕がいいと言うんだからいいんだ」
そう言うシエロにアルバは反論する気はなさそうだった。案外普通に会話をしてくれる彼は、話しかければ応えてくれるらしい。あまり鬱陶しがられない程度に話しかけていこうと気持ちを奮い立たせながら、シエロは彼を自室の傍の待機室へと案内した。
今日からはここがアルバの私室になると告げると、流石に驚いたのか、僅かにその目が丸くなった。待機室とは名ばかりで、シエロの部屋よりは狭いものの、それなりの調度で設えてある。特にベッドの柔らかさなどは今まで暮らしてきたところとは比べ物にならないはずだ。アルバが物珍しそうに部屋中を見回すのを眺めながら、初めて見る反応にシエロの頬が笑みに崩れた。
「どうだ?気に入ったか?」
「こんな部屋は無相応過ぎる。俺はお貴族様じゃない。床で寝られれば充分だ」
「僕の護衛騎士にそんなことさせられるわけないだろう!申し訳ないが、ここは折れてもらうしかない。ふかふかのベッドで寝ることに慣れてもらわなければ」
座ってみろと促して、シエロもベッドへと腰かけた。シエロのものに比べれば小さかったが、寝心地は充分によさそうだ。アルバはそんなシエロを疑るように眺めながらその場から動こうとはしなかった。
「とにかく、この部屋はすきに使っていい。必要なものがあれば用意するから、メイドに申しつけてくれ」
「護衛騎士というのは主になにをすればいい?見たところ、お前に危険は及びそうにないが」
「そうだなぁ。父さまの護衛はいつもしかつめらしい顔で立っているな。お前のその顔は護衛にぴったりだ」
そう揶揄すると、流石のアルバも面食らったようだった。それを小さく笑えば、アルバから面倒くさそうな溜息が零れ落ちる。
護衛騎士は主に主要貴族の令息の中から選ばれることが多く、皇帝や皇子の右腕として政治的に活躍する者も少なくはない。父の護衛騎士は実際彼の名代を務めることもあるし、ユーリウスの護衛も貴族の中では有能な男だ。けれどシエロはアルバにそんなことはちっとも求めていなかった。ただ傍にいてくれさえすればいいのだから。
「まぁ、仕事に関しては追々覚えていけばいい。明日は違う護衛がつくからゆっくり休んでくれ。この屋敷の中は自由に歩き回っていいし、必要であれば図書室に入ってもいい」
「明日は他のアルファに逢うんだろ。さっき牽制のために傍にいろと言わなかったか?」
「明日はその必要はない。それに、お前のことはまだ父さまには隠しておきたいんだ」
「そんな甘い匂いをさせておいて無事でいられると本気で思っているのか?」
「だから僕の香りを感知できるのは、」
その先の言葉は驚きで喉に詰まった。気づいたらベッドに仰向けになっていて、アルバの端正な顔に見下ろされていた。一瞬止まりかけた鼓動が息を吹き返して、早鐘のように高鳴りだす。アルバの指に顎を掴まれたと思ったら、首筋に鼻を押しつけられた。
「アルバ!? なにしてっ、?」
「微かだがたしかに甘い香りがする」
「それはお前にしかわからないんだって!」
「だとしても、不用意に男とふたりきりになるべきじゃない。簡単に組み敷かれるとわかっただろう」
至極冷静な注意を孕んだ声音なのに、すきな男に組み敷かれているという状況だけでシエロの心はとろけてしまった。アルバにならこのままなにをされてもいいのにと願ってしまった途端に、見下ろしてくる彼の冷えた表情から更に熱が引いていく。それを見て、シエロの頭も途端に冷静になった。浮かれた頭から血の気が引いて、こういう反応をしてはいけないのだと悟る。
とにかく気をつけるようにと嘆息されて、身体が離れた。少々乱暴だが優しい手に起き上がらせてもらいながら、泣きそうになる気持ちを必死に怺えた。
勝手に期待して勝手に傷ついたのは自分なのだから、アルバはなにも悪くない。最初からこの想いが彼にとって迷惑なのはわかりきっていたことなのに、それでもいちいち心は痛んでしまう。思わず黙ってしまったシエロに一応の責任は感じたのだろう、アルバが乱暴なことをして悪かったと謝ってくれた。
「いや、少し驚いただけだ。ああいうことをされたことはないから」
「お前は皇太子殿下だったな。これからは手荒な真似をしないように気をつける」
そうしてくれと力なく笑いながら、頬が僅かに引き攣るのを感じていた。それでもすきな男の傍にいられる幸福を考えたら、傷つくくらいなんともない。そう考える頭とは裏腹に、心が上げる微かな悲鳴をシエロは聞かないふりをした。
「皇太子殿下っていうのはお暇なんですか?」
自分の試合を終えてシエロに気づいたカリオンが、揶揄するような笑みを浮かべながら近づいてきた。今日の公務はユーリウスに変わってもらったので、彼のその物言いは正しくなくとも外れてはいない。演習場の端に設えてもらった急ごしらえの観覧席で、シエロは実技演習を見ながら茶を飲んでいたのだった。
「今日の僕の仕事はアルバの雄姿を見守ることだ」
にっこりと完璧な笑みを浮かべたシエロに、カリオンが少々呆れたように「はい、はい」と適当な返事を寄越した。なんだそれはと一応食い下がるのへ、彼が笑みを噴き出す。彼らが城へ来て一か月あまり、ベータである彼は案外使い勝手がよく、シエロの臨時の護衛を引き受けてくれることもあって、冗談を交わせるくらいの仲にはなっていた。それとは対照的に、アルバは当初の態度をちっとも崩してはくれない。ああいう男なのだ、というのがカリオンの意見だった。
「しかしアルバは強いな。うちの手練れたちがまったく歯が立っていない」
「実践経験の差じゃないですか?先輩たちには俺だって勝てるときありますよ」
「お前も案外腕が立つんだな」
「シエロさま、馬鹿にしているでしょ」
カリオンが拗ねて見せるのに悪びれもせずに謝って冷たい茶を勧めた。もう少し演習場に近いところではメイドたちが冷えた茶を騎士たちに振舞っている。アルバに打ち負かされてへとへとになった男たちが、我先にと群がっているのがおかしかった。
事の発端は数日前、騎士団長がシエロの元へ訪れたことだった。彼は伯爵家の当主で、代々帝国の騎士団をまとめる立場を担っている由緒正しい家の出だ。身分に対する偏見を持っているわけではなかったが、シエロが勝手にアルバを護衛騎士に任命したことに少々思うところがあったらしい。表向きは剣闘士として有能な男であるアルバに是非騎士たちと手合わせをして欲しい、との要請だったが、その裏にはアルバの実力を見極めたいという思惑があったのだろう。どうかご検討を、と頭を下げられて、シエロは二つ返事で了承した。アルバの実力を甘く見られていることに腹が立ったし、この一か月ただシエロの傍にいるだけのアルバは随分と退屈しているだろうと思ったからだ。
そんなわけで、本日は朝からアルバと騎士団の精鋭たちとの模擬演習が行われている。シエロは是非とも見学したいと申し出て、こうして演習場の端で見学させてもらっていた。皇太子を前に情けない姿を見せられないと意気込んでいた騎士たちは、アルバを前にまったく歯が立っていない。プライドの高い貴族の息子たちはアルバのことを好き勝手噂しているとシエロの耳にも入っていた。あからさまに見下していた奴隷上がりの、顔だけでシエロに選ばれたと思っていた男に打ち負かされるのは一体どんな気分なのだろう。
それを考えるだけで、シエロの心も晴れ晴れしくなる。
「アルバのやつ、シエロさまが見ているからって張り切り過ぎじゃないですか?俺のことも容赦なく叩き潰しやがって」
「そういえば、僕が捕まっていたとき勝利を譲ってくれとか言っていたが、アルバに勝てたことはあるのか?」
「最初の頃は何回か。俺の方があいつより剣闘士としては先輩なんで」
「年は同じくらいだろう?」
「そうですね。俺は地方の村の出で、貧しくて剣で身を立ててやる!って傭兵になったんですけど、ほら、皇帝陛下のお陰で昨今戦なんてないでしょう?だから剣闘士になったんです。十五くらいのときだったかな。それからしばらくして、主催者がアルバを連れてきたんです。あいつは自分のことを話さないからよくは知らないけど、東の方からいろんな奴隷商を経由してここまで来たらしいですよ。元々どっかの商人の用心棒として雇われていたとか言っていたかなあ」
「そんなつらい生い立ちがあるなら、勝手に雇ってしまった僕のことを嫌うのも仕方がないな」
カリオンが話してくれるシエロの知らないアルバの話に心を躍らせていたシエロだったが、すぐにそんな気持ちは萎れてしまった。カリオンが教えてくれたアルバの生い立ちが正しいものかはわからない。けれど奴隷として働かされ、売られて買われてを繰り返してきたらしいつらさは、ぬくぬくと大切に何不自由なく育てられたシエロには上手く想像することもできない。すっかり気落ちしてしまったシエロにカリオンは慌てたようだった。茶でも飲んでください、とティーポットを取り上げようとして、その繊細さに躊躇する。それがおかしくて笑うと、彼の肩から変な力が抜けた。
「シエロさまが哀しい顔をすると俺まで哀しくなります。それはアルバも同じだと思うな」
「まさか。話しかければ答えは返ってくるが、笑わない上に冷たい言葉ばかり返ってくる。運命の相手というのは、互いに強く惹かれ合うものだと思っていたのに、アルバにはまるでそんな気配がない。すきなのは僕の方ばかりだ」
「俺はそんなことないと思いますけど。あいつ、剣闘士の筆頭に躍り出てからも勝利に執着したことはなかったんです。でも、シエロさまが賞品になっていたときだけは気迫が違った。少なくとも助けたかったのは本当だと思うし、実際助けてもらったでしょ」
「そうだな。元々傍に置いたのは僕のわがままだ。でも、どうも僕が好意を示すのは嫌がられている気がして」
視線の先でアルバがまたひとり騎士を打ち倒した。主審を務めている騎士団長が情けないと言いたげな厳しい表情で首を振る。何人もの騎士を相手にしたあとだというのに、彼は少し息を乱している程度に見えた。汗を拭う仕種が眩しくて、シエロの胸は高らかに鳴る。こうして遠くから姿を眺めているのがいちばん平和な気がしてしまう。
あの日以来、シエロはアルバに対して好意を見せないように注意していた。あのときの冷えた表情を思い返すたび、胸の奥が鋭く痛んだ。またあの顔を向けられたら、今度は笑って誤魔化せる自信がなかった。それに笑って流せるからといって、傷つかないわけではない。
「あー、それはたぶん、アルバがオメガを嫌っているからじゃないかな」
随分と言いづらそうなカリオンの言葉は尻つぼみにどんどん小さくなっていった。察するにシエロの耳には入れたくない情報なのだろうが、それを聞き逃すシエロではない。言ってしまった後悔が顔に出ているカリオンには申し訳ないが、彼はシエロの命令に逆らえる立場ではなかった。
「ほら、アルバってあの見た目でしょう? ヒートのお相手にとオメガたちから請われることが多くて」
「それは、金にものを言わせてアルバを買うということか?」
「もちろんアルバは断っていましたよ! でもほら、シエロさまもご存じでしょう。俺たちの雇い主はがめつい男だったんで、そこに商売の匂いを嗅ぎつけた。それであいつは貴族のオメガ相手にヒートの相手をさせられていたんです、けど、」
カリオンがシエロの様子を伺うように、気まずげに伏せていた視線を上げた。腸が煮えくり返りそうなシエロは無理に笑みを取り繕って、それでも怺えきれない怒りを爆発させる。
「あの男、今すぐ捕まえて問い質してやる! もし番になっていたらどうするつもりだったんだ!?」
「そこは買う側もリスクは承知だったようです。アルバに強い抑制剤を飲ませて、理性を失わせないように配慮していたとか、」
あくまでも人づてに聞いた話だ、とカリオンは弁明した。そうであっても、その話の内容を放っておくことはできなかった。万が一、番関係が結ばれてしまっていたらオメガの方からは番を解消することができない上、アルファから捨てられたオメガは廃人のようになってしまう。その危険を知った上でその商売に手を出している悪徳さを見逃すことはできない。
「それはのちほど、ヴィーに対処させよう。アルバの他に被害者がいる可能性もある」
そう冷静を装いながらも、シエロの怒りは次第に恐怖心へと変わっていく。もしアルバが知らない男と番関係を結んでいたらと考えるだけで、うすら寒さを覚えた。それと同時にオメガの傍にいることを強要してしまった自分に嫌気がさしてもくる。もしかしたらアルバはそのオメガたちと同じように、シエロにもヒートの相手をしろと言われると考えているのかもしれない。
「僕は最低だな」
溜息を吐いて気落ちするシエロに、カリオンが狼狽える気配がした。いずれヒートの件はアルバに打ち明けるつもりだったが、打ち明けたところでシエロがオメガであるという事実には変わりない。それにアルバが運命の相手ならば、そのうちシエロにもヒートがきてしまう。そうなったら、彼を苦しめることになるのではないか。
考えれば考えるほど窮地に陥っている気がした。ユーリウスに見られたら、いつものシエロらしくないと笑われるだろう。それでもこの状況を笑い飛ばせるほどシエロのメンタルは強くはなかった。
「最低だなんて思っていないですよ! その状況から助け出してくれたのもシエロさまなんですから」
「そうだとしても、その貴族たちと同じようなことをしてしまった。だが、幸い僕にはまだヒートがきていない。それにアルバに相手をさせるつもりもない」
「ええ!? そうだったんですか!?」
「まさかお前も僕がそのためにアルバを雇ったと思っていたのか? 流石に僕はそこまで人でなしじゃない」
「でも、シエロさまはアルバのことすきなんですよね? すきならほら、抱いてほしいとか」
「カリオン、誰にも聞かれていないからと不躾なことを言うものじゃない。そういうことは強要するものじゃないだろう。今のところ、僕とアルバが結ばれる可能性は限りなくゼロに近い」
自分で言っておいて胸の奥が痛んだが、それでもカリオンのお陰で呆れた笑みを零すことができた。シエロの言い分にカリオンがそんなことはない! とわざとらしく大きな声を出したので、その声が届いたらしい演習場の方で何事かとざわめく気配がする。それを揶揄するように叱れば、すみませんとカリオンが頭を掻いた。
「随分と楽しそうだな。俺には笑わないくせに、カリオンには笑うのか」
はっとして顔を上げると、いつの間にか傍にいたアルバに見下ろされていた。思わずびくっと肩が震えるシエロに彼が嘆息して、目線が合うように膝をついてくれる。あの日組み敷かれて怯えていたシエロを威圧しないようにとの配慮を感じた。そのささやかな優しさに、心が少し和らぐのを感じる。
「別にお前の前でも笑っているだろう」
「いや、この一か月でどんどん笑わなくなっている」
「お前の顔が怖いからじゃないか、アルバ。そう思うなら、もっと優しい言葉をかけてやれよ」
カリオンがそう助け舟を出したところへ、アルバに鋭い視線を向けられて押し黙った。重苦しい溜息を吐き出されたところを見ると、シエロに優しい言葉をかける気も、笑いかける気もないと見える。それに落ち込むなと言い聞かせても、心が勝手に沈んでいった。シエロはいつも通りに接していたつもりだったが、アルバの態度を気にするあまりそうなってしまっていたのだろう。
もうなにもかもが悪循環だ。
「カリオンを睨むな、アルバ。僕の話し相手をしてくれていただけだ」
「俺の試合を見たいからと公務をユーリウスさまに代わってもらったのに、カリオンと喋っていたのか」
「お前のことはちゃんと見ていた!手練れの騎士たちを打ち負かしていくのは愉快だったぞ。僕の目に狂いはなかったことが証明されただろう」
「あの男たちはお前に色目を使っていた奴らだろ。これで少しは牽制になったか?」
「なんだ、僕のためにやると言ったのか?」
その問いにアルバは答えなかった。それがかえって答えになって、おや、と思ったのはシエロだけではなかったようだ。カリオンがにやりとした笑みを向けてくるのに、沈んでいた心が僅かに浮上した。アルバは傍にいるだけで牽制になると言ったシエロの言葉を、彼は覚えていてくれた上、忠実に実行に移してくれたのだ。それが、驚くほどにうれしい。
「充分だよ、アルバ。それに最近はカリオンに護衛を任せているし、あの男たちが僕に近づくことは少ないんだ。思い上がることはもうないだろう」
「そうだったな」
「なんだよ、俺がシエロさまの護衛になるのは不満か?」
「いや、他のアルファが近くにいるよりはいい。早く俺を公表してくれれば、そんな必要もなくなるだろうとは思うが」
「そ、そうだな。だが、お前はあんまり僕の傍にいたくないのかと思って、」
思ってもみなかったアルバの本音が零れて、シエロはついしどろもどろになってしまった。しかも本心を吐露してしまってぎょっとする。思わず赤くなった頬を隠すように俯けば、アルバからまた重苦しい溜息が零れた。顔を上げろと言われて、これではどちらが主かわかったものではない。それでもシエロは、己のアルファに逆らうことはできなかった。
「シエロ、俺はお前の傍にいたくないとは一度も言っていないだろう。お前はいつも通りにしていればいい」
「僕から好意を寄せられるのは迷惑だろう。この前そういう顔をしていた!」
「迷惑だとは思っていない。ただ、お前はいつか別の男と結婚するんだろう。自分でそう言っていたじゃないか」
「それは、うん、そうだけど、」
「だったら、お前の好意に応えるのは馬鹿みたいだろう。手が届かないとわかっているのに」
「なんだ、アルバ!お前シエロさまのことちゃんとすきなんじゃないか!」
そう茶化されたアルバが思い切りカリオンを睨みつけたが、今度は屈するつもりはないようだった。気心知れたふたりの言い合いをぼんやりと耳に入れながら、シエロは真っ赤になる顔を両掌で隠して、痛いくらいにときめく鼓動をどうにかしようと奮闘していた。
アルバの言葉は他の男と結婚しなければ、シエロからの好意に応えるつもりがあるように聞こえた。きっとシエロの都合のいい耳がそう解釈しただけだ。そうわかってはいても、この一か月の勝手な誤解が解けたことに変わりはない。
すきでいてもいいのだと、認めてもらえたような気がした。アルバの真意は違うかもしれないけれど、そうであると勝手に解釈させてもらおう。今はそれだけで充分だ。
「カリオン、そろそろ戻れ。俺の代わりに手合わせの相手を頼む」
「はぁ!?俺が!?」
「騎士団長からのお達しだ。俺は少し休憩する」
「わかったよ」
渋々と言った体で頷いたカリオンが、シエロに頭を下げてから演習場の方へ戻っていった。ひとり残されたアルバに座るようにと促すと、テーブルを挟んだ椅子に大人しく腰掛けてくれる。どうやらシエロの傍で休憩してくれるようだったので、空いたグラスに冷たい茶を注いだ。
「こんなところで護衛もつけずに、ひとりで大丈夫だったのか?」
「心配せずとも、カリオンが共にいてくれた」
「随分と楽しくお喋りしていたようだな」
「お前の話を聞いていたんだ。僕はお前のことをなにも知らないから」
「だったら俺に聞けばいい。いちばん正確に教えてやれる」
「なんだ、話してくれる気があるのか」
「そうだな。気が向いたら話してやる」
揶揄するような声の響きにシエロが笑うと、彼の口端が僅かに吊り上がるのを見た。笑った!と内心浮かれる気持ちを表には出さぬように気をつけながら、それでも自然と笑みが深くなってしまった。そんなシエロに、アルバが悪かったなと謝ってくる。
「なにがだ?」
「随分と怖がらせていたんだろ? だが、お前が言ったんだぞ。しかつめらしい顔をして立っていろと」
「なんだそれは、冗談を言っているのか?」
たしかにそう言った覚えはあったけれど、まさかそれを本気にしていたとは思わなかった。笑いが止まらないシエロに、流石に笑い過ぎだとアルバが眉を寄せた。それでも打ち解けて話ができていることがうれしくて、シエロの笑いはしばらく収まりそうになかった。
「俺は不愛想だし、優しい言葉もかけてやれない。そういう男が必要なら他を当たった方がいい」
「いや、それでも僕はお前がいいよ。だから僕はお前が嫌だと言うまで傍に置いておくことにする。その代わり、僕はお前が嫌がることは絶対にしないと誓うから」
「なんだ、俺に嫌がる権利があったのか」
「もうお前は奴隷ではないんだ、アルバ。嫌なら嫌だと言ってくれないと、僕は調子に乗ってしまう」
「お前にされて嫌なことはない。今のところはな」
いつも通りの声の響きなのに、言葉の内容ひとつでシエロの心は舞い上がった。そうか、と返す声が甘く綻んでいるのが恥ずかしくて、誤魔化すように慌てて咳払いをした。




