5 花還り
「疲れがとれない、そんな日が暫く続いていました」
大丈夫?もう若くないんだから。
いやね、失礼しちゃう。
そんな会話を幾度か繰り返し。
空を舞う鳥が撃ち落とされたように、母の体重は突如急降下した。
慌てて駆け込んだ先、医師のあの目が忘れられない。
―何故、もっと早くいらしてくださらなかったのか。
診断結果を告げる医師の目には「親を放っておいた、無責任な娘」と非難の色がちらついていた。
隣で下を向く母を見る。
いつからこんなに小さくなっていたのだろうか。
何かの成分が蒸発したように、母は萎んでいた。
「病であると分かってからは、転がり落ちるように体調は悪化しました。働くどころか、歩くことすらままならなくなるのは、あっという間でした」
皮膚が弛んだ母の背中を洗う。
骨が浮き出た足を揉む。
食べられるものが、減っていく。
治療費を捻出するために、奔走する。
数えきれない程、頭を下げて回る。
だが、それでも平気だった。
母が感謝を伝えてくれるから。
かけがえの無い母を救えるのなら。
そして愚かにも確信があったのだ。
母のような善人が奪われる筈はない。奇跡とは正しく此処で起きるべきなのだ、と。
その日はやけに空が高く感じていた。
通い慣れた診察室。
扱い慣れた車椅子。
医師が履いている革靴が、とても綺麗に磨かれていたのを覚えている。
―幾つか、安息院をご紹介します。勿論、ご自宅で最期を過ごされる選択肢もございます。
―は?
ナナミは聞き返した。
医師はじっとナナミの目を見ていった。
―もう、治療の術はございません。
ああ、この人の中では自分達は流れゆく患者のひとりに過ぎないのだ、と感じた。
成功しない治療は、傍に退けていくのだ、と感じた。
―は…、
しかしナナミの口からそのような呪詛が漏れることはなかった。
代わりに、涙が溢れた。
「私達は家で過ごすことを選びました。残された時間が僅かなら、一緒にいたいと思ったのです。…浅はかですね。終わりに向かうということがどういうことか、分かっていなかった」
病とは、ただ生命の炎を徐々に小さくしていくものではない。
穏やかな右肩下りなど、夢物語なのだ。
「病魔は母の脳を侵しました。次第に私を罵るようになり、癇癪を起こし、排泄物を垂れ流すようになりました」
家の中は荒れ、仕事に行くこともままならず、耳の奥には母の呻き声と痰を吐き出す音が響く。
様子を見に来た隣人は言った。
―一番辛いのはお母様だから。家族は貴方しかいないんだからしっかりね。
まるで自分には最早手伝えるものがないと宣言するように、重圧を押し付けてその人はそそくさと帰っていった。
ナナミは隣人を見送った後、ふと姿見に映る自分の姿を見た。
乱れた髪、皺だらけの服、乾き切った肌に窪んだ目。
同世代の女性は結婚をし、子育てに奮闘しているだろう。
―これは、何?
自分の体は、糞尿の臭いを放っていた。
「世間から置いて行かれた気持ちになりました。若い頃、恋人もいました。家を出ることを、考えなかった訳ではありません。ですが…母を一人にすることが出来なかった。最期まで、母と共にある。こんなことになってしまったけれど、私は娘として正しいことをしている。…それだけが、心の支えでした」
だが、ある日母が醜く顔を歪めて言ったのだ。
―お前さえ生まれなければ。
汚れた口から涎が糸を引いている。
母は歯を剥き出しにし、目脂に覆われた目でナナミを睨みつけていた。
―お前さえいなければ、あの人といられたのに。
まるで宗教画のように思い返していたあの日々が、脆く壊れた瞬間だった。
「私の心は折れてしまったのでしょう。ここにお世話になることを決めました。ですが、…っ、余命幾許もない筈の母は、数ヶ月生き続け、とうとう私は費用が支払えなくなりました」
自宅に戻すしか無くなった。
家の寝台で鼾をかく母を、ナナミは見下ろして立ち竦む。
良くない思考が、消えない。
私が母の人生を奪ったのなら、今私の人生を奪っているのは母ではないか。
私は自分の幸せを求めてはいけないのか?
いつまでこの地獄が続く?
終わらせたい。
終わらせたい。
終わらせたい―――――。
「いつか、母を殺めてしまうのではないか。私なら、やりかねない。…そんな恐怖が消えませんでした。そして、費用は必ず工面するからと、再び此処に戻れるよう嘆願したのです」
頭を下げるナナミに、職員は柔らかく声をかけた。
――頑張れませんでしたか?
息が出来なかった。
病人を主に置く側からの言葉だから、仕方がないかもしれない。
でも、でも。
そんなに私は至らなかったのだろうか。
愛していた母から罵られ、存在を憎まれ、汚物に塗れ、笑うことすら罪に思う、そんな日々を耐えたのに。
あんまりではないか。
しかし心の底では分かっている。もう、母から解放されたがっている、育ててくれた恩を忘れ捨てたがっている娘こそが自分である、ということも。
「そして先日、院長が私に声をかけてくださったのです」
ナナミはミダを見つめた。
その瞳は涙に濡れ、口は歪んでいた。
「私はもう、耐えられません」
ミダは小さく頷いた。
「"花還り"を望まれますか?」
声は無く、ナナミは両手で顔を覆いながら首を縦に振った。
イノリは足元から立ち昇る恐怖に耐えていた。
紗幕で隠された下、唇が震える。
先刻までの、自分の甘さを呪う。
―彼女は、母を治療しようとしているのではない。
部屋に射し込む陽の光を、破り捨ててしまいたかった。




