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ダンス・ウィズ・ア・シャドウ  作者: 森大洋
救いの手の後先
22/32

6 ちっとも優しくない世界

その後、どうやって帰宅したか記憶が曖昧だ。

だが、まだ太陽は高かった気がする。

暢気な陽射しに苛ついたことを、イノリは覚えていた。

無言で部屋に戻り、寝台に突っ伏して暫く経つ。もぞり、と寝返りを打ったところで扉が叩かれた。

イノリは目を開いたが、反応を返さなかった。

「こーら」

扉を開けミダが声をかける。それでもイノリは返事をしない。ギシ、と寝台が沈んだことで、ミダが腰掛けたのが分かった。

「イノリ、降りといで。ご飯にしよ」

ぽん、と頭に手を置かれる。イノリはシーツを被って拒否を示した。

「お腹空いてないのでいりません」

ふう、という溜息が聞こえる。諦めてくれたかと思ったのも束の間、ばっとシーツが捲られた。

「イノリ。起きな」

逆らう隙間のない声色だった。イノリはもそり、と起き上がり、ミダの後をついて一階に降りる。

テーブルには既に夕食が並べられていた。

温かな香りに、胃が反応してしまう。食欲がある自分を浅ましく感じ、イノリは服の裾を握った。

「はい、いただきます」

ぱくり、ぱくりとミダは食べ進める。しかし、イノリは膝の上で拳を握り締めたまま、手をつけない。

「イノリー」

やがて溜息まじりにミダが声をかける。

「…いりません」

「イノリ」

「欲しくないんです」

ミダはフォークを置き、イノリを真っ直ぐに見つめた。

「…甘ったれが」

びくり、とイノリの肩が震える。ミダは顔の前に両手を組み、冷静な音で続けた。

「それがどんなに傲慢な行為か、自覚はある?」

「傲慢…?」

「誰しもがその言葉を吐けるとでも?明日も変わらず食事にありつけることを疑いもしない、恵まれた位置にいる人間だけが使える無様な駄々だ。不貞腐れるのもいい加減にしな」

「…!」

イノリの頬は羞恥と怒りで紅く染まった。

無意識ではあったが、ミダの指摘は図星だ。しかし――。

「ミダさんは平気なんですか」

イノリはミダを睨み付けて言った。彼と出会ってから、初めての反抗かもしれない。

「そりゃ、大変だと思います。俺なんかには分からないくらい!でも、サルスベラさんがやろうとしていることは余りに…、無責任で、残酷だ!」

「だから最期まで苦しめと?」

イノリは言葉に詰まる。

理解は出来る。だが、どうしても生理的に赦し難いのだ!

「だって…、だって!あの人がやろうとしていることは、殆ど…母殺しじゃないですか…!」

「殺しではないよ。正しく、命尽きるまで生きる」

ミダは静かに続けた。

「あの親子はルキアの虔心な信者だ。他者も、自らも、殺めることは出来ない」

「詭弁です!抜け穴から逃げて、自分だけ楽になろうとしている!」

「楽にはならないよ」

この先は行き止まりだと宣言するようなミダの声に、イノリは思わず言葉を失った。



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「な、…なんで……」

「彼女はこれがどれ程罪深い決断か、理解している。だが、もう限界なんだ。それを選ぶ以外の道が、彼女にはもう見えない。最期まで母を恨みきるか、この先ずっと自分を責めるか…。母を悪に出来ないんだよ、彼女は。だから愚かな娘の選択をした」

ミダはイノリを見つめているようで、遥か遠くを眺めているようでもあった。

「彼女は苛まれ続ける。ふとした瞬間にそれは湧き上がり、塗り潰し、何処までもついてくる。…それでも逃げたなんて、責められる?」

「なら…、なら!罪深いことをして、でも楽にならないなんて、止めればいいじゃないですか!そもそも、こんな選択肢を作るから、こんな道があるから!選んでしまうんじゃないですか?!」

ミダは口を開こうとして、少し顔を顰めた。

「…間が悪い奴」

そう呟いた瞬間、軽妙なノックとほぼ同時に扉が開いた。

「よう!儂が来たぞ!」

場違いな明るすぎる声で食卓に乱入したリガレは、はて、と首を傾げた。

「暗いのう」

「あのね、今割と繊細な時間なの」

「そうか、儂は気にせん。報告じゃ」

いや気にしろよ、と思いながらミダは目で先を促す。

「識の返上は為された。明日、再び道を繋げる」

ミダは少し長く息を吐き、分かった、と返事をした。

「…俺は、行きたくありません」

イノリは顔を歪めながら言った。リガレはくいとイノリを見る。

「何故じゃ?」

「リガレ、やめろ」

「…正しいことと、思えない…」

「正しいことではないから、知らん顔すると?」

ハッとリガレは笑い、美しい髪を払った。

「坊のような輩を腐るほど見てきたわ。我が手は汚さず、高台から文句ばかり。正しく安全が証明されんと動かん馬鹿共めが。お前達はな、ようやっと掛かった梯子が脆そうだと感じると、誰かを先ず渡らせるのじゃ」

「リガレ」

「その小綺麗な腕の中に未だに教本でも抱えておるのかえ?少しずつ難易度が上がっていく、行儀の良い仕組み以外は手に負えんのか?世界が坊に合わせろとでも?己の立場をまだ解っておらんのか、愚図めが」

「流石に言い過ぎだ、リガレ」

おお、そうか?とリガレがミダを振り返る。

イノリは、返す言葉が何も見つからなかった。

ぎり、と唇を噛み締める。

「イノリ」

ミダは俯くイノリに声をかける。

「僕が前、お前に言ったことを覚えている?」

前に言ったこと?

何を指しているか判然とせず、イノリは訝しげにミダを見返す。

「イノリにとっての世界を知る、その手伝いをするってこと」

ああ、それは覚えている。

イノリは頷いた。

「綺麗なことも、優しいことも、容赦無いことも。その目で見て、その体で学んで欲しいと僕は思ってる。…お前はまだ子供だけど、世界はきっとお前に甘くはない。だから、辛くともお前は強くならなくちゃいけない。いつか何かを選ぶ時、迷わないために」

イノリは目の前の美しい男を見た。


「大丈夫。僕がいる」


彼等が本当は何を云わんとしているか、恐らくイノリはまだ分からない。

だが。

イノリはひとつ、瞬きをした。そしてミダを真っ直ぐに見つめ返し、イノリは頷いた。




「しかし、坊は甘ったれだのう」

夜。

イノリは既に2階で眠っている。

はだけた肩を竦めてリガレは言った。

「子供だもん、仕方ないでしょ」

「そうさのう。確かに駄々を捏ねてしまうくらい、主には懐いているのかもな」

何だそれ。

突っ込みを入れようとしたが、ミダはふと真顔に戻る。

「汚れ役やらせて悪かったな…。ありがと」

ミダはリガレに向かって礼を言った。

「ぬ?儂は汚れておらんぞ?」

はは、とミダは笑う。

「ああやだ、この脳筋が。…いや、胸筋が」

ふふん、とリガレは胸に手を当てて言った。

「戯け。脂肪じゃ」




深い夜の時間、大人達はひっそりと言葉を交わす。

危うい道に立つ、少年の未来を思い描きながら。




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