前日譚1「その日、介護士はまだ現実にいた」
介護施設「ひなたホーム」——。
神田誠は、その日もいつものように早番で出勤していた。
「おはようございます、神田さん。夜勤、ちょっとバタバタで……」
「大丈夫。あとは引き継ぐよ。おつかれさん」
タイムカードを打ち、カートを引きながらフロアを回る。
どの部屋からも、眠りの気配が残る。
日勤が始まるまでのわずかな時間。
神田はひとつひとつのベッドを覗き、名前を心の中で呼んでいく。
(おはよう、佐藤さん。今日も、ちゃんと目が覚めるといいな)
(昨日泣いてた高橋さん、今日は笑ってくれるだろうか)
スタッフ不足。記録作業。介助拒否。家族からのクレーム。
日々は戦場のようで、誰もがギリギリで立っていた。
それでも神田は、利用者の「おはよう」が聞けるだけで報われる気がした。
その日の午後——
「神田さん、〇〇さん……意識がありません」
呼吸確認。バイタル。救急要請。
冷えた手を握りしめながら、神田は声をかけ続けた。
「大丈夫です、今、救急車来ますから……!」
——でも、間に合わなかった。
その夜、誰もいないロッカー室。
神田は制服のまま座り込んでいた。
ふと、視界が揺れた。
涙が滲んだのか、照明がにじんだのか……。
そして——
次に神田が目を開けたとき、そこは草原だった。
空には見たことのない色の雲、風には花の香り。
遠くから聞こえるのは、見知らぬ鳥の鳴き声。
神田は立ち上がり、ぽつりと呟いた。
「……なんだここは」
(……それでも、もう一度、誰かに“ありがとう”と言ってもらえるような介護ができたら——)
このときまだ、彼は知らなかった。
この世界で“もう一度誰かの手を握る日”が来ることを——。




