7 捲られる頁
「よし、終わり」
イノリが絵画を壁に掛け直したのを確認し、ミダは言った。
本日はティム・バルパティティ宅での作業、最終日。
暫くイノリひとりの作業だったが、本日はミダも共に来ていた。彼はふいと家の中を見回す。
「ん、問題ないね」
お疲れ様、とミダはイノリの頭に手を乗せる。イノリは体内で跳ねる何かを誤魔化すように、口をもごもごと曲げた。何よその顔、とイノリの頬をつんつんしながら、二人はティムの元に向かう。
ティムは椅子にもたれ、本を読んでいた。二人に気がつき、眼鏡を外してゆっくりと立つ。
「ティムさん、終わりました」
ミダの報告にティムは杖を使いながら、穏やかに頭を下げる。
「いつも本当にありがとうございます、ミダさん」
ほんの数日という短い時間だったが、イノリはすっかりティムとシャーム、光の微精霊が愛するこの家が好きになっていた。正直、少し寂しい。だが依頼主の前でそんな顔をするべきではないことくらい、理解していた。
「イノリさんも、私のお喋りにお付き合いくださり、ありがとうございました」
「いえ!そんな…。私こそ、ありがとうございました」
「何格好つけてんの」
必死に大人振ろうとしているイノリを、ミダが揶揄う。
「ちょ、もうちょっと黙っててください」
小声で抗議するイノリに、ティムは笑った。そして、「そうだ」と声を上げる。
「イノリさん、もしよろしければお好きな本をお持ち帰りください」
えっ!と、まるで頭に耳が生えたようにイノリがぴょこんと動いた。実は、作業をしながら気になる本が幾冊もあったのだ。しかし…。
「ですが、大切な思い出の本なのでは…」
「本達が、新しい主人と出会うのも良いかと思いまして。物語は伝えられてこその存在ですからね」
どうしよう。流石に図々しいか?と思いちらりとミダを見る。
ミダは笑って肩を竦めていた。
今までイノリは自分の大切なもの、自身を構成するものは手放してはならないと思い込んでいた。だが、もしかしてそれだと、ただ埃を積もらせてしまうだけなのかもしれない。
時に扉を開けて解放し、時に別の流れに放流し。
それでも温かく光るものこそ、自分にとって価値がある証なのだろう。
きっと厚意を、受け取っていい。
イノリはもじもじとしながら、言った。
「では、是非…!」
お好きなだけ。
微笑むティムの言葉にぺこりとお辞儀をし、イノリは弾むように本棚に向かった。
ああ、この物語も気になる。でも、あの物語も…。
ほくほくと胸を躍らせるイノリの手が、ふと止まった。
そして、目線を足元に落とす。
――そうだ。
――俺は、知らなくちゃ。
自分の予感は正しいのか。荒唐無稽ではあるが、頭から否定してはいけない。
イノリはそっと、その本を手に取った。
++++++++++++++++++
「では、また半年後に」
「はい、お待ちしておりますね。これシャーム、ご挨拶を」
ティムに呼ばれたシャームはくいとこちらを向く。だが直ぐに歩き出す訳ではなく、一度伸びをして耳後ろを掻いてから、優雅に歩み寄った。
その時間が許されると確信している、信頼の甘え。
ミダは膝をつき、シャームを撫でた。
「シャーム。ティムさんを頼んだよ」
「おや、ついに逆になってしまいました」
あれ、バレちゃいました。そう言いながら二人は笑い合い、握手をした。
「それでは」
お辞儀をするミダに倣い、イノリも頭を下げる。
微笑むティムの足元、シャームはじっとこちらを見ていた。
そして扉が閉まる瞬間、猫は高く可憐な、やや掠れた一声で二人を見送った。
「よく頑張りました」
馬を撫でながら、ミダはイノリに言った。
「じゃ、帰ろ。イノリ」
ひょいと跨る動作間の、何気ない言葉。
手綱を柵から外しながら、イノリは思う。
当たり前のように名を呼んでもらえること。
帰る居場所があること。
そんなことが、存在を赦されたようで。
――嬉しいなんて。
口には出さない。
どうせ、この美しい青年はお見通しだろうけれど。
「はい、ミダさん」
返事をし、馬に跨る。
高さが変わることで、世界の見え方も変わる。
自分の椅子を守ることに必死になっていた少年は、木の根元、葉先、馬の呼吸、陽の色、風の気配、雲の流れを知る。
そして、自らの足元を見つめるのだ。
++++++++++++++++++
夜。
イノリは寝台に腰掛けていた。
ここ数日、考えていたことがある。
だが、如何せんどうやら自分は考えすぎてしまう性質のようで、練れば練るほど、ドツボに嵌ってしまっていた。
ティムのように意味を持たせようと思うと、こんがらがってしまう。
シンプルに、ただ好きな音にしよう。
決心をして、イノリはカーテンを開けた。
月の光が差し込み、部屋の一部が仄かに照らされて。
イノリの足元に影が生まれた。
「あの…」
イノリは影に声をかけた。
「もし、嫌じゃなければ、貴方の名前を知りたくて」
影は動かない。
「もし、今は無いのでしたら、あの……」
影は動かない。
「ロイ、…って、呼んでもいいですか…?」
影は動かない。
影は動かない。
イノリは待つ。
影は動かない。
やがて。
ゆらり、と影の表面が波立った。
飛沫のような玉が影から離れ、宙に浮かぶ。
「…ロイ」
もう一度、イノリは名を呼ぶ。
幾つもの黒い玉が、踊るようにイノリの周辺を廻った。
イノリは解されたように、微笑んでもう一度、呼んだ。
「…ロイ」
ミダは窓辺に立って外を眺めている。
彼の周囲には光の粒子が舞っていた。
「僕と似てるんだろうね」
誰ともなく呟く。
青年は髪を掻き上げ、目を細めた。
「さて、どうしようかな…」
月明かりの中、光の微精霊はミダに寄り添うように舞っていた。




