3 仮宿は容赦なく
「…よし」
合格だ。
腰に手を当てながら、イノリはその出来に納得を示した。
ミダはしっかり焼かれた目玉焼きを好む。曰く、とろりとした黄身の生臭さが気になるらしい。一方、イノリは半熟の方が好きだった。
ミダの住処に来て早10日。家事にも多少は慣れ、朝食程度なら問題なく作れるようになっていた。
先ず、ベーコンは先に焼き始める。焼き目がついてきたら、卵を投入。イノリの分が焼けたら、ベーコンも一緒に取り出す。ミダの目玉焼きだけになったらフライパンに蓋をする。イノリは白身の端はカリカリに、でも黄身はとろんとしている状態が好きだった。好きだ、ということに気がついた。そしてそれには蓋は不要、だがミダの完焼は蓋をしないと焦げ過ぎてしまうことを数回の失敗で学んでいた。
加えて今日は、新たな挑戦。トマトを提供してみよう。
イノリの料理の腕が壊滅的だったため、夕食はミダが作っていた。ここ数日で何となく分かったことがある。
ミダは野菜、特に生野菜が苦手な気配がする。
何故だかよく分からないが、ミダは農作物を貰うことが多い。穀物は調理され夕食に並ぶが、葉物やトマトの行く先はと言うと、野生動物にあげている姿を幾度か目にしていた。
「栄養バランスは大事だもんな」
洗ったトマトを切り、皿に添えながら、呟いた。
そこで家主が伸びをしながら降りてきた。
「おはよぉ」
「おはようございます」
「ご飯用意ありがとー」
いえ。そう返事をしながらイノリは思う。
ミダは不思議な青年だった。
ミダは、感じたことを濁すことなく伝える。だが傍若無人という訳ではなかった。バッサリと斬ったとしても、それは「切り捨てる」とは違っていた。我儘であることは確かなのだが、感情に左右されることなく、物事の線引きが整理されている気がする。
性格だけではない。そもそもの話、存在自体が謎だった。
オリムと馴染みだと言っていたが、ミダの年齢はどう見ても20代中盤。オリムは40代中盤、そして侯爵家当主だ。なぜ家柄も年齢も格上のオリムのことを、気安い枠に嵌め込むことが出来るのだろう。
そして。
圧倒的な強者であること。
一体彼は何者なのだろう。
そう思いながら既に着席しているミダの前に皿を置き、自身も椅子に座った。
いただきます、と言おうとしたイノリの視界に、しわくちゃになったミダの顔が映り込む。
「なんでトマト出すの…」
「ト、トマトは非常に栄養がありますし、折角の戴き物ですし…」
「うにゅってするのが僕やだ…」
フォークでツンツンとトマトをつつく。
うーむ。確かに苦手なものを強要するのは間違っている。
イノリは素早く反省をし、自分の皿を差し出した。
「では私がいただきます」
ミダはその美しい顔面を全力で崩し、もにょもにょと呟いた。
「…出されたものはちゃんといただきますよ」
ぱくり、と口に放り込み、酸っぱい物でも咀嚼するような表情をしながら飲み込む。
そう。これもミダという人間の特徴かもしれない。
敬意を払うに値するものは、決して邪険に扱わない。
ここに来た初日、ミダはイノリのことをクソガキと評した。だが、蔑むことはないしイノリが一生懸命作った朝食には、きちんと謝意を示す。
―この人を、信じてみて、いいはずだ。
そんな決意を心に秘めながらパンを齧るイノリにミダは「そうそう」と声をかけた。
「今日ちょっと街に行こう」
+++++++++++++++++++++
午後。ミダに連れられ、ヨークという街にイノリは来ていた。
テルニタは厳格な国と称されることが多い。イノリはリルカに来るのは初めてだが、このヨークという街はどこかのんびりとした、長閑な空気が漂っている。
街に出た用件は単純。イノリの服を見繕うことだった。
既に数着購入した彼らは「晩御飯のお惣菜買って帰ろう」というミダの思いつきの元、街をぶらぶらと歩いているところだった。
ミダの家はこぢんまりとしている。それこそ、エンヴォルヴの邸宅とは比べるべくもない。
しかし、ミダは質素な暮らしではあるものの、生活苦な雰囲気や切り詰める様子は殆どない。先程イノリの衣服を購入する時も、金を出し渋る仕草は微塵もなかった。
―この人は、一体何の仕事をしているのだろう。
謎の多い美青年をそっと盗み見する。
お気に入りの店でほくほくと惣菜を注文しているミダ。店員と話が弾んでいるようで、手持ち無沙汰になったイノリは何気なく下に目を向けた。
そして。
どく、と胸が早鐘を打つ。
傾きかけた太陽の光によって、影が伸びていた。
イノリの輪郭を真似た、黒い影。
その枠に収まっている。今は。
――落ち着け、落ち着け、落ち着け。
あれからずっと家に籠っていたから、自身の影を意識しないでいられた。
違う。意識することを、先延ばしにしていただけだ。
仮初の生活に包まり、俺はただ、停止していた。
イノリの指先が冷たくなっていく。
彼は、明確に自分の影を恐怖していた。
化け物が棲む、その平たい闇を。
「大丈夫だよ」
そっと背中にミダの手が触れる。
額に汗を滲ませ、イノリはミダを見上げた。
「僕がいる」
イノリは小刻みに数回頷き、そっと深呼吸をした。
ミダはイノリの額に張り付く髪を掻き上げる。そしてぽん、と頭に手を置いた。
「さ、帰ろ」
言い聞かせるでもなく、強制的に安心させるでもなく。ただただ、日常の音。
まるで扉を開けろと叫ぶようにどくどくと脈打っていた心臓が、落ち着きを取り戻していく。
きっと、俺の影が暴走してもミダさんが止めてくれる。
その時は俺も殺されてしまうのだろうか。
それは――やっぱり、嫌だな。
でも、誰かを傷つけてしまう位なら、俺が消えるのが一番いいのかもしれない。
死にたくないのなら、なるべく誰とも関わらず、暮らしていくのが正しいのかもしれない。
そんなことを考えながら、イノリは「はい」と返事をした。
しかしその夜の食卓にて、イノリの淡い決意はあっさりと覆されることになる。




