7 静かなるものへ
「識の返上」とは、獲得した知識・経験を己のものとせず、返上することを指す。
何に返すのか?
神に、だ。
ルキア教の主神は精霊王。地、水、風、火、光の精霊王、その御座に返上するのだ。
ナナミ・サルスベラは識の返上を為した。恐らく自身の血にて署名もしている。
それはつまり、彼女はこれから行われる「花還り」に関して、一切の口外が禁じられたことになる。御座に返上したものは、もう語る権利を失うのだから。
―こうやって、秘密は守られてきたのだ。
複数の属性を持つ精霊鉱の存在は秘匿されている。隠されたものは暴かれるのが常だ。しかし、紗幕の神官、顔を伏せた侍者、認識阻害が施された精霊鉱、そして識の返上の誓約。何重にも施された霞によって、秘密は成立し続けている。
―もしかして…。
イノリはふと思った。
ナナミに会う前、ミダは「使うか否かを判断する」と言っていた。本当に他には救う術がないのか、状態を判断する必要があったと理解していたが、それだけでは無いのかもしれない。
花還りという行為を、罪と感じるか否か。
この線引きだったのだろうか。
罪と自覚しつつも、しかしそこに踏み出す者ならば口は閉ざしたままの筈。
だとすれば、なんと非情なのか。
―どうして、こんなものが存在しているのだろう。
そしてルキア教も。
危険を冒して花還りを行うのは何故だ?ナナミのような者にとってのせめてもの救いとして、なのだろうか?
――本当に?
開かれた馬車の扉の前、紗幕の神官ミダ・オラティオは立つ。
扉の横、従者は膝をつき、顔を伏せている。
ミダはついと指を動かす。
ふわり、と痩せ細った肉体が浮かぶ。
ナナミの母、ロウラ・サルスベラ。
眠りについているロウラの身体をミダは両手で受け止め、進み始める。
ざく、ざく、と踏み締める音が響く。
イノリはどこか、浮遊するような感覚に陥っていた。
現実感が無い。
凛としたミダの背を見つめる。
風の微精霊を使いロウラを浮かせているのだろう、ミダの歩みは揺るがない。
イノリの体は心と乖離しながら、その足跡に従っていく。
やがて精霊鉱の前に辿り着き、ミダは大地に膝をつく。
ロウラの身体は地面から少し浮いた位置で止まる。
イノリもミダの隣で跪いた。
ミダはゆっくりとロウラの身体に、精霊鉱に手を翳す。
そして自身の胸に手を添え、目を閉じた。
静かにミダの声が響く。
彼方よ 此方へ
此方よ 彼方へ
名無き願いを撚り
五座の灯に 其は染まる
ふわ、とロウラの身体が淡く揺らめく。
それは、この世のものとは思えない光景だった。
微かな音と共に、ロウラの頭の先、足の先から徐々に色が変わっていく。
青のような、緑のような、茶色のような変化の波が進んでいく。
その時、ロウラが不意に目を開いた。
何かを探すように、視線が泳ぐ。
「ミダさん」
イノリはか細い悲鳴をあげた。
「ミダさん…!」
「駄目だよ、イノリ」
求めるものが見つからないのか、ロウラの視線は定まらない。
やがてその瞳も、静かな波に覆われていく。
「あ…ああ…」
イノリは呻く。
焦がれた先を忘れたように、ロウラの瞼は閉じていく。
波はロウラの全てを攫う。
ゆるり。彼女の細い細い首の下、胸の間から一筋の緑が伸びる。
長い髪を翻すようにその緑は揺れた。
すると、赤、薄桃色、白の小さな花が一斉に花開いた。
花還り。
老いたロウラの胸元から、朗らかに花々が咲き誇っている。
本来の肉体は穏やかに時間を停止した。
そして、残りの命は花に継がれる。
肉体が生命の残滓に苦しむことはもう、ない。
動くことも、声を上げることも、感じることも、もう無い。
ロウラ・サルスベラは花還りによって静物となった。
彼女の命が尽きる時、花が枯れる。
血も涙も流す事なく、美しい最期を迎えることが出来るのだ。
こんなことが、赦されるのか――。
ロウラは一体、最後に誰を求めた?
全てがもう、海の底に沈んでしまった。
此処にはただ、まだ死んでいないだけのロウラ・サルスベラだったものが横たわっている。
胸には満開の花が揺れていた。




