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10話

 飛び退いたアーノルドは思わず身震いをした。


 その場が一瞬で氷点下にでもなったかと思うような氷獄の冷気とでもいう極寒の寒さがその場を支配する。


 息を吐けば白い吐息が吐き出され、ともすれば氷の結晶へとその姿を変える。


 空気中には細氷とでもいうかのようなサラサラとしたものが舞っていた。


 アーノルドの視界には、息ができるようにか首から上だけが露出し、剣を振り下ろそうとしている体勢で全身が氷に覆われているボルネイがいる。


 先ほどまでの狂気に満ちた表情はまるで氷に冷まされでもしたかのように陰を潜め、むしろ青くなっていると言って良いほど張り詰めたような表情に変化していた。


 そしてその目にはこの場にいるはずもない幽霊でも見るかのような慄きの色が浮かんでいる。


 アーノルドはこの氷を顕現させたであろう発生源へと目を向ける。


 だが、その双眸がそれを捉えるより前に、聞く者の心胆を寒からしめるような絶対零度の声がその場に響く。


「——これは一体何事ですか」


 ただ普通に放たれた声であるというのに、まるで耳元で囁かれたかのような重厚感。


 入り口からコツコツとヒールのような音を踏み鳴らしながら歩いてきたのは、透明がかった薄い水色の髪に、鮮紅色の瞳、紺碧色のドレスを身に纏った二十代くらいの冷艶清美な女性であった。


 釣り目であるためかその場の雰囲気も相まって、とても冷然とした印象を与える女性だ。


 護衛らしき者を二人伴っていることからも、それ相応の立場の人間であることが読み取れる。


「不正があったという報が入ったので来てみれば、試験官ともあろう者が受験生を殺そうとしているように見えましたが」


 その女性が話すたびにまるでこの場の温度が急激に下がっていくかのように錯覚するほどの重圧。


 護衛二人も相当強そうではあるが、この女性もそれに違わぬ——いや、それどころかその護衛二人ともボルネイとも比較にならぬほどの実力者であることが窺えた。


 控えている二人は護衛というよりも従者と言った方が正確かもしれない。


 護衛するどころかされる側になるだろう。


 ボルネイはその身を覆う氷の寒さゆえか、それともこの女性の醸す雰囲気に気圧されてか僅かに歯をカチカチと鳴らしていた。


 それを見て、呆れたような、蔑んでいるような視線を向けたその女性は、小さく不快そうに鼻を鳴らし、ボルネイを覆っている氷を解除した。


 まるで風鈴ように風情ある音を立ててパリンと崩れるその氷に燦然(さんぜん)と降り注ぐ太陽の光が反射し、その場が煌々と輝きを放つ。


 その様はこの場にそぐわぬ流麗さを演出しており、思わず見惚れるほどであった。


 その中心に立つのがボルネイでなければそれこそ一枚の絵になっていたであろう幻想さである。


 だが、その幻想風景を作り出した当の本人はその氷よりも冷めていた。


「それで、お話していただけますか?」


 さっさと話せ、と言ってもいないにもかかわらず聞こえてきそうなほど、その女性がボルネイを見る目は冷酷に満ちていた。


 その瞳には、ほんの僅かの“温”すらも宿ってはいない。


 その瞳は(くれない)に染まっているというのに、瞳それ自体が氷であると錯覚するかのような冷たい輝きを放っていた。


 氷から解き放たれたボルネイは、その寒さゆえか、女性が醸す重圧ゆえか、地に手をつき倒れたまま頭を上げることもできず、まるで土下座でもしているかのような姿勢で弁明する。


「あ、あの者が試験において不正をしたため、し、失格の旨を伝えたら、納得できないと突っかかって来られまして……、そ、そして殺してやるなどと言うので……」


 その女性は、些々たる畏れの伴った声で弁明したボルネイを何の感情もなさそうな瞳で数秒見つめ、安易に動けずに状況を見守っていたアーノルドへと視線を向ける。


「この者はこう言っておりますが何か釈明はございますか?」


 女性がアーノルドへ向ける視線もその声もボルネイに向けたものほど冷めたものではなかったが、生来の気質かその女性が纏う冷然たる印象は変わらなかった。


 だが、少なくともアーノルドに怒りも敵意も向けられてはいないことは確かであった。


 むしろ怒りも敵意を向けられているのはボルネイだろう。


 アーノルドとしても、いま目の前の女性を無視し、無理矢理ボルネイを殺すことは憚られた。


 その内に秘める殺意に微塵たりとも変化はないが、ボルネイと護衛二人はともかく、この場を支配していると言っても過言ではない目の前の女性相手にいまのアーノルドが持つ剣では心許ないと言える。


 かといって”自らの剣“を出してまでこの者達と敵対するメリットもいまはまだない。


 それにいまの立ち位置がすごぶる悪い。


 明らかにいまの間合いの利はあの女性に軍配が上がっていると言えるだろう。


 だが、たとえ不利な状況に置かれていようと、この者達がアーノルドの邪魔をするというのなら——そのときは誰であろうと容赦なく殺す。


 それだけは変わらない。


「概ねは合っている。だがその大前提となる不正をしたということは身に覚えがないな。私はそこのそいつにただ一撃見舞っただけだ」


 アーノルドは事実を事実として淡々と述べた。


 説得しようなどという気持ちもなければ、焦りも、(おもね)りも、何一つとしてその言葉には乗っていない。


 その様はある種異様とも言えるだろう。


 実際に不正をしていようと、していなかろうと、常人ならば焦る状況だ。


 自らの嫌疑を晴らすために焦りを滲ませ声を荒げてもいい場面であろう。


 しかしそれだけならば貴族教育の賜物、肝が据わっているという言葉で片付けられなくもない。


 だが、いまはその状況に加え、ボルネイに向けて放たれた冷気ともいう威圧をこの場にいる全員が感じ取っている。


 たとえ直接向けられたものでなかろうと、それ相応の影響を受けるだろう。


 現に、受験生も、そして他の試験官も、気絶している者こそいないが、距離が離れているにもかかわらず顔を青くしている者が多い。


 にもかかわらず、それより近くにいるアーノルドには畏怖している様子もなければ、萎縮している様子もない。


 その様は慄きなど欠片もないかのように端然としており、子供とは思えない冷厳さを伴っていた。


 そのせいかその女性のアーノルドを見る目が若干ながら細められる。


 だがそれも刹那、声が裏返ったような、耳を(ろう)するほどの大声がその場に響き渡る。


「だ、黙りなさい‼︎ この私が貴方ごときに不正なくして一撃入れられるなどあるわけがないでしょう⁈ 不正をしておいてその太々しさ。はっ、これだから他国の人間は!」


 ボルネイの中では今でもアーノルドは自分よりも弱者だと思っている。


 だがそれも当然のこと。


 アーノルドがその指に嵌める魔道具『弱体視の指輪』の効果に加え、アーノルドはボルネイを殺す一瞬しかその実力の一端を出す気などなかった。


 指輪自体に亀裂が入ったいまではもはやその役割を果たしていないとも言えるが、今この場を支配しているのは冷厳なる女性が垂れ流している圧であるため、ボルネイはいまだにアーノルドの実力など知る由もない。


 だが、たとえボルネイを凍てつかせるような重圧がなくともそれを知れたかは別問題であるが。


「そういった差別発言は慎みなさい」


 その女性はまるで害虫でも見るかのように冷酷な視線をボルネイへと向けた。


 ボルネイはその瞳を直視してしまったためか短い悲鳴のようなものを上げ、化け物でも見るかのように引き攣った表情を浮かべているが、そんなことはお構いなしにその女性は査問を続ける。


「それで、貴方が不正だと断じるのであればどういった不正であるのかお聞かせ願いたいのですが。何せ報告として入ってきた情報にもその点が記載されておりませんでしたので。今後の対策のためにも、そしてこの場を収めるためにも不明瞭なままというわけにもいかないと思うのですが」


 そう言われたボルネイは思わず口ごもる。


 実際のところ何をされたかなどわからないのだ。


 適当に不正の理由を言おうにも、もしそれが間違っていれば、子供に出し抜かれ負けた上にその原因すら見抜けなかった愚か者になる。


 それゆえ自らの名誉をこれ以上傷つけないために、安易に確証のないことを口にはできなかった。


 だが、エリートたる自分がこんな子供に実力で負けるなどあるはずがない。


 だからこそアーノルドが不正をしたということは確実であると妄信している。


 それを伝え、名誉を少しでも挽回し、そしてあの愚物が如何に陋劣なのかを喧伝しなければならないと逸っている。


 だが、その妄信はあくまでも自分の中でしか成り立たない図式。


 どれだけ自分の中で絶対の真理であろうと、現実では絶対たり得ない。


 だが寸刻経つが、ボルネイは何も喋らない——否、喋れない。


 恐怖と義心に駆られ早く何か言わなければならないという気持ちと、正答を誤れば今後更に蔑まれるかもしれないという焦燥感、それらがボルネイの頭をグルグルと回り言葉を詰まらせる。


 恐懼と矜持の狭間、それでも尚、矜持が勝る。


 それがボルネイという人間であった。


 だがそれも次の言葉を聞くまで。


 絶対的な恐懼の念はどんな感情をも殺す。


「——私の言葉が聞こえなかったかしら。それとも私の言葉になど耳を貸す必要はないとでも?」


 アーノルドですら息を呑むほどの圧倒的な存在感の発露。


 絶対零度の瞳。


 そして強者たるがゆえに醸し出す、何をせずとも他を圧するがごとき雰囲気。


 それらがボルネイに苦悶の声を漏らさせる。


 アーノルドも流石にこの者が誰だかわかってきた。


 この国でも有名な七帝家の一角である、魔術のガルフィード、その中でも『氷晶の剣姫』の異名を持つガルフィード三姉妹の長女ハーメティア・ガルフィード。


 この学院の三人いる副学院長の一人にして、もう一つ『氷炎の女帝』という異名もある、ここ数年他国にまでその名を馳せる有名人だ。


 だが、剣姫と呼ばれているわりには剣らしきものはどこにも見当たらなかった。


 しかしその姿を見ればそれも然もありなんかとアーノルドは一人首肯した。


 いまの彼女はどこかのパーティーに行くかの如く、フィッシュテールスカートに薄い布を重ねさ合わせたかのような造形の優美なドレスに身を包んでいる。


 そこに剣を差すような場所はないだろうことは簡単にわかる。


 アーノルドがそんなことを考えていると、ボルネイがその意志に反するかのように遂に口を開く。


「ど、どのような不正をしたかまでは、わ、わかりません。ですが——」


「それでは貴方は不正かどうかわからぬうちからそれと断じ、あまつさえ相手の言い分さえ聞かずに相手を殺そうとした、そういう認識でよろしいですか?」


 ハーメティアはくだらない言い訳など聞くつもりがないのか、ボルネイの言葉を途中で遮った。


「そ、それはあの者が私を殺そうとしてきたからで——」


「ではなぜ、互いに真剣を持っているのでしょうか? 試験は木剣で行われるはずではなかったでしょうか」


 アーノルドが手に持つ真剣はこの学院の訓練用のもの。


 アーノルドが本来持っているはずのないもの。


「そ、それはあの者が置いてあった真剣を勝手に手に持ったので仕方なく……」


 本来それすらもおかしなこと。


 真剣などと危ないものは事故を起こさないためにも置いておくことを禁じられている。


 それこそ貴族など、たとえ普通の試験であろうとその結果に納得いかぬと暴れることもあるのだから。


 もちろん試験官達は襲いかかれた際に対処できるようにと持つことが許されているが、それがアーノルドが真剣を持っている説明にはならない。


 だが、ハーメティアはこれ以上は埒が明かないと思ったのか、それ以上問い詰めはしなかった。


「……はぁ、不可解な点は多々ありますが、これ以上試験の進行を遅らせるのもよくありませんね。もう一度聞きます。貴方は何を以て不正と断じたのか、それを答えなさい」


 仮定や憶測などはどうでもいい。


 事実だけを述べよという最終宣告。


 もし証拠もなく不正などと断じているのであれば——。


「そ、それはあの者を調べていただけるとわかるかと‼︎ 魔法もしくは魔道具といったもので不正をしているはずです‼︎ で、でなければ、わ、わたしが……やられるな、ど……っ」


 ボルネイは恐慌したかのように声を張り上げながら、もはや自負心すらもかなぐり捨ててアーノルドの不正をハーメティアへと訴えかけた。


 だが自分がアーノルドにやられたことを言葉にするごとに、自身のプライドが邪魔をするのかその表情が苦痛でも受けているかのように歪んでいっていた。


 ハーメティアは醜く喚く屠殺される寸前の豚を見るかのような視線をボルネイへと向け、誰にも分からぬくらい小さく鼻を鳴らし、煩わしそうにアーノルドの方へと向き直った。


 そしていままでの毅然とした姿には似つかわしくないめんどくさそうな様子で小さくため息を吐き、アーノルドへと話しかけてくる。


「申し訳ないのだけど、体を調べさせてもらってもいいかしら」


 その声には明らかに不本意であり、めんどうだと滲ませる声色が混じっていた。


 だがここでボルネイの主張を聞き入れなければ言い逃げされる心配があるためその可能性は潰しておかないといけないのだろう。


 どことなく漂う、このままボルネイがただ罪を問われて終わりそうな雰囲気。


 だが、アーノルドには尋ねておかなければならないことがある。


「その前に一つ問おう。もしそれで、私に何も見つからなければ奴はどうなる?」


 言葉にすればただの問いに過ぎないが、その言葉が纏う禍々しき気配は消しきれていなかった。


 それでもこの場にいる者が気付かぬ程度の僅かなものであるが。


 アーノルドとていつまでも悠長に待っているつもりもない。


 この返答次第ではボルネイを殺すつもりだ。


 後々厄介になるであろう目の前の女を殺し、護衛を殺し、ボルネイを殺す。


 七帝家の人間を殺すなどこの国に対する宣戦布告とも取れる愚挙であるが、ボルネイを庇う、もしくは生半可な罰で済ますのならばもはや遠慮する理由もない。


 阻もうとする者すべてを殺してでもアーノルドは自らの道を征く。


「そうね。……どこまで話したものか難しいのだけど」


 そう言ったハーメティアはそもそもの話と付け加え、話しだす。


 元々ここに来た理由は不正の件ももちろんだけど、ボルネイのところで試験を受けたほとんどの受験生達の試験の点数が極端に低く、それなのに、ある一定数高得点の者がいることに関することもあったのだとか。


 点数が極端になることそれ自体は別に珍しいとも言い難いことであるが、ボルネイが過激派に属する人間であること、そして他国の人間が一桁や二桁前半の点数であるのに、自国の人間だけは軒並み高得点の者が多いこと、自国の人間には満点すらいるほどに。


 それゆえ故意に点数調整をしているのではないかと疑いが浮上したとのこと。


 それにこの試験会場だけ受験生の進みが止まっており、数が捌けておらず明らかに問題が起こっているであろうことは読み取れていたと。


 いくら試験の点数を付けるのが試験官の裁量に任されているとはいえ、その基準が違いすぎれば問題になる。


 それは当然他国とももちろんであるが自国内でも問題になると言う。


 そしてもし私情を交えているのならばそれは重罪にもなりうると。


 その偵知をするために元々ここに向かっていたとのこと。


 そしてもし今回のことを故意にしたのであれば、星の永久剥奪処分もありえるとのこと。


 永久剥奪処分とは、今後どれだけ功績を上げようとも二度と自らが有する星を星二以上に上げることはできないというこの国では重罰に相当する一等の厳罰だ。


 要はこの国で奴隷と変わらぬ扱いを受ける者になるということ。


 そして当然、罪人としての刑罰なのでこの国から出ることも赦されない。


 さらに、もしアーノルドが今回不正をしていなければ、それこそボルネイの不正行為として処刑すらありえるとのこと。


 この国で不正とはそれ即ち死罪に匹敵する悪行だという。


 この国を築いたバルデバラン大王を穢す醜行にして、国に対する反逆。


 酌量の余地など微塵たりともない陋劣なる所業。


 たかが自らの自尊心で試験の結果を捻じ曲げ、あまつさえ殺人未遂、それもハーメティアが止めていなければ殺人を犯そうなど、この国が今必死に取り戻そうとしている信頼すらも損ねる凶行だと言う。


 そう語るハーメティアからは怒気すら漏れていた。


 そしてだからこそ、疑いを完全に晴らすためにも調べさせてほしいと懇願してきた。


 その様子はアーノルドを疑っているというよりは、むしろ最初からボルネイを疑っているという様子であった。


 だが正直、アーノルドからすればボルネイが確実に死なぬというのならばその懇願を聞き入れる必要などない。


 どれだけ相手に事情があり、請い願われようとも、それらすべてアーノルドからすればどうでもよい些事に過ぎない。


 自分の敵になり得る者は確殺する。


 己の道を阻み、陥れようとする者を野放しにしてまで、もはや他者に配慮するつもりなどない。


 それこそがアーノルドが今世で進む道。


 だが——何も殺すのはいまである必要はなくなったと言える。


 先ほどまでとは前提が異なる。


 先ほどはボルネイらがアーノルドを失格だと断じ、アーノルドがこの学院に入学できぬもしくは面倒ごとになるから、そしてボルネイの言葉を看過できなかったがゆえにこの場で殺すことにしたのだ。


 それら全てを許容してまで感情を押し殺す必要など皆無であったがゆえに。


 だが、ここで疑いを晴らすだけで当初の目的である入学が叶い、そしてその後ボルネイを殺せば何一つ問題はなくなるという状況。


 一顧だにせず一蹴するには惜しい。


 ハーメティアの言葉が正しければボルネイは死刑か奴隷に準ずる身分になる。


 身分の低い者が殺されようとも誰も気にせぬのはどこであろうと変わらない。


 いま殺すよりは都合のいい状況になることは間違いない。


 もちろんいまここで全員を殺し、アーノルドが手に入れたいものすべてを手に入れるのもありだろう。


 だが、国を相手にするにはまだ早い。


 他に道があるのならばわざわざ棘の道に進む必要はない。


 ときには損益すらも捨てることが必要であるが、今はそのときではない。


 ただ感情のままに行動し、その場の利を逃すなど愚者の行いだ。


 それでは嘗ての自分と何も変わらない。


 今を逃せば殺すことができなくなるというのならばともかく、大した実力者でもないボルネイなどいつでも殺せる。


 この国で死刑になろうと、奴隷のような扱いになろうと、そうでなかろうと、最終的にアーノルドの敵となった者が死ねば問題はない。


 入学という当初の目的も果たし、ボルネイという敵も殺す。


 それで問題はない。


 だからこそ、アーノルドはその身に滾る矛を一旦収めた。


「いいだろう。調べるといい」


 承諾を貰ったハーメティアは安堵とも取れる息を一つ吐き、そして魔力視という魔法を使いアーノルドの魔術の痕跡を調べた。


「魔法を使った痕跡はなし。……ん? それはなにかしら?」


 ハーメティアが指し示したのはアーノルドが指に嵌める指輪であった。


「ん? あぁ、ただの指輪だ」


 アーノルドは鼻で笑いながらそう述べた。


 実際もはやただの指輪なのだ。


 かろうじて形を保っているだけで動力源となる真ん中の宝石すらヒビが入りもはや使い物にならないただの廃棄物。


 魔術回路を埋め込んでいる宝石それ自体に隠蔽をしてあるため魔力の痕跡も残りはしていない。


「気になるならば渡してやろうか?」


 ないとは思うが、極論魔道具であるとバレようとも問題はない。


 ただ実力を隠すためのものに過ぎないからだ。


 言ってしまえば、アーノルドに探られて困る腹などない。


 実際不正などではなく、ただその実力でボルネイを制したのだから。


「いえ、問題ないでしょう」


 ハーメティアは少しばかり目を細めていたが指輪を探ることなくチェックを終え、さらに護衛らしき者の一人に他に何か仕込んでいないかボディチェックをさせて調査を終えた。


「別段怪しいものなどは見つかりませんでしたが?」


 ハーメティアが無慈悲とも言えるほど冷めた声でボルネイへと告げた。


「あ、ありえません‼︎ では、副学院長様はこのような者に私が負けたとでも、実力が劣るとでもお考えですか⁈ それこそありえぬことでしょう⁉︎」


 ボルネイも自身の末路がわかっているからか必死の形相で言い募る。


 ハーメティアへの恐懼などもはや微塵も感じられないほどの形相で、それこそいまにも掴みかからん勢いで必死に自分がどれだけすごくて、どれだけの能力があるのかということをハーメティアに説く。


 自分がそこの愚物に負けるなどということはありえないのだと。


 だがハーメティアは何やら考え込んでいるようで、ボルネイにはもはや視線すら向けていなかった。


 ハーメティアにとってもボルネイの主張の真偽は実際微妙なところであったからだ。


 アーノルドは指輪の効果がなくなったことで強者(つわもの)が持つ雰囲気をわずかながら醸しているが、その実力が果たしてどこまで高いのかまではアーノルド自身がその力を抑えているため正確なところはわからない。


 ボルネイの様子からして、ボルネイを圧倒したことは間違い無いだろうと思っているが、ボルネイとて弱くはないことを知っている。


 はたしてボルネイを圧倒するだけの実力が本当にあるのか。


 それにハーメティア自らが止めなければ、最初のボルネイの攻撃であのまま死んでいたようにも見えた。


 疑問は確かに残る。


「それならば、もう一度ここで試験をしていただきます。私が実際に観てみれば問題ないでしょう」


 分からぬならば実演して貰えばいいだけ。


 ボルネイがただ自身の自尊心と自負心ゆえにアーノルドを不正と断じたのか、そして本当にアーノルドがボルネイを圧倒するだけの実力があるのか。


 それを一挙に解決できる。


 名案だろうと内心頷く。


 だが、それにはアーノルドが待ったをかける。


「——おい、ふざけているのか? そいつの不手際の責をこっちにまで(なす)りつけるな。もう一度だと? はっ、それをする必要がどこにある。そいつは負け、私が勝った。証人などこの場にいくらでもいる純然たる事実だ。その末に看過できぬ言葉まで吐かれたのだぞ? それを貴様の言葉一つで治めてやったのだ。そのうえ不正などという馬鹿げた主張に付き合ってやったのだぞ。これ以上貴様らに協力する義理などない」


「看過できない言葉? まずは、謝罪をしろ、ということかしら?」


 ハーメティアは煩わしそうに眉間に皺を寄せた。


 そして思わず吐き出しそうになったため息を何とか抑える。


 一応こちらは請い願う立場であると。


 ため息を吐くのは無礼だろうと。


 貴族というのが体面を重視するということは知っているが、それでも億劫にはならざるをえなかった。


 こんな恥晒しのせいでなぜ私がそんなことを、と。


 だが返ってきた返答はハーメティアの予想していない言葉であった。


「そんなことはどうでもいい。貴様らの調査に付き合ったことで試験を受けた者として協力の義務は果たした。貴様が私の力を読み取れんからとそれにまで応える義理はないと言っている」


 そう言われたハーメティアは僅かに顔を顰めた。


 心を見透かされ、痛いところを突かれたからだ。


 たしかに試験という大義名分はあれど、力を見たいという気持ちも否めなかった。


 極論ボルネイの罪を問うだけならば、もう一度試験などする必要がないのだ。


 それにハーメティアは先ほどの言葉によって漏れ出たアーノルドの実力の一端を感じ取り、ボルネイごときでは相手にならないだろうことも感じ取った。


 少なくとも今感じ取っている実力が底などではないと。


 そこに護衛の一人が素早くハーメティアに近づく。


 どこかに行っていたようだが、どうやら観客席にいる者達に聴取をしに行っていたようだった。


 そして渡された紙を見たハーメティアは大きく呆れたようにため息を吐き、ギロリとボルネイを睨んだ。


 ボルネイはもはやハーメティアのことを直視もできずただ俯いているだけだった。


 小物の分際で、と罵りの一つでも浴びせてやりたい気分であったが、それこそハーメティアにも体面があるためそんなことはしなかった。


 そしてハーメティアはため息を一つ吐き、アーノルドの方へと向き直る。


「本当に申し訳ないことをこの者がしたみたいね。この国の者として謝罪するわ」


 そう言ったハーメティアはまるで貴族令嬢であるかのように優雅に頭を下げた。


 そこには強者が強者に向ける敬意を伴っていたと言ってもいいだろう。


 だが、アーノルドはそれを見て、より不快げに目を細めるだけだった。


「その謝罪を受け取る気はない。貴様が私に謝罪せねばならんことなどない。むしろそんな屑のために頭を下げられる方が不愉快極まりないことだ」


 その言葉に苦笑気味の表情を浮かべたハーメティアはそのまま言葉を続けた。


「試験の件についても撤回しましょう。貴方がこの者を一撃で倒したというのを見たという証言が数多あるようですので、……もう一度する必要はないでしょう」


 少しばかり残念そうな様子が言葉にも表れていた。


 だが、それには納得できぬ者が一人。


「お、お待ちください‼︎ あんな者たちの証言を信じるというのですか⁈ 全く実力がない者達に一体何が——」


 ボルネイからすれば最後のチャンスとでもいうもの。


 ハーメティアが観るならばそれこそ不正などできないため、自分がアーノルドを合法的にぶちのめすチャンスでもある。


 そしてすべては相手の不正によって起こったことだと、喧伝する最後のチャンス。


 だがボルネイは言葉の途中までしか言うことができなかった。


 体の芯から凍えたかと思うほどのハーメティアの冷めた鋭い瞳に射抜かれたからだ。


 物理的に氷に覆われたわけでもないのにボルネイは内側から凍りつくかのような寒さに体を支配されていた。


「それ以上は喋らぬ方がよろしいでしょう。いくら温厚な私にも我慢の限界というものがありますので。いまこの場で処理されたくなければ——あとは沙汰を待ちなさい」


 その後ゴモゴモと話していた言葉はよく聞き取れなかったが、まったくパーティーが、と呟いていたような気がした。


 その姿に違わずこの後パーティーにでも行くのだろう。


 ハーメティアからすれば、ボルネイとアーノルドの格付けは既に済んでいる。


 ボルネイのためだけにもう一度試験をさせるつもりなどはなかった。


 ハーメティアの怒りに反応するかのように、大気中の目に見えぬはずの水蒸気が霧のごとく漂いだし、そして氷晶へとその姿を変えていく。


 ハーメティアの周りだけとはいえ、そこにある力の奔流を読み取れるアーノルドとて迂闊に動けるものではなかった。


 ボルネイはボルネイでもはや何も言うことはできなかった。


 冷徹なる瞳に射抜かれたボルネイは過呼吸にでもなったかのように酸素を求めて喘いでいるからだ。


 強者畏敬。


 実力差がありすぎると睨らまれるだけでも恐怖に晒され身体活動が低下する。


 まさに蛇に睨まれた蛙といった有り様だろう。


 といっても凛然とした様子でボルネイを睨んでいるハーメティアは蛇などと生温いものでは到底ないが。


 だがそれもハーメティアが深呼吸でもするように大きくため息を吐くまでだった。


 自らの気を沈めるかのように息を吐いただけで、その場を支配していた全ての冷気が引っ込んだ。


 そしてハーメティアはアーノルドの方へと顔だけを向ける。


「悪いけどこの者は預かっていくわよ」


 ハーメティアの瞳には有無を言わさぬ決意すら秘めた強固さが垣間見えた。


 断れば——と。


 これほどの実力者だ。


 アーノルドがボルネイを殺そうとしていたことくらいはわかっているのだろう。


 だからこその宣告。


 だが、アーノルドはそれを鼻で笑った。


「好きにするといい」


 殺すことに違いはないが、それはいまではない。


 この国の法で死刑になるならよし、ならぬならばあとで殺せば良い。


 少なくともボルネイが利を得る展開ではなくなった。


 それだけでも露ほどは溜飲が下がったと言える。


「……そう。ああ、試験の点数はこちらで厳正なる審査のもとで付けさせてもらうので安心してください」


 ハーメティアはそう言うと、他の試験官達も捕らえてくるようにと護衛の者達に指示を出し、それと入れ替わるように試験場の外から七人ほど別の者達がやってきた。


 その内の二人がボルネイや他の試験官達を連行していく。


 アーノルドは心の根底でずっとモヤモヤとした違和感のようなものを持っていたが、結局その違和感の存在に自身で気づくことなくその場を去っていった。


 その後ろ姿をハーメティアは一瞥し、もうこの場には用はないとばかりに凛然とアーノルドが去っていった方とは逆側に歩いていった。


 紆余曲折あったがアーノルドの二日間の試験は無事に終了したのである。


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