6 濡れた鼠と寝そべる猫と
よいしょ、とイノリは本を窓辺に置き、一冊一冊並べていく。そして少年は小首を傾げた。
ふむ。
もしかして、書かれている物語も微精霊は懐かしんだりするのだろうか。
一冊の本を手に取り、適当な頁を開き再度床に置く。
あ、これだと本当に紙が日に焼けてしまうか。
ぬぬ、と悩んでいるイノリの後ろからティムが声をかけた。
「イノリさんは本がお好きなのですね」
微笑む老紳士の言葉に、イノリは少し恥ずかしくなった。確かに食器等に比べ、贔屓していたかもしれない。
すみません、と小さく言い訳のような謝罪をして、イノリは続けた。
「ティムさんのお家は本が沢山ありますね」
「ふたりとも本が好きでして。…ふふ」
突然はにかんだティムに、イノリは目で尋ねる。
「失礼。…我ながら幾つになってもロマンチストであることに恥ずかしくなってしまいました。…あれの名前には由来がありまして」
ティムは日向で毛繕いをしている猫を見て言う。
「シャーム、ですか?」
「ええ。シャームとは、遠い異国の神話に登場する、太陽の女神の名前です。昔その名を冠した喫茶がございまして、本の虫だった若い頃の私は、どうしても一度、と思い店を訪れたのです」
椅子に背を預け、ティムは語る。
彼の少し掠れた穏やかな声は、水のようにすいとイノリの身体に浸透していく。
「ところが生憎の雨に見舞われまして。濡れ鼠では店に入ることも出来ず、眺めるだけで諦めようとしていたのですが…」
――お風邪を召してしまいますよ?
店の扉が開き、若い女性がティムに声をかけたのだ。戸惑う青年に、彼女はタオルを差し出した。
――こちらをどうぞ。何か、温かいものをお出ししますね。
タオルを受け取りはしたが、自分についている水分を吸わせてよいのか。逡巡している青年に、彼女は笑った。
――実は、今日のスープは私が作ったんです。よろしければ、感想を聞かせていただけませんか?
「恋に落ちる、とはよく見つけた表現だとその時感心しました。すとん、と私は見事に落ちてしまったのですから。ただ何と言うのでしょう、穴に落ちるとはまた違う、床が消滅して下の階に落ちるようでいて、実は空に舞い上がったような…。ふふ、伝わりますでしょうか」
イノリは恋をしたことがない。淡い感情程度ならば幾度か顔を覗かせたが、それを育むことはなかった。
「すみません、私は…」
「そうでしたか。もしかしたらいつの日か、あるかもしれませんね。世界の輪郭が急にはっきりと見えるものです。…自分の肉体の何処からその気力が沸いてくるのか不思議なほど、すっかり夢中になってしまい…」
青さ故の直向きさですね。
ティムは笑った。
「彼女も本が好きで、その店で働き始めた理由も店名が気になったからだそうです。…私達は色々な話をしました。世界の眺め方が似ていたのでしょうね。彼女の隣は、とても居心地が良かった」
「その方が…」
「ええ、勿論。後の妻です」
ふたりは悪戯っ子のように笑い合った。
緩やかな時間が、ティムの耳に懐かしい声を届ける。
――ティム。
やや高めで可憐な、しかし不思議と奥の方が掠れている、愛しい声。
あんなに耳に身体に、人生に馴染んだ音が、正確に思い出せなくなっていた。しかし時折川が合流するように、ふとその声と邂逅する瞬間がある。その時を、ティムはそっと抱き締めるのだ。
――ティム。
「シャームが窓辺にやって来た時、妻と出会った日のことを思い出しました。今度は、妻が会いに来てくれた、と…」
「それで思い出の名前を」
ええ、とティムは微笑む。
シャームは寝そべり、ぐいんと伸びをしている。何故だろう。自分の話題と知りながら、素知らぬ顔をしているように、イノリには思えた。
「もう私は滅多に名を呼ばれません。その代わり、私はこれの名を幾度も呼ぶのです」
シャーム。
シャーム。
そう呼ぶと、振り返る命がある。
――ティム。
自らを映す目が、寄りかかる重みが、世界と繋げてくれるようで。
名を呼ばれた時のようで。
微笑むティムの目尻に刻まれた皺が、不意にイノリの胸を締め付けた。
「ティムさん」
はい?とティムが目を上げる。
イノリはぐぐ、と迫り上がってくる感情を喉元で堪えて、再度老紳士の名を呼んだ。
「ティムさん」
不器用な少年の精一杯の行為に、ティムは気がついた。整えられた思い遣りよりも、時に不恰好なままの方が、伝わるものがある。
「…はい、イノリさん」
「…ティムさん」
ふふ、とティムは笑う。イノリも、こんなことしか出来ない子供な自分が恥ずかしく、しかし受け取ってくれた気恥ずかしさから顔を崩して笑った。
シャームはごろりとしたまま、尾をぱたりぱたりと動かしている。
名を呼び、名を呼ばれる存在がある。何と幸せなことだろう。
ティムは微笑んだまま、ゆっくりと目を閉じる。
ここにはない音を、心に響かせて。
「ありがとう。イノリさん」




