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8 退路を進む

オリムはパームに目配せをし、キトルを連れて此処から離れるよう促した。

彼女等の姿が見えなくなってから、オリムは険しい音でイノリに問いを投げかける。


「それは、何だ?」


イノリは石畳にへたり込みながら、溺れる者のように荒い呼吸を繰り返す。

溺れる者のように、全身が緊張と絶望に濡れていた。


「答えなさい」


オリム・エンヴォルヴという人間は非常に温和な人柄とされている。イノリも、柔らかい側面ばかりを見てきた。しかし今はまるで別人だった。上から感じる視線が、鋼のようにイノリを貫いていく。

「……よ、夜の森に入った時、私は獣に襲われました。ですが、し、正体不明の影が獣を殲滅し、私は無事に戻ることが出来ました。…先日、枝を切断したのは、それと思われます」

石畳を凝視しながらイノリは答えた。ぽつ、ぽつ、と灰色の石畳に染みが広がる。

「何故隠した?」

静かにオリムは問いを重ねる。

イノリは震える拳を握り締めた。

森から帰還した当初は、助けられたことに対し特別な優越感があった。間違いなく異質な存在を、理解してもらうために一般に落とし込むのではなく、その奇跡を自分だけの秘密にしておくべきだ、と思った。誇らしい思い出として。選ばれた者の、卑下た陶酔。

だが、影はイノリについて来ていたのだ。バジーの時にその可能性に気が付いたが、言えなかった。

確証が持てないから、という言い訳に包んで。

本当は、価値のない後無しが、意味の無い存在が、更に踏み外し「排除」という枠に転げ落ちることを、恐れたのだ。


「…申し訳、ございません……」


掠れる声を絞り出す。しかしオリムは容赦しなかった。

「今求めているのは謝罪ではない。説明だ」

一際オリムの声が深く沈む。


「あれは、お前が喚んだのか?」


イノリは弾かれたように顔を上げた。

決して、決してそのようなことはしていない!

「いえ、違います!」

「ならば何故、バジー・ミズノリヤを傷付け、キトルを攻撃しようとし、お前には危害を加えない?私にはお前の感情に反応しているように思える」

それは、

それは…!

体の中が全て渦を巻き始めたように、思考が纏まらない。

言葉を紡げないイノリに、オリムは再び問いかける。



「キトルを、傷付けようとしたのか?」



―――――――。

違う、違う、

いや、違わない。

俺はあの時、確かに思った。

思ってしまった。



――お前さえいなければ。



イノリの顔が醜く歪む。

蒼白な顔から、汗と涙が流れ落ちる。

それを認めた後、オリムは目を瞑った。

「何てことだ。―――ならば、あれは……」

苦しそうに呟いたオリムは数秒、考えを巡らせる。

そして再び開いた彼の目には、強い意志が宿っていた。

「部屋に戻りなさい。今度は、出ることは認めない」





イノリは部屋の寝台に踞っていた。

部屋から出ることを禁じられ、二日目の夜。

何の答えにも繋がらない、断絶した問題がずっと体内で暴れている。

生家はイノリを受け入れてくれるだろうか。受け入れたとしても、息子としての扱いは望めないだろう。

この影は何故俺についてきた?

ほんの数日前、まるで選ばれた人間かのように高揚していた心は、酷く燻んでいた。

終わりだ。

俺はきっと、もう――――。


そう思った時、部屋の扉を叩く音がした。

「入るぞ」

オリムが入ってきて、イノリが蹲っている寝台に腰かける。

「イノリ。急いで支度をしなさい」

オリムは声色を変えずに続けた。


「お前はここには居られない」


……ああ、やはり。

イノリは鈍い動きで、顔を出した。

「……はい」

「軽装に着替えたら、下に来るように」

「はい」

重く頷いたオリムは足早に部屋から出ていく。

イノリはもそもそと、服を脱ぎ始めた。



下に行くと、オリムとパームが待っていた。パームは何かを堪えるように、両手を握りしめている。

憔悴したイノリの顔をじっと見つめ、パームは声をかけた。

「イノリ。キトルへの挨拶は出来ません」

「…はい」

パームはそっとイノリの頬に触れた。びくり、とイノリの肩がそれを拒否するように震える。

パームは唇を噛み締めて、頬から手を離した。


「行くぞ」


馬車にはオリムも同乗した。

夜の道を、重い重い沈黙を乗せて、馬車は足早に進んでいく。

その速さが痕跡を辿らせない為に思えて、イノリは世界から断ち切られる自分の体を抱き締めた。



どのくらい進んだのだろう。

やがて馬車が止まる。

人気の無いところに、質素な荷馬車が待っていた。

御者がこちらを見て、手を上げる。

オリムが降りて彼と何かを話している。

イノリは腐った海に浮いている感覚だった。

全てが作り物のようで、全てが断片的で、何にも結び付かない。

ぼんやりとしていた時、馬車の扉が開かれた。

オリムがこちらを見ている。


「イノリ」


オリムは両手でイノリの頬を包んだ。

「苦しめて、すまなかった。だが、私たちはお前を愛している。例えお前がそうでないとしても、これは変わらない」


虚なイノリは考える。

何を言っているのだろう、この男は。

綺麗事だ。

だって、俺はそっちの都合で引き取られ、不要になったから追い出されるのだから。


ぞわり、と胃の中で蔦が無様に暴れ回る。苔と、羽虫と、汚泥にまみれた体内。

醜悪な、俺そのものだ。

イノリは下を向いたまま、口の端を卑屈に上げた。


オリムはもう何も言わなかった。

イノリの背に手を添え、荷馬車に誘導する。

荷台に座ったイノリに、オリムは手を伸ばそうとする。

御者台が軋む音が響いた。その音はイノリとオリムを断絶し、彼の手はイノリに届かずに止まる。

躊躇なく、荷馬車は進み出す。

イノリは膝を抱え、床だけを見ていた。





朝靄が晴れたころ、荷馬車はゆっくりと停止した。

ぼんやりと顔をあげたイノリは、立ち上がる気力も湧いて来なかった。


「降りな」


御者がイノリに声をかける。

若い男性の声だ。

もそり、と鉛のような動きでイノリは荷馬車を降りた。


想像しなかった光が、目を射抜く。

思わず目を瞑り、そっと開き直したイノリの視界には鮮やかな光景が広がっていた。

一面に緑が生い茂り、土と水の香りが充満している。

どこか生暖かい、生命の伊吹が溢れている。

その先に、こじんまりとした家が建っていた。



―なんだ?

――ここは、どこだ?



「君は今日から僕とここに住むことになった」

イノリの疑問に答えるように、凛とした声が響く。

「―――え?」


イノリは御者を振り返る。

御者は、御者だと思っていた男は、被っていたフードを払う。

まるで時間の概念から外れたような、美しく若い男がこちらを見ていた。



「僕はミダ。よろしく、イノリ・エンヴォルヴくん」





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