6 蠢くもの
喰い千切られる衝撃、引き裂かれる激痛。
襲いかかるであろうそれらから身を守る為、イノリは自らを掻き抱いた。
が。
構えど襲来しない絶望に、イノリは恐る恐る目を開く。
「――…え……?」
躍動した獣が首を切られ、血飛沫を撒き散らして墜落する。
四肢を切断された獣が、断末の咆哮をあげる。
影、だ。
夜の闇よりも更に深い黒が、獣を引き裂いていた。
牙を剥き出しにし、それに飛び掛かる獣。
しかし今度は背後から伸びた影に貫かれ、成す術なく墜ちていく。
イノリの凍えた体内が脈を打ち始めた。
影が何なのか、全く分からない。
イノリは腕から流れる血も、爪に食い込んだ土も頭になく。
ただただ、全てのものを切り裂くその暗い闇の熱に、魅入っていた。
また一匹。獣が叫びをあげる。
地面から伸びたかと思うと、全く別の角度からの一突きで獣の命をあっさりと奪っていく。
闇の中、全てを蹂躙するように躍動する影。
――俺を、護ってくれた……?
ぞくりと肚の中で、何かが蠢く。
どくどくと胸が鼓動を打つ。
血液が、沸騰する。
陶酔したように、目が離せない。
獣たちが降らせる赤い雨が止むまで、イノリはその場から動けなかった。
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ツキン、と引き裂かれた右腕に皮膚が張るような痛みが走った。
イノリはそっとそこを摩る。
あれから1週間。幸いにも、腕の怪我は深くはなかった。
あの夜。
あの森。
獣が殲滅された後、影の姿も見えなくなっていた。
疲労困憊のイノリがその体を引き摺るように戻った寮は、案の定混乱の最中だった。
ピノは学舎の周辺でロケットを探していたようで、程なくシィマによって連れ戻されていた。しかしロケットの捜索に出たイノリが戻らなかったため、彼の身の安全を考慮したタックが学府側に所在不明を報告。教師陣が急ぎ捜索に乗り出そうとしていた頃、血泥に塗れたイノリが帰寮したのだ。
何よりも先ず怪我の治療を、と担ぎ込まれた医務室で、ピノはずっと泣いていた。
――ありがとう、ごめん、駄目だよ。
渡したロケットを握りしめ、大粒の涙を零しながら彼は感謝と、謝罪と、控え目な戒めを繰り返しイノリに言い続けていた。
夜の森に侵入し危険に巻き込まれたことから、イノリは翌一日自室謹慎となった。ただ、それは怪我をしているイノリを慮ってのことで、処分は形だけのものであることは誰の目から見ても明らかだった。
代わりにバジーは5日間の謹慎処分を受けた。
イノリは学舎から外に出る。いつもなら授業が終わると自室で勉強の続きをするのだが、今日は少し外の空気の下、考えたかったのだ。
一本の木の幹に寄りかかり、イノリは目を閉じた。
あの夜の出来事を、イノリは一部、報告していない。
ロケットを発見した後、獣同士の争いに遭遇してしまいなんとか逃げ帰った、と説明している。
何故だろう。秘密にしなければ、と思ったのだ。そしてその方が事実よりも納得がいくことも、理解していた。
あれは。
あの影はなんだったのだろう。
意味不明な存在だ。あの森に生息している、ということだろうか。
稀に瘴気に侵され自我を狂わされる獣はいるが、それとは確実に異なっている。
何よりも、俺が殺されそうになった時に現れた。
万が一偶然だったとしても、獣を殲滅した後俺に襲い掛からなかったことの説明がつかない。
俺を護ること、が目的だった?
――何故?
イノリはふ、と上を見た。逞しい木は、豊かに茂る葉を揺らしている。
ちらちらと、太陽の光と葉の影がイノリの顔に落ちる。
輪郭は流動的だった。獣の姿ではない。
ただ、ほんの瞬く間、見た気がするのだ。
一瞬、影が人のような形になったことを。
どくん、と胸が高鳴る。
微精霊は粒子状の筈だ。
人型をとるのは、とれるのは―――。
「おい」
その声に、イノリは我に返った。
「こんな所でまた善行の計画か?」
イノリはそっと息を整えた後、振り返った。
「バジー…」
「ポイント稼ぎ出来てよかったじゃねえか。血が薄いと、苦労するな」
「…君はもう少し、考えた方が良い。家柄の効力は万能では無いんだ」
「お前はそれが喉から手が出る程欲しいんだろ?」
つきん。また腕が痛む。
イノリは静かに答えた。
「君と話すことは何もないよ」
こんな奴と言い争っても拗れるだけだ。
そう思い、イノリはバジーの横を通り過ぎようとする。
しかし、バジーは怪我をしているイノリの腕を掴んだ。
「いつっ…!」
「そうそう、顔に出せよ」
バジーは歪んだイノリの顔を見て、笑った。
「優等生の仮面で隠してんだろ?お前見てると気色悪いんだよ。怖いならしっかり震えてみせろよ」
「離せ」
「居場所作りに必死なんだろ?お前の価値証明に必死なんだろ?言ってやろうか、お前がなんであの森に入ったか」
「何言って…」
「死んでもよかったんだろ」
イノリの身体はびくりと震えた。
固まるイノリを見、満足気にバジーは続ける。
「賢ぉいイノリ・エンヴォルヴ君が夜の森の危険を甘く見積もる筈がない。友の為に規律を破った人間。友の為に傷を負った清い人間。そしてあわよくば、友の為に散った優しぃく可哀想ぉな人間。描いたのはそんなところか?」
バジーは嗤う。イノリを見下ろして。
「気持ち悪いよ、お前」
イノリの体の表面は、冬の湖のように冷たくなっていた。
違う、違う、違う。
俺は本当にピノに家族の写真を返したくて。
あの時本当に怖くて。
だが、イノリの心の奥底に蹲る少年は、バジーの言葉を振り払えなかった。
死体が残らないのは避けたい、と。
友人の為を想って危険を犯し命を落としたのだ、と。
可哀想、と。
そう、想ってくれればと、考えていた―――。
バジーはゆっくりとイノリの耳元に唇を近付けた。
「誰もお前なんか見ていない。お前は不要だ。後無しが」
イノリの幼い心に刃が刺さる瞬間、それは起こった。
ず、という不可思議な音と共に鎌鼬のような黒い風が走る。
イノリは何かから背を引かれ、思わず後ろに尻餅をついた。
同時に目の前のバジーに大きな音を立てて巨木の枝が落下した。
潰れた蛙のような悲鳴を上げ、バジーが蹲る。
驚いてイノリは木を見上げた。
木の枝は、まるで鋭利な刃物で切られたような断面を見せていた。
そして。
黒く伸びた影が、するりとイノリの影に収まっていった。




