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3 難しい話は元気な時にしてほしい

ぐい、とイノリは頬についた汚れを拭った。

農業用水路の工事に参加して、4日目。

初日の朝こそミダは付き添ったが、その後そそくさとどこかに消えてしまった。以降、付き添いすらしていない。

まあ、別にいいんだけど。

イノリは心の中で呟き、周りを見回した。

親方によると、この水路建設は数年前から領主に嘆願していたらしい。だが何事も始める際は出ていくものが多い。当時の領主、ボグワー・ラクロワは「財政難のため今はその段階ではない」と首を縦に振らなかった。ボグワーは豪商であることから、「今優先すべき事業」と「そうでない事業」に厳しく線を引いているのだ、と渋々領民は納得していた。

しかし事態は1年前に急変する。内部告発により、ボグワーの不正が発覚したのだ。ボグワーは自身の商会には破格の優遇措置を取っており、外部の商人には高い営業税を課していた。監査官が調査を進めたところ、領民から徴収していた税すらも自身の商会に回していたことが明らかになった。めでたくボグワーは更迭・投獄され、新たに子爵が領主に任命された。新領主となったリケル・レトゥーは話が通じる人物だったようで、ようやっと工事着手と相なった訳だ。


「おし休憩だ!各自昼飯食っとけ!再開は1時間後だ、いいな!」


親方の逞しい声に、「うぃーす」と野太い声が反応を返す。

イノリは痺れ始めていた手を振り、息を吐いた。

作業場には幾つか蛇口のついた大きな樽が設置されており、手洗い場となっている。イノリは革手袋を外し、水で手を洗う。やや温い温度だが、それでも気持ちが良い。

水路を走らせる道には楔が打ち込まれている。現在はひたすらに掘削作業を続けている段階だった。怪我の恐れがある道具をイノリに渡すことはなく、掘られた土を台車に乗せて運ぶ作業を担っていた。単純な作業ではあるが、繰り返せば疲労は溜まる。腕を揉みながら、イノリは荷物を取り、木陰に腰をおろした。

鞄から茶色の紙に包まれた昼食を取り出す。

宿屋の主人に頼んで作ってもらったイノリの弁当だ。本来ならそんな頼みは受けないだろうが、ミダの必殺技「美しい顔面おねだり」で女性従業員の心を射止め、獲得した戦利品だった。勿論、代金は支払っている。

イノリは汗だくの男達を眺めた。

親方の名はガンズ・ドノバイ。

年齢は50に差し掛かる頃だろうか。それ程上背がある訳ではないが、逞しい体躯と野太い声、豪快な性格の彼は迫力があり、力自慢達を上手に統率していた。

今迄の生活では接する事のない人々、垣間見る事のない景色。

汗と、埃と、喧騒と。

色々な人生があり、様々な生活がある。

向こうでガハハと笑っている男の名はムムカ。恐妻家らしく、帰りがけにいつも体を震わせて笑いをとっている。隣の男はヤクモ。無類の酒好きで、稼いだ金の殆どが酒代に消えているようだ。

小さな舌打ちが聞こえた。側を険しい表情をしたひとりの男が通りすぎていく。

ツエンと言ったか。罷免された元領主、ボグワーの商会関係者だったらしい。投獄は免れたが、商いの世界では信頼がものを言う。その世界に居続けることは到底無理だったろう。

これまで貴族社会、学府という環境しか知らなかったイノリは不思議な心境に浸っていた。


「隣いいか、イノリ君」

ヨルドが声をかけた。

はい、勿論。そう答えてイノリは少し横にずれた。

「疲れてはいないか?」

「正直、少し疲れましたけど…大丈夫です」

「そうか、それは良かった」

ヨルドは茶袋から黒パンを取り出し、大きく口を開けてがぶりと齧り付いた。

思いの外豪快なその食べっぷりに、イノリはまじまじと見てしまう。視線に気がついたヨルドは、ごくんとしっかり飲み込んでから首を傾げた。

「何だ?」

「あ、いえ何でも!」

慌ててイノリもサンドイッチに齧り付く。何も挟んでおらず、何もつけていない黒パンだが、ヨルドは心做しか上機嫌に見えた。見かけによらず、食いしん坊なのかもしれない。

親近感のようなものが少し、イノリの背を押す。

「ヨルドさんは、何故この仕事を?」

ヨルドはきょとんとした表情で答えた。

「働かないと、飯が食えないぞ」

「あ、いえそうではなく……。あの、もしかしてヨルドさんなら簡単に水路を作れるんじゃないのかなって。態々こんな作業をしなくても、その…」

「これが無意味だということか?」

「そ!そうじゃないんです。ただ、その方が格段に楽な筈なのに」

「楽をしたいのか?」

「うーー、ええと…」

「一から十に飛びたいのかイノリ君は」

「え?」

「俺はそうは思わない。間がない十は、十であることを知らないからな」

謎掛けのような会話だ。

「ええと…?」



「十と百。君は、どちらを選ぶ?」



ヨルドの黒い眼が、イノリを見つめる。

まるで審判にかけられているような気分に陥った。

「…すみません。よく、分かりません」

「そうか、それもいいな」

イノリの緊張を全く意に介さず、ヨルドは再び黒パンに齧り付いた。



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