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前日譚2「ありがとうのあとで」

神田誠が「ひなたホーム」で働き始めて五年目。

 その日も、慌ただしい一日だった。


 朝のバイタル測定、入浴介助、食事介助、トイレ誘導。

 休憩時間は削れど、手を抜けないのが現場というものだ。


 午後、ベッドで寝たきりの利用者・倉田シズさんの部屋に入る。


「倉田さん、こんにちは。体、少し向き変えますよ」


 神田は声をかけながらゆっくりと身体を支え、体位交換を行う。


 倉田さんはほとんど言葉を発することができない。

 それでも、神田は変わらず言葉をかけ続けていた。


「今日は風が強くてね、外の桜が散り始めてましたよ」

「お孫さん、この間来てくれたんですよね。喜んでましたよ」


 ほんのわずかに、目が潤んだ気がした。


 それが、彼女の“反応”だった。


 夕方、交代前にもう一度倉田さんの部屋を訪れる。

 すると、付き添っていた家族が神田に声をかけてきた。


「さっき、この子、神田さんの名前を口にしたんです」

「ほとんど声なんて出なかったのに、“ありがとう”って」


 神田は驚いたように目を開いた。


「……本当ですか?」


 「ええ、聞き間違いじゃないと思います」と家族は言った。


 神田は、何も言えずにその場に立ち尽くした。

 言葉にならない感情が胸の奥からこみ上げてくる。


(ありがとう……)


 たったひとこと。

 でもそれは、五年間のすべてが救われたような気がする言葉だった。


 その夜、神田は夜空を見上げながら、静かに思った。


(……あのとき“あの人”に助けてもらった俺が、

 今、誰かの役に立てているとしたら——)


(……それで、いいんだ)


 まだ、異世界に立つ前。

 けれど、彼の介護者としての芯は、このときすでに形を持っていた。

今回は神田が“ありがとう”を受け取った大切な場面を描きました。


ひとことの「ありがとう」が、どれほどの意味を持つのか。

現実の介護者にも届いてほしい、そんな願いを込めてお届けしました。


次回は、神田の私生活や“もうひとつの顔”にも触れていきます。

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