8 夜は明日を連れてきてしまうから
トン、トン。
扉を叩く音に、ナナミはびくりと震えた。
地雷を恐れる者のように、一歩一歩がこんなにも重い。
永遠に辿り着きたくはない扉はしかし、狭い家ではすぐに手が届いてしまった。
軋んだ音をたて、扉を開く。
ルキア教の従者が無言で頭を垂れる。
彼等の後ろ、柔らかい布床にロウラは横たえられていた。
どの位時間が経過したのだろう。
遠くで聞こえる子供の笑い声に、ナナミは顔をあげた。
静かな物へと変化した母が、家の寝台にいる。
もう食事も、投薬も、排泄も、気にしなくていい。
今まで諦めていたことが、何だって出来るのだ。
「そう…そうよ……」
紅茶を淹れてみるのもいい。
じっくり煮込み料理を仕込んでみるのもいい。
読みたかった本だって、沢山あるのだ。
部屋の中を掃除し、買い物に出かけ、お洒落をして……――。
「それから、それから……」
ぱたた、と床に数滴の雫が落ちた。
ナナミは、母の元から一歩も動いていなかった。
耳をつんざく圧倒的な無音。
世界が圧縮されていくような恐怖。
「あ……」
胸が擂り潰される。
息がうまく出来ない。
「…あぅ、あああ………!」
穏やかに、鮮やかに花は咲いている。
苦しみなど、この世界にはないかのように。
「お母さん、お母さん、お母さん………!!」
喉を、髪を掻き挘る。
「嫌……嫌嫌、ああぁ………」
床に崩れ落ちる。
「な、なん…なんで…っ、あ、ぁ、あ……」
違う。
誰の責でもない。
他ならぬ、
自分。
「わた、ぁ…、わたし、が、あ……!!」
鼻が詰まり、口でしか呼吸が出来ない。窒息してしまいそうな程、体が空気を取り込めない。
溺れるように、ナナミは喘いだ。
「……、ご…ごめ……なっ、」
殴るような勢いで、自らの口を塞ぐ。目を血走らせながら、ナナミは言葉を飲み込んだ。
駄目だ。
今更の謝罪など!
赦しを乞うてはならない!
ぶふぅ、ぶふぅ、と太った家畜のような息を漏らす。
私は自分で決断をした。
母を花にした。
後悔をすることは、赦されない。
私はただ、弱く狡い人間であり。
哀れな娘などではない。
母を貶めてはならないのだ。
やがて、ナナミ・サルスベラの息は整い始める。
既に頬は乾いている。
花は豊かに咲いている。
彼女はのそり、と立ち上がり、キッチンへと進んで行った。
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「イノリ」
家に着いたところで、ミダはずっと下を見ているイノリに声をかけた。
「こっち向きな」
「…嫌です」
ミダはゆっくりとイノリの前にまわった。
「イーノリ」
少年からは、鼻を啜る音がした。
「…俺には、泣く資格なんてないのに」
眉を下げてミダは笑った。そして、イノリを優しく抱き締める。
「お前は賢いのにほんと馬鹿だねえ。泣く資格なんて、何処で取るのさ」
細身ではあるものの、必要な筋肉はついているミダに包まれながら、イノリは思った。
オリムに、このように抱き締められたことはあっただろうか。
十分に優しかったオリムだが、きっとイノリから線を引いていたのだろう。
立派にならねば、立派にならねば。
そればかりに追いたてられて。
俺は、こんなにも子供だったんだ。
そう、何も出来ない――。
「…うぅぅ……っ、」
ミダの掌が背中を、頭を撫でる。
「よく、頑張ったね」
その言葉に、踏み留まろうとしていたイノリの心は決壊した。
何が正しいのか分からず。
何も出来ることなどなく。
無力で我儘な小さい自分が、嫌で嫌で堪らない。
癇癪を起こすように、イノリは泣いた。
泣いて、
泣いて、
そして願うのだ。
「ミダ、さん」
「ん」
嗚咽を漏らしながらイノリは言った。
「俺、ちゃんと知りたい。自分が、世界が、何なのか」
「ん」
「…強く、なりたい……」
ミダはふわりと微笑んだ。
「…いいね」
そして顎をイノリの頭頂部につけ、ぐりぐりぐりと回転させる。
「いた、ちょっ…痛いです」
「取り急ぎ、愛の鞭から」
何ですかそれ、と涙を流しながらイノリは言った。
完全に閉じていなかったカーテンから、月の光が射し込んでいる。
目元を紅く腫らしたイノリは、寝息をたてている。
幾許か明るくなっている床から、ゆっくりと陽炎のように一筋の影が立ち昇った。
それは次第に厚みを増し、形を創っていく。
影はゆらりと動き、イノリを覗き込んだ。
すうすうと眠るイノリ。
影は静かに、少年を見つめていた。




