6 ちっとも優しくない世界
その後、どうやって帰宅したか記憶が曖昧だ。
だが、まだ太陽は高かった気がする。
暢気な陽射しに苛ついたことを、イノリは覚えていた。
無言で部屋に戻り、寝台に突っ伏して暫く経つ。もぞり、と寝返りを打ったところで扉が叩かれた。
イノリは目を開いたが、反応を返さなかった。
「こーら」
扉を開けミダが声をかける。それでもイノリは返事をしない。ギシ、と寝台が沈んだことで、ミダが腰掛けたのが分かった。
「イノリ、降りといで。ご飯にしよ」
ぽん、と頭に手を置かれる。イノリはシーツを被って拒否を示した。
「お腹空いてないのでいりません」
ふう、という溜息が聞こえる。諦めてくれたかと思ったのも束の間、ばっとシーツが捲られた。
「イノリ。起きな」
逆らう隙間のない声色だった。イノリはもそり、と起き上がり、ミダの後をついて一階に降りる。
テーブルには既に夕食が並べられていた。
温かな香りに、胃が反応してしまう。食欲がある自分を浅ましく感じ、イノリは服の裾を握った。
「はい、いただきます」
ぱくり、ぱくりとミダは食べ進める。しかし、イノリは膝の上で拳を握り締めたまま、手をつけない。
「イノリー」
やがて溜息まじりにミダが声をかける。
「…いりません」
「イノリ」
「欲しくないんです」
ミダはフォークを置き、イノリを真っ直ぐに見つめた。
「…甘ったれが」
びくり、とイノリの肩が震える。ミダは顔の前に両手を組み、冷静な音で続けた。
「それがどんなに傲慢な行為か、自覚はある?」
「傲慢…?」
「誰しもがその言葉を吐けるとでも?明日も変わらず食事にありつけることを疑いもしない、恵まれた位置にいる人間だけが使える無様な駄々だ。不貞腐れるのもいい加減にしな」
「…!」
イノリの頬は羞恥と怒りで紅く染まった。
無意識ではあったが、ミダの指摘は図星だ。しかし――。
「ミダさんは平気なんですか」
イノリはミダを睨み付けて言った。彼と出会ってから、初めての反抗かもしれない。
「そりゃ、大変だと思います。俺なんかには分からないくらい!でも、サルスベラさんがやろうとしていることは余りに…、無責任で、残酷だ!」
「だから最期まで苦しめと?」
イノリは言葉に詰まる。
理解は出来る。だが、どうしても生理的に赦し難いのだ!
「だって…、だって!あの人がやろうとしていることは、殆ど…母殺しじゃないですか…!」
「殺しではないよ。正しく、命尽きるまで生きる」
ミダは静かに続けた。
「あの親子はルキアの虔心な信者だ。他者も、自らも、殺めることは出来ない」
「詭弁です!抜け穴から逃げて、自分だけ楽になろうとしている!」
「楽にはならないよ」
この先は行き止まりだと宣言するようなミダの声に、イノリは思わず言葉を失った。
「彼女は決して、楽にはならない」
「な、…なんで……」
「彼女はこれがどれ程罪深い決断か、理解している。だが、もう限界なんだ。それを選ぶ以外の道が、彼女にはもう見えない。最期まで母を恨みきるか、この先ずっと自分を責めるか…。母を悪に出来ないんだよ、彼女は。だから愚かな娘の選択をした」
ミダはイノリを見つめているようで、遥か遠くを眺めているようでもあった。
「彼女は苛まれ続ける。ふとした瞬間にそれは湧き上がり、塗り潰し、何処までもついてくる。…それでも逃げたなんて、責められる?」
「なら…、なら!罪深いことをして、でも楽にならないなんて、止めればいいじゃないですか!そもそも、こんな選択肢を作るから、こんな道があるから!選んでしまうんじゃないですか?!」
ミダは口を開こうとして、少し顔を顰めた。
「…間が悪い奴」
そう呟いた瞬間、軽妙なノックとほぼ同時に扉が開いた。
「よう!儂が来たぞ!」
場違いな明るすぎる声で食卓に乱入したリガレは、はて、と首を傾げた。
「暗いのう」
「あのね、今割と繊細な時間なの」
「そうか、儂は気にせん。報告じゃ」
いや気にしろよ、と思いながらミダは目で先を促す。
「識の返上は為された。明日、再び道を繋げる」
ミダは少し長く息を吐き、分かった、と返事をした。
「…俺は、行きたくありません」
イノリは顔を歪めながら言った。リガレはくいとイノリを見る。
「何故じゃ?」
「リガレ、やめろ」
「…正しいことと、思えない…」
「正しいことではないから、知らん顔すると?」
ハッとリガレは笑い、美しい髪を払った。
「坊のような輩を腐るほど見てきたわ。我が手は汚さず、高台から文句ばかり。正しく安全が証明されんと動かん馬鹿共めが。お前達はな、ようやっと掛かった梯子が脆そうだと感じると、誰かを先ず渡らせるのじゃ」
「リガレ」
「その小綺麗な腕の中に未だに教本でも抱えておるのかえ?少しずつ難易度が上がっていく、行儀の良い仕組み以外は手に負えんのか?世界が坊に合わせろとでも?己の立場をまだ解っておらんのか、愚図めが」
「流石に言い過ぎだ、リガレ」
おお、そうか?とリガレがミダを振り返る。
イノリは、返す言葉が何も見つからなかった。
ぎり、と唇を噛み締める。
「イノリ」
ミダは俯くイノリに声をかける。
「僕が前、お前に言ったことを覚えている?」
前に言ったこと?
何を指しているか判然とせず、イノリは訝しげにミダを見返す。
「イノリにとっての世界を知る、その手伝いをするってこと」
ああ、それは覚えている。
イノリは頷いた。
「綺麗なことも、優しいことも、容赦無いことも。その目で見て、その体で学んで欲しいと僕は思ってる。…お前はまだ子供だけど、世界はきっとお前に甘くはない。だから、辛くともお前は強くならなくちゃいけない。いつか何かを選ぶ時、迷わないために」
イノリは目の前の美しい男を見た。
「大丈夫。僕がいる」
彼等が本当は何を云わんとしているか、恐らくイノリはまだ分からない。
だが。
イノリはひとつ、瞬きをした。そしてミダを真っ直ぐに見つめ返し、イノリは頷いた。
「しかし、坊は甘ったれだのう」
夜。
イノリは既に2階で眠っている。
はだけた肩を竦めてリガレは言った。
「子供だもん、仕方ないでしょ」
「そうさのう。確かに駄々を捏ねてしまうくらい、主には懐いているのかもな」
何だそれ。
突っ込みを入れようとしたが、ミダはふと真顔に戻る。
「汚れ役やらせて悪かったな…。ありがと」
ミダはリガレに向かって礼を言った。
「ぬ?儂は汚れておらんぞ?」
はは、とミダは笑う。
「ああやだ、この脳筋が。…いや、胸筋が」
ふふん、とリガレは胸に手を当てて言った。
「戯け。脂肪じゃ」
深い夜の時間、大人達はひっそりと言葉を交わす。
危うい道に立つ、少年の未来を思い描きながら。




