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5 もう後が無い

「絶対など無いのです」


教壇に立つゼミ・トランスペアリはそう繰り返していた。

「世界は小さな世界の集合体です。私の世界、貴方方の世界。鳥の世界、魚の世界、花の世界…。それらの小さな世界は変わり続けます。貴方方が昨日思っていたことを今日覆すように、数多の変化が折り重なり、見知った世界は気付けば違う姿を現すのです」

昼食後、午後の授業。

ふわふわとした暖かい空気に包まれ、隣に座るシィマは時折カクンと頭が揺れていた。

イノリは真面目にペンを走らせる。

「一度繋がったからと、慢心してはいけません。貴方は隣人を完全に理解することは出来ず、また相手にとって貴方もそのような存在です。丁寧に、丁寧に関係を紡ぐのです。そのことは特に微精霊、自然に対して、心に留めておかなければなりません」

イノリは顔を上げ、じっと聞き入る。

「理解した、把握した、支配した――。そのような感情は驕りです。人ではない彼等も、日々変化をしているのだから。私達の常識を覆し得る存在であることをよく心に刻み、正しく尊重と畏怖の念を抱きなさい」

絶対など無い。

尊重と、畏怖。

トントン、とその単語の部分をイノリはペンで小突いた。




肺が握り潰されたかのように、一瞬空気を吸うことが出来なかった。

イノリはじり、と後退る。

暗い夜の森の中。

地の微精霊が灯る、イノリが進んできた道を塞ぐように揺らめく幾つもの眼光。

ぬる、と再び鼻腔を掠めた生臭い匂いが、イノリの脳裏に予想される未来を映す。

無惨に引き裂かれた少年の死骸。

空洞になった自分の体。

虚しい存在。

イノリは弾かれたように駆け出した。



――やばい。



獣は正確にイノリの姿を捉えている。足音が、追ってきているのが分かる。



――やばい、やばい、やばい!!



来た道を塞がれている為、奥に逃げるしかない。

この森の広さはどの位だった?森を抜けられたとて獣が諦めるのか?

いや、そもそもこの森に猛獣はいない筈なのに!



――絶対など無いのです。



ゼミ・トランスペアリの言葉が蘇る。

そんな、そんな。そんなのありか?!

禁じられた夜の森に侵入して、微精霊を遣った。

彼等を、軽んじた罰ということか?!



獣は速度を上げてイノリを追いかける。

足音も、息遣いも、数がもう把握出来ない。



――やばい、やばい、やばいっ……!!!



イノリは必死に走る。

脳内は混乱し、断片的に様々な情報が散らばる。

その内の一つ、バジーの言葉が一際大きく響いた。



――後無しが。



イノリは顔を歪めた。

何故、こんな時にまで囚われるのか。

あんなに、あんなに頑張ってきたのに!


イノリ・エンヴォルヴは侯爵家の長男だ。

しかし、実子ではなかった。

オリム・エンヴォルヴと妻パームは、長らく子を授からなかった。血を絶やしてはならないと、傍系血族から選ばれたのがイノリだった。本当の父と母は両手を揉んでイノリを差し出した。もう、彼等の顔も覚えていない。

与えられた立場に相応しくなるべく、イノリは誰よりも努力を重ねた。幸い結果を示すことも出来ていたのだ。

弟が生まれるまでは。

周囲からエンヴォルヴ家の後継者として認められた頃、弟キトルは誕生した。

侯爵家は、血を重んじる。

イノリの存在は一転して厄介なものに変わった。

オリムとパームの態度が変わったり、直接何か言われた訳ではない。しかし、誰がどう考えても、状況は明らかだった。

そう、他家から見ても。

継ぐ後が無くなった存在。後無しとして、イノリは世間から見られていた。

毎日毎日、必死で学んでいる。

毎日毎日、存在を認められようとしている。

少しでも小さくとも、善行を積み重ねて。

点数稼ぎと嘲られようと、それしか無いのだ。



獣の足音がすぐ背後に迫っていた。

狂ったような唸り声に追いつかれるのは、もう時間の問題。



――微精霊を…!



イノリは逃げながら必死に集中する。しかし、走りながら微精霊を召喚したことなどない。

魔素(マナ)を練ることが、出来ない。



「くそっ…!!」



声を出した弾みで、倒木に躓いてしまう。



「…っ…!!!」



べしゃり、と土に転がる。

その時背後から獣が飛びかかり、倒れ込むイノリの腕を掠めていった。



「っつ…!!」



腕に目を走らせたイノリは、服がぱっくりと裂け肌に一筋の線が入っているのを確認する。

ぷく、と赤い玉が生まれたかと思うと、ぱたた、と血が溢れた。

暗闇の中でも不可思議なほど、鮮やかな赤が大地に散る。



ずり、とイノリは後ずさる。

気が付けば複数の獣に取り囲まれていた。生臭い息の温度までも伝わる。

獲物の獲得を確信している獣達は、ゆっくりといたぶる姿勢に移行していく。



――ああ、俺はここで死ぬのか。



イノリは腕を押さえながら、静かに下を向く。


ここまで、死体を探しに来てくれるだろうか。

食い荒らされて、死体なんて残らないか。

それは駄目だ、せめて欠片でも見つけてもらって。

あんないい奴が可哀想、と想ってくれれば。



――可哀想。



「…っはっ……」



イノリは小さく笑った。



俺の人生はなんだったんだ?

一体、何の意味があったんだ?

――何のために、生きればよかった?



ぽたり、と雫が土に落ちていく。

腕から滴る赤い血と、頬を伝った透明なもの。




「誰か…」




獣が上半身を低くし、飛びかかる体勢に入る。




「誰か、俺を見つけてよ……!」




掠れた悲鳴。

それを号令のように、一斉に獣が跳躍した。






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