第三十八話 根津 美子 その4
「でも、こんなに若くて認知症だなんて……統合失調症の方がまだ……」
僕は、敢えて反論を試みた。
「だが、お前もそうでないと判断したんだろう?
でなければシチコリンなんか使わないしな」
椅子から立ち上がった楓が細い指先で、点滴のボトルをちょんと突っつく。
シチコリンとは、頭部外傷や脳手術後、脳梗塞による意識障害の改善のために用いられる薬剤だ。
しかし最近、レビー小体型認知症のせん妄などにも改善効果があるのではないかと言われているのだ。
「ええ……その通りです。最初は僕も、彼女が不穏になった時、統合失調症をちらっと疑ったんですが、あの疾患は幻聴がメインで、リアルな幻視はあまり起こらない。
昔『ビューティフルマインド』という統合失調症でノーベル賞を受賞した数学者の映画がありましたが、あれは友達や少女などの幻視を強調し過ぎて、実際の臨床症状と違うと言われていました。
等身大の人間の幻がまじまじと見え、夕方に発症し、たまに物忘れがある。
明らかに全てレビー小体型認知症の特徴です。
時々動きがぎこちなくなったり、歩行が前のめりになるのも、今思えばパーキンソン症状だったんですね……」
「さすがだ。お前には隠し事なんて出来ないな」
楓が、いつもは細い目を、眼鏡の奥で、やや丸くする。
「どうして……いえ、教えてくれなかった理由は分かっていたつもりですが……」
「……」
楓は謎を秘めたスフィンクスのように口を閉ざす。
語るべきか語らざるべきか、悩んでいるのだろう。そんな表情を見ると、これ以上何も言うことは出来なかった。
「楓様、いいんです、ソーセージくんになら知られてもいい……!」
「ネズ公、起きていたのか!?」
急に目を開けたネズミに、楓が驚きの声を上げる。
ネズミの目元にはうっすらと光るものがあった。
「お、おわには話してもいいだが?」
みそっかすにされそうな矢田が、後ろで情けない顔をする。
てか空気読めって……無理か。
「いいんです。矢田さんにもご迷惑をおかけしてしまったし、この際ちゃんと知っておいていただいた方がいい。
私から皆さんに全てをお話しします!」
「わかった、お前がそう思うなら止めはせん。存分に語れ」
「ありがとうございます、楓様!」
ネズミはよろよろと上半身を起こし、楓に頭を下げると、ごくっと唾を飲み込んだ。
寝たままだったので、喉が乾燥していたのだろう。さっきは絶叫してたしね。
やがて彼女は決心を固めたらしく、ゆっくりと、だがしっかりした声で、悲しい物語を語り始めた。
ネズミの実の父親は、40代半ばで自殺した。
幼い彼女は良く覚えていないが、40歳頃から急速に認知症症状が現れてきたため、将来を悲観してのものだったのだろう。
「つまり顎のとがった白髪の天才雀士さんみたいなもんですかね。ってそんなに格好よくなかったですけど! でも今思えば家系的なものだったんですかね……!」
まだ幼い娘を抱えた30代の母親は、夫の死後、数年間は女手一つで頑張るも、やがて再婚を決意する。
だが相手の名字を聞いて、ネズミは猛反対したという。
「だってフルネームが根津美子になっちゃうんですよ! 絶対名前でいじめられるじゃないですかぁ!
ちなみに当時の名字は二瓶だったんで、その頃のあだ名は『日ペンの美子ちゃん』でした! そっちの方が断然マシですよぉ!」
もっとも、そんな彼女の願いが通るわけもなく、母親は同じく30代の根津氏と結婚し、ここにめでたく悪魔合体よろしく根津美子、後のネズミが誕生した。
「あの頃からですね、私の人生が、少しずつ軋み始めたのは……!」
幸い名前の事でからかわれることはあっても、いじめられまではしなかった。
新しい父親も優しくしてくれて、名前以外の点では特に不満はなかった。いや、多少酒好きの点は気になったが。
「実の父親が全く飲めない人だったんで、ちょっと意外だったんですよ!
まあ、最初のうちは軽い晩酌程度だったんですが……!」
だが、2年程前から、ネズミに徐々に奇妙な症状があらわれてきた。
いるはずのない和服を着た幼い少女が部屋の中にいたり、角の生えた不気味な生物が、物陰から笑っている姿を目にするようになった。
廊下に見知らぬ老婆が身体を丸めて寝ていたこともあった。
そのたび、彼女は言い様のない恐怖にとらわれ、絶叫し、両親を驚かせた。
こうして、崩壊の序曲は始まった。




