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「よし、終わり」


イノリが絵画を壁に掛け直したのを確認し、ミダは言った。

本日はティム・バルパティティ宅での作業、最終日。

暫くイノリひとりの作業だったが、本日はミダも共に来ていた。彼はふいと家の中を見回す。

「ん、問題ないね」

お疲れ様、とミダはイノリの頭に手を乗せる。イノリは体内で跳ねる何かを誤魔化すように、口をもごもごと曲げた。何よその顔、とイノリの頬をつんつんしながら、二人はティムの元に向かう。

ティムは椅子にもたれ、本を読んでいた。二人に気がつき、眼鏡を外してゆっくりと立つ。

「ティムさん、終わりました」

ミダの報告にティムは杖を使いながら、穏やかに頭を下げる。

「いつも本当にありがとうございます、ミダさん」

ほんの数日という短い時間だったが、イノリはすっかりティムとシャーム、光の微精霊が愛するこの家が好きになっていた。正直、少し寂しい。だが依頼主の前でそんな顔をするべきではないことくらい、理解していた。

「イノリさんも、私のお喋りにお付き合いくださり、ありがとうございました」

「いえ!そんな…。私こそ、ありがとうございました」

「何格好つけてんの」

必死に大人振ろうとしているイノリを、ミダが揶揄う。

「ちょ、もうちょっと黙っててください」

小声で抗議するイノリに、ティムは笑った。そして、「そうだ」と声を上げる。

「イノリさん、もしよろしければお好きな本をお持ち帰りください」

えっ!と、まるで頭に耳が生えたようにイノリがぴょこんと動いた。実は、作業をしながら気になる本が幾冊もあったのだ。しかし…。

「ですが、大切な思い出の本なのでは…」

「本達が、新しい主人と出会うのも良いかと思いまして。物語は伝えられてこその存在ですからね」

どうしよう。流石に図々しいか?と思いちらりとミダを見る。

ミダは笑って肩を竦めていた。

今までイノリは自分の大切なもの、自身を構成するものは手放してはならないと思い込んでいた。だが、もしかしてそれだと、ただ埃を積もらせてしまうだけなのかもしれない。

時に扉を開けて解放し、時に別の流れに放流し。

それでも温かく光るものこそ、自分にとって価値がある証なのだろう。

きっと厚意を、受け取っていい。

イノリはもじもじとしながら、言った。

「では、是非…!」

お好きなだけ。

微笑むティムの言葉にぺこりとお辞儀をし、イノリは弾むように本棚に向かった。

ああ、この物語も気になる。でも、あの物語も…。

ほくほくと胸を躍らせるイノリの手が、ふと止まった。

そして、目線を足元に落とす。


――そうだ。

――俺は、知らなくちゃ。


自分の予感は正しいのか。荒唐無稽ではあるが、頭から否定してはいけない。

イノリはそっと、その本を手に取った。




++++++++++++++++++




「では、また半年後に」

「はい、お待ちしておりますね。これシャーム、ご挨拶を」

ティムに呼ばれたシャームはくいとこちらを向く。だが直ぐに歩き出す訳ではなく、一度伸びをして耳後ろを掻いてから、優雅に歩み寄った。

その時間が許されると確信している、信頼の甘え。

ミダは膝をつき、シャームを撫でた。

「シャーム。ティムさんを頼んだよ」

「おや、ついに逆になってしまいました」

あれ、バレちゃいました。そう言いながら二人は笑い合い、握手をした。

「それでは」

お辞儀をするミダに倣い、イノリも頭を下げる。

微笑むティムの足元、シャームはじっとこちらを見ていた。

そして扉が閉まる瞬間、猫は高く可憐な、やや掠れた一声で二人を見送った。




「よく頑張りました」

馬を撫でながら、ミダはイノリに言った。

「じゃ、帰ろ。イノリ」

ひょいと跨る動作間の、何気ない言葉。

手綱を柵から外しながら、イノリは思う。

当たり前のように名を呼んでもらえること。

帰る居場所があること。

そんなことが、存在を赦されたようで。


――嬉しいなんて。


口には出さない。

どうせ、この美しい青年はお見通しだろうけれど。

「はい、ミダさん」

返事をし、馬に跨る。

高さが変わることで、世界の見え方も変わる。

自分の椅子を守ることに必死になっていた少年は、木の根元、葉先、馬の呼吸、陽の色、風の気配、雲の流れを知る。

そして、自らの足元を見つめるのだ。




++++++++++++++++++




夜。

イノリは寝台に腰掛けていた。

ここ数日、考えていたことがある。

だが、如何せんどうやら自分は考えすぎてしまう性質のようで、練れば練るほど、ドツボに嵌ってしまっていた。

ティムのように意味を持たせようと思うと、こんがらがってしまう。

シンプルに、ただ好きな音にしよう。

決心をして、イノリはカーテンを開けた。

月の光が差し込み、部屋の一部が仄かに照らされて。

イノリの足元に影が生まれた。


「あの…」


イノリは影に声をかけた。


「もし、嫌じゃなければ、貴方の名前を知りたくて」


影は動かない。


「もし、今は無いのでしたら、あの……」


影は動かない。


「ロイ、…って、呼んでもいいですか…?」


影は動かない。

影は動かない。

イノリは待つ。

影は動かない。

やがて。


ゆらり、と影の表面が波立った。

飛沫のような玉が影から離れ、宙に浮かぶ。


「…ロイ」


もう一度、イノリは名を呼ぶ。

幾つもの黒い玉が、踊るようにイノリの周辺を廻った。

イノリは解されたように、微笑んでもう一度、呼んだ。


「…ロイ」





ミダは窓辺に立って外を眺めている。

彼の周囲には光の粒子が舞っていた。


「僕と似てるんだろうね」


誰ともなく呟く。

青年は髪を掻き上げ、目を細めた。


「さて、どうしようかな…」



月明かりの中、光の微精霊はミダに寄り添うように舞っていた。





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