第三十七話 根津 美子 その3
黴臭い部屋は、不気味な標本が所狭しと並び、懐中電灯の光だけがそれらに色彩と形を与え、現実世界と結びつけている。後は漆黒の闇、闇、闇。
闇と光のはざまで、標本ケースの扉が音も無く開いた。ケースの中からそろそろと片手が伸びてくる。黄土色と化した、男性の標本の腕が……。
キャビネットに陳列されたガラス瓶が全て小刻みに揺れ始めている。
中の胎児がまるでヤモリのように細い手足を動かし、臍帯や尾を震わせている。
天井の刺青の入った皮膚が盛り上がり始め、波打つように観音が揺れる。
屍蝋化した乳房が瑞々しさを取り戻していき、先端から、母乳までもがたらたらと流れ落ちる。
腫瘍に覆われた腕が何かをつかもうとするかのように指を曲げる。
三つ目の胎児の目が全て見開かれる。
半分になった元男性が、身体のあらゆる臓器を蠢かせながら、ズリ足でこちらに向かってくる。切断面からは脊椎が曲がる様子まできれいに見える。
脱け出せない幻覚が形を取ったかのように、全ての死体が息を吹き返し、懐中電灯の光に揺らめいて、踊りだしていた。部屋はあたかも魔界と化したかのようだった。
そして、その部屋の中に赤髪の少女が全裸で立っていた。彼女の左胸は包丁を突き立てられ、傷口から際限なく流れ出る血で、全身を髪の毛の色と同じ朱色に染めている。
彼女は悲しげな笑みを浮かべ、何事かを言いたげに唇を力なく動かすも、その口元からも真紅の液体が滴り落ちていた。
「うがああああああああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!」
極彩色の歌舞伎の残酷絵のような世界の中心で、僕は悲鳴を上げた。
「お、ソーセージはん、起きたが?」
頭のネジが数本抜けているんじゃないかと疑わしいくらい底抜けに明るい声が、上から聞こる。
ようやく目が覚めた僕は、自分が診察室の床の上に寝転がっているのに気付いた。
あの後ネズミをベッドに縛り付けて、治療を矢田と一緒に行い(といっても僕は主に指示しただけだが)、彼女がやや落ち着いたので、緊張の糸が緩んだせいか、つい寝てしまったようだ。
「ふぅ……」
そっと、安堵の息を吸い込む。おぞましい悪夢にうなされていた気がするのだが、どんな内容だったのか、まったく覚えていない。いつものことなんだけど。
「本当に今日はお疲れだったな、ソーセージ」
寒風のように怜悧な、でもどこか春の日のようにほんのりと暖かい声が後ろから届く。
いつの間に戻ってきたのか、やや疲れたような表情の楓が、点滴のしずくとにらめっこしながら、僕の後ろで椅子に腰掛けていた。
「楓、ネズミの容体は大丈夫ですか?」
「ああ、お前の指示のおかげでどうやら落ち着いたようだな。今はこんこんと眠っているだけだ」
楓の言うとおり、ネズミをリリパット国のガリバーみたいに縛っていた紐はほどかれ、彼女は天使のような安らかな寝顔を浮かべている。
「そうですか……良かった。でも、彼女は……」
「これだけ適切な治療をしたお前ならもう分かっているんだろう?
そうだ、彼女はレビー小体型認知症だよ。大脳皮質の神経細胞内にレビー小体が多く見られるっていうあれだ」
楓が、天気の話でもするかのように、一番恐れていた病名をさらりと告げる。僕は耳を塞ぎたかったが、出来るわけもなかった。
「やっぱり……でも、彼女はまだ17歳ですよ? そんなことがありえるんですか!?」
「確かに普通に考えたらありえないだろうな。若年性認知症はせいぜい40歳前後からというのが常識だ。
だが、何事も例外というものはある。海外の文献では、10代のレビー小体型認知症というロシアの症例が一例だが報告されているんだよ。死後の脳解剖で分かったことだがな」
「え……」
思わず絶句してしまう。そんな話、聞いたこともない……いや、遥か昔、どこかで聞いたような気もしたが、それは一瞬の事で、やはり気のせいだろうと思われた。
「もっともレビー小体型認知症自体が、アルツハイマー型認知症や血管性認知症よりもずっと後で、つまり3大認知症の中では一番最近になって定義された疾患だし、まだまだ謎が多いんだ。
お前も知っての通り、この疾患は非常に生々しい幻覚や妄想から始まり、認知症状は遅れて出てくることが多いし、日によって症状が変動しやすく、パーキンソン症状が合併する者もよく見られる。
つまり、そうと分からない症例が五万といるってことだよ。
実際昔はアルツハイマー型認知症に分類されてしまっていたものがほとんどじゃないかな」
相変わらず楓の説明は理路整然としている。
しかし、僕はまだ、心のどこかで納得していなかった。
いや、納得したくなかっただけかもしれない。




