1 バランスのいい生き物などいないのです
もしゃもしゃとミダはレタスを咀嚼している。
朝食にはすっかりサラダが定着してしまった。生野菜は青臭くて苦手なのだが、イノリがドレッシングという新技を会得したため、何とか喉を通っている。
いやそうではない。
ミダは目の前の光景に頬杖をついた。
「こうなったかあ…」
ティムの依頼が終了した翌朝、イノリは瞳をキラキラとさせてミダにこう言ったのだ。
「名前を、つけてみたんです」
何ですと?と正直思ってしまったミダを、誰も責められないのではないだろうか。
よく物語には、名前を教えてはならない、もしくは逆に名付けることが支配に繋がる、といった定義が登場する。だが実際には名自体にそのような呪術的効力は無い。養子に出てしまえば簡単に家名は変わるし、また表現者では偽名の方がより強く存在と結びついていることも多い。名とは言ってしまえばそのような流動的なものなのだ。
だから、イノリが影に名前をつけたこと自体は、さして危険な行為ではなかった。
「ロイ」
イノリの声に反応して、影がちゃぷんと動く。朝食を食べながら、イノリは嬉しそうに笑っている。
年齢の割に、物事と距離をとっている少年だと感じていた。まあ、同情の余地はある環境だったろう。しかし安堵と共に外した仮面の下には、しっかり年相応の子供が隠れていた、ということだ。
更にティムとシャームの関係に触発された部分も大きいのか、あれ程恐れていた影に対しどうも目の前の少年は庇護欲のようなものすら芽生えさせているように見受けられる。慎重派と捉えていた少年は、その実かなり大胆な側面も持ち合わせていたようだ。
しかも、面白くないことに。
「ローイ」
ミダは影に声をかけた。
するとゆらゆらと揺れていた影は、綺麗に「スン」と静まり返るのだ。
ミダはテーブルを叩く。
「ねえちょっと、僕のこと無視しすぎじゃない?不愉快です!」
「何でしょうね、優しさの違いでしょうか」
にやにやしながらイノリが言った。
ひゃー、可愛くない。
そう文句を言おうとしたミダだったが、突然大きな溜息をついた。
「イノリ。急いで食べちゃいな」
「え?」
イノリの戸惑う声の直後、扉を叩く音、と同時にそれは開かれた。
「よう、久しいの!」
唖然とするイノリには全く構わず、一人の女性がずんずんと入ってきた。
そしてミダをガバリと抱き締める。
「ちょっともー、青少年の教育に悪いよ」
「ん?」
ミダに押し退けられた女性はくいとイノリを見る。
イノリは思わずびくりとしてしまった。何せ、乱入してきたその人物が、絶世の美女だったのだから。
腰辺りまである、長く艶やかな髪は薄水色。潤んだ菫色の瞳は一度見たら忘れられないほど美しい。そして何より、何というか、豊満な肉体だった。
「ほう、これがそうか」
イノリに近づき、じっと顔を覗き込む。女性とそこまで接近した経験が無いイノリは、顔を赤く染めてしまった。それに気づいた女性は、問答無用でイノリを抱き締める。
「愛いのお、愛いのお!」
豊かな胸に顔を埋める羽目になったイノリは窒息しそうになりながら、両手をばたつかせた。
な、何だこれは…!!
途轍も無く、柔らかい凶器…!!
フゴフゴと悶えるイノリを見かねてミダが助け舟を出す。
「思春期男子に何て非道な」
それは助け舟では無かった。
「おお、そうか。しかし主」
女性は巨乳地獄からイノリを解放し、再びついとその顔を覗き込む。
「下に、変わったものを住まわせておるな」
熱を発していたイノリの身体は一気に凍りついた。菫色の瞳がイノリを射抜く。
「あ…」
どうしよう、俺は捕まるのか?ミダさんも罪に問われる?エンヴォルヴ家はどうなる?
じわりと汗ばんだ背中。瞬時に沢山のことが脳内を駆け巡り、イノリは息を止めてしまう。
しかし。
「脅すな、馬鹿」
ミダが後ろから女性の頭を叩いた。
「何でじゃ、面白いじゃろうが」
ふっくらとした唇を尖らせて、女性は抗議する。付き合ってられないよ、と言った体でミダはイノリに向かって肩を竦めてみせた。
「ごめんね、こいつは大丈夫。自己紹介してやって」
あ、はい。
そうイノリは言い、混乱を押し留めて女性に向き直った。
「初めまして。イノリと申します。…少し前からミダさんにお世話になっています」
ふんふんそうかそうか、と女性は腕組みをしながら頷いた。そして徐に胸に手を当てて言う。
「相分かった。儂の名はリガレ・ヤフタギー。またの名を性癖クラッシャーじゃ」
「ちょっとこいつ頭おかしいから、気にしないで」
「心配するな、ミダとは深く長い付き合いだからな」
「マジでババア面倒臭いわ」
美男美女が心底低レベルな口喧嘩に勤しんでいる。
なんだろう。外見が整いすぎると、倫理観が欠如してしまうものなのかもしれない。
イノリが若干遠い目をし始めた頃、ミダが言った。
「で、用件は?」
中々に酷い言葉を浴びせられた筈だが、微塵も傷ついていないリガレは髪を払って言った。
「仕事じゃよ」




