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7 夕影のとき

イノリは腕を摩る。

ツキンと感じる痛みこそが、存在を証明してくれるかのようで。

湧き上がった虚しさを閉じ込めるため、イノリは唇を噛んだ。


この馬車はエンヴォルヴ家に向かっていた。

バジーは肩を酷く痛めたが、骨に異常はなかった。学府側はイノリが彼に危害を加えたと断定しているわけではない。しかし、では無罪放免、とは当然ならなかった。枝の断面は明らかにそれが自然落下ではないことを証明していたし、言い争いをしていたという第三者による目撃証言もある。

現在調査中、その間自宅謹慎。

イノリに下された沙汰は、それだった。

エンヴォルヴ家に戻されることが、イノリにとって一番の罰。

口に出さずとも勘付いたシィマが、何とか防ごうと学府側に直訴してくれたのを知っている。

それに対し、小さな謝意すら伝えられなかった。

揺れる馬車の中、そっと窓の外に目をやる。

脇道の先、大きな建物の姿が見えた。

白く穏やかに聳え立つ、ルキア教の教会。

ルキア教は、ここテルニタ王国や周辺の国々が国教と定めている宗教だ。数カ国から枢機卿を複数選出するなど、勢力が偏らないよう統制されており、政治とは一線を画している。

その姿勢からも分かるように、教えは慈愛に満ちたものだ。

心を豊かにすること。隣人を傷つけてはならないこと。

―自らの命の灯を消してはならないこと。


馬車は曲がることなく直進を続ける。

イノリは視界から消えゆくその建物を横目で見送った。




+++++++++++++++++++++++




「只今戻りました」


父、オリム・エンヴォルヴの執務室を訪れたイノリはす、と頭を下げた。

オリムは書類を置き、イノリを見つめる。

「おかえり」

オリムは少しだけ伸びた髪を後ろに束ねていた。金色の髪、髪よりもほんの僅かだけ茶に寄った、金色の瞳。

母パームも、弟キトルも同じ色を持つ。

イノリだけ、瞳の色が違う。イノリは見事なまでに碧眼だった。

「疲れているか?」

二言目を発しないイノリに、オリムは問いかけた。

「いえ、大丈夫です」

イノリの言葉に頷いたオリムは手でソファを示した。イノリは再び頭を下げ、座る。

「怪我はどうだ?」

ゆっくりと座ったオリムは、柔らかくイノリに尋ねる。

「問題ございません」

簡潔なイノリの言葉に、オリムは眉を下げて笑った。少し頭を傾け、覗き込むようにイノリを見る。

「…話してくれるか?」

イノリは口を開けたが、喉の奥が借り物になってしまったかのように、息が通らない。

ぐ、と唾を飲み込み、詰まった喉を無理矢理こじ開けて、声を出した。

「バジー・ミズノリヤと話している時、突然木の枝が落下しました。…鎌鼬のような影を見た気がしますが、一瞬のことだったので確証はありません」

オリムは静かにイノリを見つめていた。今話したことは、当然プネアルマ学府からオリムに伝わっているだろう。そして聡明なオリムのこと、バジーとの会話をどれほど学府側が伝えているかは分からないが、察している筈だ。

イノリの周囲で囁かれている言葉を。

「他には、ないか?」

イノリは声色を変えず答えた。

「いえ、お話したことが全てです」

オリムはふ、と息を吐いた。

「そうか。…今日は、ゆっくり休みなさい」




陽が傾いている。

部屋に籠ってしまうと、世界から断絶されたように感じてしまう。少しでも何かの中に居る、と実感したかったのだろう。

イノリは庭にひとり佇み、咲く花々を眺めていた。

引き取られて間もない頃、庭師と共に花を植えたことがある。泥で汚れた頬を、パームが微笑みながら拭ってくれた。

胸を温めた筈のそれが、今は胸を締め付ける。

イノリは足元に目を落とした。

長く伸びた、イノリの影。

何の変哲もない、イノリという物体の裏返し。

「何だって言うんだよ…」

ぽつりと呟いたイノリの背後から、弾むように明るい声がした。


「兄様!」


イノリの肩がびくりと震えた。

弟キトルが子犬のように走り寄って来る。

「お帰りなさい!」

ぴかぴか、という表現がぴったりな表情。満面の笑顔でキトルはイノリに抱きついた。

「た、…だいま」

「父様も母様も、疲れているから今日は会っちゃダメって言うのです!久しぶりなのに!こっそり抜け出して来ました!」

震える手で、イノリはキトルの髪を撫でる。オリムと同じ、パームと同じ、金の髪。

ふたりとそっくりの金の瞳を輝かせながら、キトルはイノリを見上げた。

「兄様、また背が伸びましたね!私も少し大きくなったから追いつけるかと思ったのに!すごいなあ!」

「…そんなこと、ないよ」

「いいえ、ぼく…あダメダメ、私は知ってるんです!兄様がとっても優秀だってこと!」

キトルは誇らしげに胸を反らす。


―やめろ。


久方振りの兄の姿に興奮しているのか、キトルは頬を赤らめながらお喋りを続ける。

「兄様はすごいんです!いつか私も兄様のようになるぞって、毎日頑張っているんです」


――やめてくれ。


「今回もすぐに戻っちゃいますか?」

「ああ、どうかな…まだはっきりと分からないけど」

そうかあ、と残念そうな顔をしたキトルはぱっと恥ずかしそうな表情に変わる。

くるくると絶えず輝く、光のようだ。

キトルは口元に両手を添え、内緒話の体勢をとる。

あのですね、と照れながらキトルは続ける。

兄様に伝えておきたくて、と光に選ばれた弟は続ける。

そして大切な秘密を打ち明けるように、幸せそうに、言葉を紡いだ。



「いつか、兄様がこの家を継いだとき、私がお支えできるように、絶対がんばります」



どく、と肚の奥でどろりとしたものが波立つ。

お前が言うのか?

俺から全てを奪うであろう、お前が言うのか?

お前さえ、お前さえいなければ今も―――。



その時、イノリは信じられない光景を見た。

夕日を背に浴び、前に伸びていたイノリの影が揺らめき。

不可思議に地面から一筋の黒が立ち昇る。

それは鋭角に折れ、正確にキトルの背後を狙っていた。



「キトル!!!!」



無我夢中でイノリはキトルを抱き締めた。

イノリの目の前、鋭い切先が止まる。

同時に悲鳴が聞こえた。


「イノリ!キトル!!」


口を覆うパームと、走り寄るオリムの姿が目に入る。

ぶわり、と全身から汗が吹き出した。

は、は、とイノリは荒い呼吸を繰り返す。

黒い切先は、するりとイノリの影に戻っていく。

訳が分からず、キトルはパームに泣きついている。

オリムはへたり込んでいるイノリを、険しい顔で見下ろした。


「何だ、それは」


イノリは荒い呼吸を繰り返す。

零れ落ちた汗が石畳を濡らす。

告げられる答えはない。

そして、自分には縋る未来も無くなったことを理解した。



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