4 陽だまりに触れて
「あ。明日から働いてもらうよ」
その突然の指令に、ミダお気に入りの香草入りミートパイを頬張っていたイノリはブフォ、と咳き込んでしまった。
「は、え、働く…?」
「ん」
「え、わ、私がですか…?」
ミダは顔をぐにょんとひん曲げた。美術品のように美しいと感じたあの日は何処へやら、ミダの表情筋は非常に勤勉だ。主人の感情を余すことなくその面に表す。
「お前はタダ飯食らいの自覚がないのか…?」
「あ!すみません、そういう意味ではなく!」
慌ててイノリは両手を振った。イノリとて、ここで未熟な家事手伝いとして過ごすことに、罪悪感を抱いている。しかし――。
「誰かに危害を加えてしまわないかと…」
んー、とミダは頭を傾けた。
「確かにゼロではないけど。ま、明日は僕も一緒に行くし」
それに、とミダは続けた。
「僕はお前が引きこもりになる手伝いをする訳じゃないからね」
何事も挑戦さ、とイノリの不安は何処吹く風、のほほんとミダは言った。
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「依頼主はティム・バルパティティさん。御年73…?位な気がする。僕のお得意様のひとりだよ」
「あの、そもそもミダさんのお仕事とは…?」
「んーー。何でも屋さん」
ワア、ナニモワカラナイ。
イノリは心の中で溜め息をついた。
イノリは自身が逸材とは程遠いことを自覚している。だから学業においても、体術においても、事前の努力と対策が必要となる。
しかし間違いなくミダは稀代の天才。凡庸且つ誇りを捨てられない者にとって情報の不足がどんなに恐ろしいか、考えが及ばないのかもしれない。
2人は馬に乗りそのティム氏の元に向かっていた。カッポカッポと長閑な蹄の音が響く。
イノリが今まで扱っていた馬はしなやかな体躯が特徴の、所謂乗馬用とされる種だった。今騎乗しているのは荷馬車も引けば主も乗せる、丈夫が取り柄のドグラという種。どちらかといえばずんぐりとしていて、決して美麗とは言えない。しかし中々どうして、世話をすればするほど可愛く見えてくるのである。
イノリはそっと鬣を撫でながら再度質問をした。
「では、今日の依頼はなんなのでしょう?」
「今日ってか数日通うんだけど、ざっくり言うとーー掃除?」
「掃除…」
「難しいのをお前に任せる訳ないでしょ」
そ、そうですか。
返事をしながらイノリは不意に焦りのようなものに締め上げられた。
学府の皆は今頃、何をしているのだろう。
自分はここ数日、隠れるように家事をしていただけで―――。
「ほら、見えてきた」
ミダの声にふ、とイノリは顔を上げた。
緑豊かに生い茂る木が、まるで家を守るように立っている。
ただちっとも薄暗い印象は無く、風と光が降り注ぎ、その家は和やかな空気に包まれていた。
――なんて、暖かい家だろう。
おいしょ、とミダは馬から降り、慣れた手つきで柵に手綱を絡めた。ほう、と家を見上げていたイノリは慌ててそれに従う。
「ティムさん、こんにちは。ミダです」
扉の前で、ミダは言った。まるで目の前の人間に話かけるような音量だったため、イノリは少し不思議に思う。案の定家から反応は無く、イノリはそっと伺う。
「聞こえていない、のでは」
「待ってな」
やがて家の中から物音が近づいて来、ゆっくりと扉が開かれた。
「お待たせしました。いらっしゃい、ミダさん」
杖をついた老紳士が、目尻に柔らかい皺を刻みながら微笑んだ。
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
ミダも穏やかに微笑み返した。ティムはミダの後ろに控えてるイノリの姿に気がつき、おや、と声を上げる。
「これは珍しい。お連れの方がおいでなのですね」
「縁あって家で暮らしておりまして。ほら、挨拶」
「あ、はい。初めまして。イノリ・エン…」
イノリは思わず息を止めた。すぐに息を吸い直し、真っ直ぐにティムを見つめる。
「イノリと申します」
ティムは目を細め、ゆっくりと瞬きをひとつした。
「イノリさん。私のことはティムとお呼びください。お若い方には少々退屈かもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
ぺこり、とイノリはお辞儀で返す。
「ミダさん。僕もまだまだお若い方ですよ」
「おやおや。これは失礼いたしました」
微笑みながら、ティムはゆっくりと歩く。ティムの足元に猫がいることにイノリは気がついた。その猫は親猫のように、ティムを振り返りながら先導していく。
「奥から始めますか?」
「はい、では早速お願いいたします」
相変わらず何をすればいいかを理解していないイノリは、とりあえず黙って彼らについていく。先頭を歩く猫がちらりとイノリを見、ふん、という感じで目を逸らした。
「さて」
ミダはイノリを見て言う。奥はキッチンや食卓が配置されていた。
「これから家の物、食器、本、小物、何でも棚から出す。で、庭に面した窓辺に持っていく。んで、棚は掃除。絵画も壁から外して、窓辺に持っていくこと」
「天日干しってことですか?」
「行為としてはそれに近いね。ただ、丁寧に、ゆっくりとだ」
掃除ならば、テキパキとこなした方がいいに決まっているが…。腑に落ちない部分はあるが、イノリはその言葉に頷いた。
食器棚をあけ、数枚の皿を重ねて窓際に置く。しかしミダは、引き出しの中にあったカトラリーを一本一本、ゆっくり窓際に広げていた。少し、イノリはぎょっとする。
―そこまでするのか?
―掃除ではない、何か別の理由があると?
よく分からないが、一応イノリもそれに倣い皿を一枚一枚広げることにした。
数往復する頃には、イノリは痛感していた。
確かに、これは一日では終わらない。そもそも家中のものを一編に窓辺に並べることなど、不可能だ。
そしてこの行為の意図は不明だが、杖をつく高齢の方には酷な作業だろう。
ちら、と椅子に座るティムを見た。
膝には先ほどの猫が乗っている。その猫の尾はゆらゆらと揺れている。
イノリは目を見張った。
ティムはゆっくりと猫を撫でている。
穏やかな老紳士の周りには、ふんわりと光る、幾つかの粒子。
それは間違いなく、光の微精霊だった。




