第35話「名前を忘れても、気持ちは残る」
施設の中庭で、ひとり縫い物をしていたのはエルフの老婦人・セリルだった。
陽だまりの中でゆっくりと針を動かすその手元には、布に刺繍された名もなき花の模様があった。
「セリルさん、今日はいいお天気ですね」
ノクが声をかけると、セリルは顔を上げ、やわらかく微笑んだ。
「ええ、春はもうすぐね……あなたは、ええと……」
一瞬、名前を探すように視線を泳がせる。
「ノクです。覚えてくださって嬉しいです」
セリルは安心したように笑ったが、その目元にどこか影があった。
その日の午後。
神田が記録魔法を確認していると、リリが控えめに声をかけてきた。
「セリルさん……この頃、少しずつ“抜け”が増えてきています」
神田は黙って頷く。
「彼女は昔、村で縫い物教室を開いていたそうです。名人だったって」
「……今でも、針を持つ姿は迷いがない」
神田はその日の夕方、セリルの隣に腰を下ろした。
「昔、どんなものを作っていたんですか?」
「ふふ……たくさん作ったわ。誰かのための服。祝いの刺繍……」
しばらく思い出を語ったあと、セリルはふと手を止めた。
「でも……思い出せないの。作ってあげた“あの子”の名前が」
「……でも、気持ちは、残ってるんですね」
神田の言葉に、セリルは目を細めて微笑んだ。
「ええ、残ってる。たしかに、私の心のなかに」
その言葉に、ノクはそっと胸に手を当てた。
(忘れても、なくならないものがある——それが、介護の“答え”なのかもしれない)
今回は、エルフの利用者・セリルさんを通して、「記憶が薄れても、気持ちは残る」というテーマを描きました。
これは物語全体を通して伝えていきたいメッセージのひとつでもあります。
次回は、セリルの縫ったものが思わぬ形で“つながる”話になる予定です。どうぞお楽しみに。




