5 ぬくもりを憶えている
甘い香りがイノリの鼻腔に届く。
「皆さん、ひと息つかれませんか」
杖をつきながら、ティムが顔を覗かせた。
丁度窓辺の陽に当たる空間が、食器類で一杯になったところだった。
「老耄の我儘に付き合わせてしまって、申し訳ございません」
穏やかに微笑みながらティムはイノリに言った。
「いえ、そのようなことは…」
確かに本当の目的が判然としないが、それを聞いていいのかどうか。
曖昧な返事をしながらカップを弄るイノリを見て、ティムは更に目尻に皺を寄せた。
「少し、昔語りをしてもよろしいでしょうか」
「は、はい…」
猫はテーブルの上に乗り、自らの前脚を舐め、それを耳辺りに擦り付けている。ティムはそんな猫の背を撫でながら話し出した。
「もう12年になりますかな。妻に先立たれてしまいまして…。家には子もおらずで、恥ずかしながらすっかり弱ってしまったんです。自暴自棄、とでも言うのでしょうか。そんな暮らしを続けていたある日、これが庭にやってきました」
猫はぱたりと尾を振る。
「最初は迷い猫かと思ったのですが、随分と図々しい子で。窓を開けるとずかずかと入って、すっかり入り浸るようになってしまったんです」
聞いていない素振りをするように、猫は伸びをした。
「不思議なことに、部屋の扉から棚の扉から、にゃあにゃあと鳴いて全てを開けさせて回るのです。餌を探しているのかとも思ったのですが、どうやら腹を空かせている訳でもないようで。ただ…」
年老いた手を伸ばし、ティムは猫を撫でる。猫はその乾いた指先を、毛繕いをするように舐めた。
「動いた、と言うのでしょうか。流れた、と言うのが正しいのでしょうか。扉を開け放つと、止まっていた全てがこう、…息を吹き返した気がしたのです」
ティムは掌を広げる。すると猫は目を瞑り、その空間にぽすりと頭を埋めた。
「ふふ。何故でしょうね。そのうち、陽の光に当てると家が喜んでいるように感じられましてね。私はすっかり脚を悪くしてしまったので、こうしてお力をお借りしているという訳なのです」
ふわ、と光の微精霊がティムの周りを舞う。
そこでイノリは気付いた。
ティムには、微精霊が見えていなかった。
「年を取ると、色々と鈍くなります。一方、感傷的にもなってしまうのでしょう。言葉も通じぬ、偶然出会っただけだと言うに、時折、まるでこれが私を掬い上げてくれたように思うのですよ」
ありがとう。
そう微笑みながら、ティムは猫の額を掻く。猫は気持ちよさそうに指に顔を擦り付け、そしてふと眼を開く。
イノリは思わず息を飲む。その目は、イノリをじっと見つめていた。
思いついたように猫はテーブルから降りた。少し進み、振り返りイノリを見つめ、一声鳴く。
「これ、シャーム」
また少し進み、イノリを振り返り、一声。
「イノリさんを案内したいのかもしれません。よろしければ、お付き合いいただけますかな」
「はい」
イノリは立ち上がり、シャームと呼ばれた猫について行く。
シャームが誘ったのは、先ほどまでイノリ達が食器を並べていた窓辺だった。
――ああ……――――。
陽だまりの中、光の微精霊達が舞っていた。
ふわふわと、ティムが共に過ごした食器を愛でるように、懐かしむように。
もしかしたら、微精霊はこの家を愛していたのかもしれない。
ティムと、彼の妻が暮らすこの和やかな家。
穏やかな時間。
それを翳らせたくなくて、扉を開かせたのだろうか。
微精霊が見えないティムに、伝えたくて。
「君が、繋いだの…?」
シャームに向け、イノリは呟いた。
シャームは横目でイノリを見、くあ、と欠伸をする。
微精霊は常に見える訳ではない。自身が召喚した場合の他、魔素の量、相性、微精霊の力等様々な要因で異なる。
ティムは見えていない。
しかし、ティムはこの微精霊達に愛されている。
彼を暖かい方へ、導いている。
ああ。
そうか。
イノリは少し、分かった気がした。
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日が暮れる前に、イノリ達は帰宅した。
水をやりながら「頑張ったねえー」と馬を撫でくりまわして労っているミダの後ろ姿を見つめる。
あの時は、分からなかった。
何故、ミダが急に態度を変えたのか。
俺は本当に、自分のことしか考えていなかったんだ。
見えなくても、言葉が通じなくても、
心はきっとあるのに。
怯えるよりも、策を求めるよりも、
先ずしなければならないことがあったのに。
――ほんと、俺はただのクソガキだ。
「ミダさん」
んー?とミダが振り返る。真剣な眼差しのイノリに気が付き、ふ、と笑った。
「なあに」
もう分かっているだろうに、そんな言葉を出す意地悪な青年。
しかし、それは問いかけではなく背中を押していることも、イノリには伝わった。
「少しだけ、分かりました」
「ん」
イノリはすう、と息を体に取り込んだ。
そして、足元に伸びる、自身の影を見つめる。
平たい平たい、その闇に潜む、何か。
「あの、」
多分間違っていない。
いや、正しいとかそういう問題ではなくて。
丁寧に、尊重と、畏怖と。
そして―――。
「あの夜の森で、貴方が助けてくれなければ俺は死んでいました」
無感情に伸びる、自分の影。
焼き映された、自分の輪郭。
「貴方のお陰で、俺は生きています」
イノリは静かに膝をつく。
右手で、そっと影に触れる。
「ありがとう」
少しの、探るような間の後。
平面の世界にいる筈の影から、霧が一筋、ゆらりと立ち昇る。
それはふわ、とイノリの右手に触れ、すぐにするりと影に溶けていった。
伝わったのか?
戸惑いと気が抜けたような感覚でふわふわしていたイノリの頭に、ぽん、とミダの手が置かれる。
「じゃ、明日からはひとりで行ってもらうからね!」
「あ、はい」
イノリは何とも形容し難い心持ちのまま立ち上がる。少々呆けているイノリに、家の中からミダが再度声をかけた。
「ご飯にしよ、イノリ」
不意に呼ばれた自らの名前に、思わず目頭が熱くなる。
それを誤魔化すように、イノリは大きく返事をした。




