3 幻影
トントン、と部屋の扉を叩く音に、イノリは顔を上げた。
イノリは自分の部屋で教本を開き、明日の授業に備えていた。
彼が通うプネアルマ学府は、ここテルニタ王国最高峰の教育機関とされている。精霊学に限らず政治、歴史、哲学など偏りなく教育し、国を支え得る人材を育成する。基本は爵位を持った令息令嬢の学舎ではあるが、才能ある若者であれば庶民にも門戸を開いていた。
全寮制のプネアルマ学府では、2人1部屋が基本だ。恐らく部屋や階で派閥が生まれないよう、敢えて爵位を揃えずに組ませているのだろう。イノリの同室はピノ・ゴードン。侯爵家長男のイノリに気を遣っているのか、男爵家子息であるピノは自室に入る時に必ずノックをする癖がついていた。
「大丈夫だよ」
イノリは音に対して返事をする。しかし、扉を開けたのはピノではなくシィマだった。
おや、という顔をしたイノリに片手を上げながら、少し顔を顰めてシィマは言った。
「よ。な、ピノちょっとやばいかも」
「は?」
「バジーがまたちょっかい出したみたいで」
バジー・ミズノリヤはイノリと同様に侯爵家の子息で、困ったことに彼は自分よりも爵位が下の生徒を見下すところがある。更に彼は学問において優秀ではなく、燻る自尊心を満たす為に優秀なピノは屡々標的にされていた。
爵位が下の者だと堂々と馬鹿にし、同格の者であるならば陰口を叩く。正直、好ましくは思っていない人物だ。
しかし、いつもピノは事を荒立てずに躱せていたはずだが…。
「やばいって?」
「いなくなっちゃったみたい」
「いなくなった?」
イノリは立ち上がった。
シィマの報せを聞き部屋から出たイノリは寮の一階に降りた。そこにはバジー・ミズノリヤ他、数人の生徒が何やら言い合いをしていたようだ。
バジーはイノリに気付き、小さく舌打ちをした。
「何があった?」
イノリの質問にバジーは肩を竦めたきり、返事をしない。
「…バジーがピノを揶揄った際、彼のロケットを奪ったそうだ」
溜息混じりに、監督生であるタック・ユリアーゾが代わりに説明を始めた。
「巫山戯て空に放っていたところ、鳥に奪われてしまったらしい。で、ピノは取り戻そうとしているようだね」
ピノがいつもそのロケットを首から下げ、大切にしていることは生徒の誰しもが知っている。そして同室のイノリは度々彼が蓋を開け、中を眺めているのを目にしていた。
その中にはピノの家族の写真が収まっていた。写真は高価で、一般家庭では手が出せない代物だ。ゴードン一族は、財源が豊富な訳ではないことから派手な事業や流行りのものには流されない、生真面目な男爵家。そんなゴードン家の家族写真には意味があった。
ピノの母は既に他界している。病に冒され、長くないと分かった時に、確かに存在していた家族の時間を写真に閉じ込め、子供達に遺したのだ。
ピノは自分が将来一家を背負わなければならないことを知っている。そしてイノリもまた知っていた。一角の人材となるべく、ピノが必死に学んでいることを。未来への不安に潰されそうになった夜、そっとロケットを眺めていることを。
「君は何でここにいる、バジー?」
「無意味だからな」
「責任を感じないのか?」
「弁償すればいいんだろ」
「そうじゃない!」
声を荒げたイノリに、バジーは吐き捨てるように呟く。
「点数稼ぎ、ご立派なことで。後無しが」
冷たく濡れた砂が、頭の先から真っ直ぐ下へ、流れ落ちる。
イノリの体は氷漬けになったように固まってしまった。
「おい、てめえ」
シィマがバジーの襟首を掴んだ。慌ててタックが間に割り入る。
「落ち着け。…バジー、これは流石に報告は避けられない。教員室に行くぞ」
シィマの腕を振り払い、バジーは舌打ちをした。
「…何処だ?」
ん?とタックが振り返る。イノリはバジーを睨みながら、再度質問を投げた。
「何処でロケットを奪われた?」
バジーはこれ見よがしに欠伸をした。それを見、顔を顰めながらタックが代わりに答える。
「第一学舎の裏の丘だそうだ」
イノリは頷き、寮の出口に向かった。
「俺も行く」
シィマがイノリの肩に触れ、言った。
「いや、手分けしよう。シィマは学舎の周りでピノを探してくれ」
「オケ」
「イノリ」
タックの声に、イノリは振り返った。
「無理はするなよ」
頷き、イノリは寮を飛び出した。




