9話
魔法試験を終えたアーノルドは最初に入った扉から外に出てきた。
その手には次の試験会場の場所が記された紙が握りしめられている。
周りにはかなりの数の受験生が右往左往と移動しており、広い通りだというのに人で溢れかえっていた。
中には自身の護衛を公然と連れ添って歩いている者達もいるし、貴族に無駄に絡まれないようにか平民同士で固まっているような者もいる。
アーノルドはそんな者達になど目もくれず、一直線に次の試験会場へと向かっていった。
最後は剣術の試験。
流石に選択科目の中で一番人気があるだけに待っている人が多い。
槍や他の武器を使う貴族もいるにはいるが、騎士として剣以外は邪道だという現代の風潮により実際にそれらを極めている者は少ない。
そもそもそうやって衰退していった結果、教えられる者が満足にいないというのが現状だ。
アーノルドに言わせれば、なんと怠惰なことか、とその風潮など鼻で嗤うだろう。
自分が使わぬからとその武器を知らぬなど、相手が使ってきた時にどう対処するつもりなのかと。
特に槍などは剣に比べてリーチが長い。
その分だけ剣と槍の戦いでは意識することが変わってくる。
特にこの国の人間はあらゆる武器を偏見なく使っている。
敵国になることを想定するならば、当然知っておかなければならないことである。
そしてあらゆる武に精通することを目指すアーノルドにとってはそれらを習得し、視ることもこの国に来る目的の一つだ。
強さとは一意的であってはならない。
多義的な強さこそアーノルドが望むものである。
いついかなる状況であろうと、もはやアーノルドに負けは赦されない——否、赦さない。
剣術試験の試験場には貴族と平民が入り乱れていた。
貴族が平民を押し退けて試験をしているのかと思えばそういうわけではなさそうであった。
どちらかといえば貴族が平民達にさっさと行けと視線で訴えているように見える。
だがその原因もすぐにわかった。
「はぁ〜、やっぱりこの程度なのですかね、他国の人間なんて。まったく他国の人間を受け入れるなんて無意味なことを。それにしても貴方方は弱いだけでは飽き足らず、臆病者でもあるのですか? さぁ、さっさとかかって来なさい。時間は有限なのですよ。それが出来ないならさっさと自分の国に尻尾を巻いてお帰りなさい。この国はあなた達のような“無能”が学ぶにはそもそもレベルが違いすぎるのです。まったく……、貴方方に相応しきドブ溜めで満足しておけば良いものを。試験を受けるにしても最低限の基礎くらいは身につけておいて欲しいものです。私達の時間も無為にあるわけではないのですよ?」
アーノルドが試験会場に着くと、嫌味ったらしく受験生をバカにするような声が響いてきた。
アーノルドはその言葉を聞きながら、まずは二階の観客席の方へと向かう。
待っている人数はざっと五○人ほど。
だが、いま観ている光景はその五○人を捌くのに大した時間などかからないだろうと思わせるものだった。
先ほど聞こえてきた言葉に触発されたのか幾人かの貴族と思わしき子供が鼻息を荒くしながら剣術試験官に挑んでいった。
貴族としてのプライドが剣術試験官のいまの侮辱とも取れる言葉を許せなかったのだろう。
しかし、あの剣術試験官はまともに試験などするつもりがないのか、向かってくる貴族の子供の攻撃など受けることもなく、その子供の実力では到底捌くことなどできぬ攻撃を一撃当てて、ただ仕留めるだけ。
そのまま試験終了だと突きつけられた子供達は納得できぬと怒りの感情に身を任せ再び突っかかっていくが、それもまた一撃で仕留めるだけ。
その一撃は先ほどまでよりも重いものであった。
アーノルドの目から見ても、とてもではないが試験といった様態を為してはいない。
あの試験官とて一目見れば受験生の大体の実力などわかるはずだ。
それでも、あのような無慈悲とも言える攻撃をするのならば、あの剣術試験官に相手の実力など見る気はないと見える。
流石に問題になるからか怪我をさせる気はないようだが、それでも試験官が受験生相手に手加減をしなければ勝てるはずもない。
この試験がただ試験官にその刃を届かせられるか否か、というものならば問題ないだろうがこの試験はそうではない。
そうして勝っておいて、“これだから他国の人間は”、“弱すぎる貴方に剣を握る資格などあるのですか?”、“今まで何をやってきたのです?”、“おままごとでもしていたのですか?”“才能がないのだからやめてしまいなさい”、などとひたすら愚弄とも言える言葉を自らが打ち負かした受験生に吐き続けていた。
随分と他国の人間に恨みでもあるのか、その嘲笑の笑みはここにいる他国の受験生達の神経を逆撫でしていた。
だがいくら怒りに呑まれようとも、あの試験官に勝てぬことは理解できているようで試験場に出ることは尻込みしているようである。
その試合を観ていた他の試験官の方を見ると、その剣術試験官を注意するどころか同じように底意地の悪い笑みを浮かべてニヤニヤとしているだけ。
アーノルドはそれらを見てくだらぬなと鼻を鳴らした。
だが別にその行為自体を咎めるつもりはない。
試験の基準を決めるのは向こうであり、受けた側はその基準に満たないほどただ弱かったというだけ。
それにこの国は実力主義社会だ。
それを知った上で、実力がない者が分不相応にも試験を受けに来たのならばそれはただの迷惑行為とも言える。
言い方はともかく、言っていること自体は間違ってはいない。
大した努力もせず、奇跡に縋るなど邪魔以外の何者でもないだろう。
試験を受ける側が、試験が難しいからと文句を言うなどそれこそ嘲笑ものだ。
強ければいいのだ。
何よりも強ければいい。
不満そうに帰っていく者や納得できないと怒りを露わにする貴族。
この試験官達にとっていま受けにきた受験生が合格に満たぬくらい弱いことは事実。
それは誰がどう言おうと覆せぬ事実だ。
それに受験生に対する手加減はしていないが、人として殺さないように、そして終わった後でも立って帰れるくらいには手加減されているのだ。
私怨こそ垣間見えているような気もするが、受験生達がただ試験官の基準に満ちていなかっただけ。
そう言われればその通りなのである。
それに文句を言う方が見苦しい。
国が変われば法すら変わる。
実力こそが全ての国ならばその実力を以て叩き潰してやればよいだけなのだ。
そして何にも縛られたくなければ相手が何も言えぬくらい圧倒的な力で叩き潰せばいいだけだ。
それは国すらも超越した世界の法だ。
それもできぬ者がこの世に横行している理不尽という名の僻事に飲まれることなど至極当然のことだ。
だがそれはそれとして、アーノルドはあの程度の受験生を倒して得意げになっているあの試験官の鼻っ柱はへし折ってやりたいとも思っていた。
見ていて不愉快だ、と。
喚く貴族の子供達が強制的に連れ出され、そちらを見てため息吐いていた剣術試験官は嫌悪感丸出しの表情を浮かべていた。
もはや隠す気もないのだろう。
アーノルドは少し待っても誰も試験場に出る気配がないので、いまいる二階の観客席から飛び降り、一人試験場に歩み出て行った。
それに気づいた剣術試験官がアーノルドを睨みつけるように凝視してくる。
その瞳には、また貴族か、と呆れたような色を浮かべているのが見て取れる。
だが、アーノルドはそれに対して怒りなどという感情は湧いてこない。
相手が油断している状況というのなら喜ぶことはあっても怒りなど湧くことはない。
ゲイツはこちらを舐めてはいたが、油断はしていなかった。
だが、目の前の男はやる前から油断している。
そういう者は相手にならない。
“いついかなる時も油断はするな”
そんなことは当然である。
向けられる不快な視線など気にもしていないアーノルドは、壁際に立てかけられている長さの異なる木剣の中から一つを選び取った。
アーノルドがその木剣の馴染み具合をチェックしていると剣術試験官が不機嫌そうに声をかけてくる。
「さっさとしてもらえますかね? まだまだ有象無象がたくさん控えているのでね」
鼻で嗤っているかのようなその言葉の裏には、どれを選ぼうが大差ないくせにカッコつけているんじゃない、と嘲笑を浮かべているのがわかった。
だが、いまも尚増え続けているかなりの数の受験生を捌かなければならない試験官からすればその言葉は正しくもある。
そのまま手に持っていた木剣を選んだアーノルドが無感情とでもいうかのような仏頂面で試験官と向かい合った。
「いつでもどうぞ」
剣術試験官は一方的にアーノルドを嬲るつもりはないのか先手を譲ってきたが、カウンターを決めようとしていることが手に取るようにわかる嗜虐的な笑みを浮かべていた。
(くだらんな。やる価値もない)
ゲイツとは違い、相手にする価値もないと見做したアーノルドはすぐにこの試験を終えるつもりだった。
一撃入れれば十分だろうと。
剣術試験官の視界からアーノルドが消えたと認識した瞬間、剣術試験官はまるで何かに押されでもしたかのような衝撃を受け、尻餅をつく形で盛大に地面に倒れた。
油断もあっただろう。
だが、果たして油断していなかったとしてこの剣術試験官がアーノルドの動きを目で追えたのかは定かではない。
尻餅をついている剣術試験官の額の辺りが次第にジンジンと痛くなってくる。
“滑った?”そう考えたがそれならば後頭部に痛みが走るはずだと思い直す。
剣術試験官は何が起きたのかすぐには理解できていなかった。
だが、それもいつの間にか側に立っているアーノルドの言葉を聞くまでだった。
「終わりでいいな?」
嘲笑するでもなく蔑むでもなく、ただアーノルドの無機質な瞳が剣術試験官を見下していた。
鎧袖一触。
つまらない試合。
強いて言うならば、その瞳に映るのはそんな言葉だろう。
剣術試験官はバッと試験を観ていた他の試験官達の方に顔を向けたが、その者達は何とも言えぬ苦々しさと驚愕が織り混ざったような表情を浮かべているだけであった。
それが何よりもこの状況の答えを告げていた。
試験官たる自分がこんな子供に一本取られたのだと。
早々に試験を終わらせようと一撃で仕留めたアーノルドであるが、一つわかっていなかったことがあるとすれば、目の前の男はアーノルドが考えるよりも遥かに弱かったことだろう。
「一体どのような小細工を弄したのですか? 不正は即失格、そう言われているはずですよ?」
その試験官は敗北を認めはしなかった。
エリートたる自分が何の小細工もなしにやられるはずがない。
となれば、当然疑うのは不正行為だ。
そしてその顔に浮かぶのは怒りとも恥辱とも取れる赤ら顔のような紅潮であった。
エリートたる自分が子供に、それも他国の子供風情に一本取られたなど醜聞にしかならないと。
剣術試験官は先ほどの一連の動きを見ていた試験官達に目配せをし、頷いたのを確認してからアーノルドへと向き直った。
「魔法ですか? それとも魔道具ですか?」
剣術試験官の頭の中にはアーノルドが不正したことは既に確定していた。
普通に考えて目の前の“凡庸”な子供が自分に気づかれることもなく一本取るなどありえぬからだ。
魔法で存在を誤認でもさせたか、それとも魔道具によるものか。
“油断していた”自分からなら、隙を突けば一本とれただろうと。
それゆえ、剣術試験官にとってはアーノルドが不正をしたというのは覆りようのない事実であった。
だがそうは言っても、この試験官もまるっきりの凡俗というわけでもない。
試験官自身が認知してすらいない意識の根底ではアーノルドの実力である可能性というものを考えている。
だがそれは、自尊心という頑強な扉によって守られているため決して表に出てくることはない潜在意識にすぎないというだけだ。
剣術試験官は罪人を問い詰めるかのような険しい視線をアーノルドに向けるが、当のアーノルドは呆れたようにため息を吐くだけだった。
「不正だと宣うのなら、その程度自分で見極めたらどうだ?」
呆れたような声色。
その言葉が剣術試験官の神経をより一層逆撫でした。
いくら自分が油断し、相手が不正行為をしてきたのだとしても、他国の子供風情に遅れをとったことには変わりがない。
それが戦場でなら死を意味する。
もはや油断などという言い訳すら許されぬ醜聞であることはどう足掻いても覆らない。
そんな二度と消えぬ汚名とも言える屈辱を味わわせられたのだ。
にもかかわらず、試験という状況を利用し、虚をつくかのような醜行で自身に恥をかかせてきた当の本人は悪びれる様子もなく挑発してくるような態度。
顔を茹でダコのように赤くするには十分であった。
それこそ殺してでも自らの名誉を回復しようかと頭に浮かぶほどに。
だが、剣術試験官は思い留まった。
名分がないからだ。
殺すための大義名分が。
それゆえ口から出るのは私憤が抑えきれぬ故のうめき声とでもいうような怨声。
だがそれも刹那、さっきまでの恥辱に塗れた顔とは違い、まるで嬉しいことでもあったかのように欣快にその顔を歪ませ、優越感とでもいうような表情を浮かべながらアーノルドに嗤いかけてくる。
「そこまで非協力的な態度を取るのならば仕方ありません……、ええ、仕方ありませんよねぇ。何せ協力する気がないのですから、仕方ないですよねぇ?」
アーノルドに問いかけているようでそうではない。
ただ己に暗示でもかけるように、そしてこの場にいる他者に己の正当性をあらかじめ示すために吐いている言葉にすぎない。
これから起こることは当然のことだと。
剣術試験官は何が楽しいのか、それとも嬉しいのか、その口からどうしようもなく溢れ出る嗤い声を漏らしていた。
何やら背を丸め、その溢れ出る嗤いを抑えようとしているようにも見えるが、その努力はまったくもって実っていない。
誰もが動かぬ中、その試験官の嗤い声だけがずっとその場に響いていた。
クツクツと忍び笑いを漏らした数瞬後、ピタリと嗤い声を止めた剣術試験官はロボットのようにくるっと首だけを動かし、薄く笑みを浮かべたその顔をアーノルドへと向けた。
その目はまだ狂っているようには見えなかった。
だが決して良い類の視線ではない。
ろくでもないことを考えている目だ。
剣術試験官は改めてその全身をアーノルドの方へと向け、乱れてもいない服を整えてから口を開く。
「それでは告げましょう」
そう言った試験官はニヤついた表情すらも完全に取り払い、真剣な表情を意図的に浮かべていた。
だが、それでも尚、口元がひくついていることは隠しきれていない。
ろくでもないことになることなど分かりきっているが、それでもアーノルドが口を挟むことはない。
ただ憮然と剣術試験官のことを見ているだけである。
剣術試験官はゴホンと一度咳払いして刹那、アーノルドをジッと見据えた。
そしてやっとその口を開く。
「貴方は失格です。ここに、私ボルネイ・ヴィクターの名において貴方の不正を確認したことを宣言いたします! 誓約に則り、貴方の試験はここで終わりです」
まるで厳正なる調査の結果とでもいうかのような雰囲気でアーノルドにそう突きつけてきたボルネイは、次第にその表情に爽快さを滲ませ、またしても忍び笑いを漏らす。
その表情には明らかに嬉しげな様子が見て取れる。
「……ふっ、ふふふ、くふふふふふ、残念でしたね? これで貴方の試験はおしまいですよ? 遠路はるばるわざわざ落ちるために来るなんてご苦労様でした。あれ? どうしましたか? 驚きで言葉も出ませんか⁈ もしやバレないとでも思っていましたか? まさか本気で自分の実力として認めてもらえるとでも? そんな訳ないでしょう⁈ 他国の屑の分際で我々を謀ろうなどと烏滸がましい! 我々を、貴方の国にいるような無能な大人共と一緒にしないでもらいたいものです。不正したかどうかなど簡単にわかるに決まっているでしょう? その程度もわからぬと思われているなど、随分と舐められたものですねぇ。まったく……、貴方のような穢らわしき者が栄誉ある我が学院に入るなどありえないのですよ。それに不正行為に身を染めた他国の下愚ごときがこのわ・た・しに口答えしようなどと……、そろそろ身の程を弁えたらどうです? ほら、まずは謝罪でしょう? いくら屑であっても謝罪の仕方くらいは知っているでしょう?」
ボルネイは言葉を紡ぐごとに、人を陥れて喜んでいるような醜悪な笑みを浮かべ、最終的には取り繕っていた表情の面影すらないほど高圧的な態度で指差しながらアーノルドへと詰め寄ってきた。
吐き出された唾すら届きそうな距離である。
その様はアーノルドが実際何をしたのかわかっていない、状況を見守っていただけの受験生の誰もが、ボルネイの私怨を疑うほど醜悪なものであった。
「ほう。随分この国も程度が低いのだな。少しばかり期待していただけにがっかりだな」
だがそれに対し、アーノルドは心底くだらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
しかしその言葉を聞いたボルネイは、内から湧き出る喜悦を抑えきれぬとばかりにニンマリとした笑みを浮かべる。
自国を蔑むような言葉でさえ、いまのボルネイにとっては心を慰撫するような負け惜しみにしか聞こえない。
己の傷ついた自尊心を回復させてくれる言葉にしかならない。
そして次第に相手を思い通りに貶められた喜びを噛み締めるかのような忍び笑いを漏らし始めた。
どうにか冷静さを保とうとしているのは見て取れるが、もはや心の中から湧き出る愉悦という麻薬のような多幸感が押し寄せ、取り繕うことすら難しいのだろう。
既にこの試験場に響くほどの声量で笑い声を漏らしており、忍び笑いにすらなっていない。
いくら取り繕うにも止まらぬ笑いに、もはや取り繕うことも諦めたのか、他者が思わず顔を顰めるようなニタっとした笑みを浮かべ、アーノルドの方へと向き直ってきた。
「ふっ、ふふふ、がっかり? がっかりですか⁈ ヒハハハハ、貴方がどう言おうとも、もはや結果は変わらないのですよ? 所詮貴方は他国の人間。試験官である私が失格といえばそれで終わりの存在。他国の者というだけで貴方が受かるなど、そもそも夢のまた夢なのですよ⁉︎ その程度もわかっていないとはやはり屑は屑! 残念でしたね⁈ この国に産まれることができなかった無能な貴方の不運を恨むと良いですよ? アヒャヒャヒャヒャヒャ」
悪魔のような笑い声を上げるボルネイは、取り繕っていた最後の仮面の一欠片すらも剥がれ落ち、その内に秘めていた醜悪さが盛大に顔を覗かせていた。
これこそがこの人間の本性だと。
それまで傍観していただけの受験生達もいまのボルネイの言葉には流石にざわついていた。
他国の者である時点で合格させる気がないというような言葉。
それが真実ならば到底看過などできぬものだと。
この場にいるほとんどの者は、実際アーノルドよりも前に、多くの貴族、平民がこのボルネイによってまともに点数すら貰えていないのをその目で見ている。
それが試験全体の基準ではなくこの者ゆえの基準ならば、そんな不合理を到底許すことはできないと熱り立っている。
「はっ、これだけの人数の前でそんなことを言ってもいいのか?」
アーノルドが薄ら笑いを浮かべてそう問うが、ボルネイはそれすらも鼻で嗤うだけであった。
「何の問題が? どうせ、どいつもこいつもここでただ落ちるだけの有象無象。試験を受けようと受けなかろうと、もはや落ちることなど決まっているのですから何一つ問題などないでしょう?」
そう告げたボルネイの表情は、もはやボルネイが故意に落としていないなどと言っても誰も信じないほど酷いものであった。
そしてその言葉にはさすがに受験生たちからの糾弾するような罵声が響く。
だが、それすらもボルネイは鼻で嗤う。
「赦さない? 赦さないと言いましたか? はっ、赦すかどうかを決めるのは貴方達ではなく、このわ・た・しです! それともここにいる有象無象の貴様ら凡愚共がまさか我が国に噛み付けるとでも⁈ 思い上がりも甚だしい‼︎ どいつもこいつも我が国の技術、道具、武力、医学、学問に至るまでおんぶに抱っこの弱小国から来た愚劣風情にいったい何ができると言うのですか? 我が国が寛厚にも、道具を売り、知識まで授けてやっているというのに、数年経とうとも一向にその構図は変わらないではないですか⁉︎ いやはや他国の人間はこの三五○年間余りずっと居眠りでもいたのですかね?」
実際このボルネイの横暴によって試験に落ちたとして、果たして何人が実際に抗議できるのか。
まず平民は無理だ。
何を言おうともたいして取り合ってなどもらえないだろう。
運が良ければ実直なる人物に当たるかもしれないが、ここまで威勢よく吠えられるということはおそらく後ろ盾なり対策なりとしているのだろう。
まずその手の窓口はボルネイと似たような過激派の連中で固められていると言っていいだろう。
言うだけ無駄である。
そして貴族ならば国同士の力関係がものを言うが、いまは国同士の力関係は顕著だ。
それこそ張り合えるのは四カ国くらいなものだろう。
ダンケルノ有するハルメニア王国、広大な領土に強大な権力と力をもった皇帝が支配するアルトティア帝国、国自体は平凡であるが無敵とも称される屈強な女王が君臨するマリンエア王国、そして数多の国が国教としているブーティカ教の総本山があるブーティカ聖国。
だが張り合えるとは言っても、実際問題張り合うかは別だ。
被害に遭ったのが王族とかならばともかく、いまの関係上、たいして力もない貴族のために国が動くことはないだろう。
だからか、この場にいる誰も声高にボルネイへと罵声を浴びせる者はいなかった。
皆言葉以上にそれを理解しているのだ。
「さぁ、この場のど・こ・に、我らが栄えあるバルデバラン学院に入るだけの才を有した者がいると言うのですか⁈ 我こそはという者は?」
ボルネイはもはや狂気といっても差し支えないほどの狂喜に満ちた表情を浮かべていた。
己の国が、ここにいる者が属しているどの国よりも優れていると実感できる狂喜を。
その相貌はまるで神に服従し、神のためならば手段すら選ばない狂信者のそれと言っても差し支えないほどであった。
よく言えば愛国者なのだろうが、その様相はもはやそんな言葉では収まらないほど歪に歪んでいる。
そんなボルネイに立ち向かっていけるほどの豪胆さを持つ者はこの場にはいなかった。
いま出ていけば、それこそ狂気に侵されたボルネイに叩きのめされることなど火を見るよりも明らかである。
この状況下でボルネイに向かうということは、トライデント魔導王国を軽んじていると言っているのと大差ない。
ボルネイにとってはこの国こそが神であり、その神に仕えることが許されるのはこの国の人間だけ。
神を穢されて怒らない狂信者はいない。
誰も言葉にすらしていないのにそういった共通認識をこの場にいる皆が持っていた。
だからこそ誰も出ていくことなどできなかった。
そうやって尻込みしている者達をボルネイがさらに嗤う。
「まったく、結局どいつもこいつも腰抜けの臆病者どもばかりと。力の差を理解する程度の頭はあるようですが、それを覆すことなど到底不可能な屑の群。優雅な境遇に甘えているだけで努力などしない貴族、その貴族に逆らえないことを言い訳にしてまともな努力もしない平民。そんな屑共に一体何の価値があると? 我が国で一体何を学べると? ああいや、失礼。努力をしても成果が出ないというだけでしたかね? どれだけ努力をしようとも、我々の足元にも及ばない凡人に過ぎないというだけでしたか。それは失敬。ですが、この学院は我が国の、いや、この世の頂点に座す至高の場! 貴方達のような、どれだけ努力しようとも凡愚止まりの凡人が入ろうなどと考えるだけでも烏滸がましい場所なのですよ⁈ 本当にその辺を理解できていますか⁈ 理解できたなら、いまからでも身の程を弁えて帰ってはいかがですか⁈ 屑共が我が国にいるだけでもその神聖さが穢れるんですよ! さぁ、さっさとお帰りなさい‼︎」
その言葉には、いかにボルネイの狂気に呑まれ口籠もっていた受験生達であっても、言葉にもならぬ唸り声とでもいう濁声が大きくなっていた。
それこそ何人かは罵声と大差ない抗議の言葉を吐いている。
ここ数年、死に物狂いで勉強をしてきたという平民も数多くいるだろう。
文字通り人生がかかっていると言っても過言ではないのだから。
その努力を否定するばかりか、目の前にいる試験官による理不尽によってそれが無に帰するなど到底認められないだろう。
だが、ボルネイにはそんな有象無象の言葉など届かない。
有象無象がどれだけ騒ごうが自分自身には何一つダメージなどないのだから。
むしろその言葉を聞き、至極の美味なる料理に舌鼓を打っているかのような満ち足りた表情を浮かべている。
絶頂したような恍惚の表情と言い換えてもいいだろう。
アーノルドはそんなボルネイに呆れたかのように吐き捨てる。
「まったく。屑ほどよく吠えるというのは本当にどこであっても変わらぬものだな」
その言葉を聞いたボルネイが、ゆったりと蔑みを隠さぬその目をアーノルドに向け、それこそ心が充足したかのような歪な笑みを浮かべた。
「ふむ、小鳥でもさえずりましたかね? ああ、それとも犬の鳴き声でも聞こえましたか? 負け犬ほどよく吠えると言いますからね?」
自分の方が立場が上であると自覚しているがゆえに出る、相手を見下すような嗤い顔。
「どれだけ貴方が喚こうとも、もう意味などないのですよ。すべては私の匙加減。私の掌の上。すべてはこの国に産まれたか否か。この国に産まれたというだけで私は既に貴方のような無能よりも遥か高みにいるのです! 私こそがこの場の絶対者! 極論貴方が不正したかどうかすらどうでもいいのですよ。不正をしてようがしてなかろうが貴方が落ちていたことに変わりはないのですから。いまだそんなことすらわかっていないとは、その頭は飾りですかね? まったく、対等などと勘違いしないでもらいたいものですね」
悦に浸っているボルネイは止まらない。
止まらないが故にいらぬことまで口走る。
「いいですか? 貴方のような貴族はさも自分こそが選ばれた人間だと妄信しているようですが、貴方達など威張っているだけで何も出来もしない屑同然の存在なのです。つまり、貴方のような何もできぬ“弱者”がこの私に逆らおう……な、ど——」
気持ちよく悦に浸りながら喋っていたボルネイの言葉が自らの意志に反し、徐々に萎んでいった。
言葉が止まったことで一番戸惑い、驚いているのはボルネイ本人だった。
それはボルネイですら認識していない生存本能とでもいう、人間が生きるために働かせる機能がそうさせたからだ。
目の前に鎖に繋がれてもいない殺気を放つ猛獣がいて、悠長にもティータイムと洒落込むような者などいないということだ。
本能が逃げろと叫ぶ。
目の前の猛獣から逃げろと。
ボルネイが心と体の乖離に困惑し戸惑っていると、目の前の猛獣などと形容することすら生温い一匹の災獣がそれまで厳重に閉じられていた凶行すら紡ぎだしそうなその口を開く。
「——たかが迂愚ごときが、この私を弱者と謗るか」
目の前の子供から発せられたとは思えないほどの低く重たい声。
それを聞いただけで慄然しそうになるほどの厳粛なる声。
先ほどまでの無表情で覇気のない様子など微塵たりともなく、本来目に見えぬ怒気ともいえる怒りのオーラを幻視するほどの威圧感がアーノルドにはあった。
その鋭い眼光に曝されたボルネイは思わず、唾を飲んだ。
だが、ボルネイとてこの国で星を一○も与えられている剣士だ。
畏れはせよ、恐れることはなかった。
だがそれも次の言葉を聞くまでであった。
「貴様がどれほどの暗愚で、どんな愚計を企もうがどうでもいい。だがな、この私を弱者と謗り、あまつさえ貴様のくだらぬ計略に巻き込むというのならば——貴様を殺す」
それは誰であろうと抗うことなど許さぬ“呪”とでも言うべき呪言の言葉。
摩利支天ですら逃げ出す絶対の言葉。
何の混じり気もない純然たる言葉であるが故に、その言葉はボルネイをも厳重に縛りつける。
ボルネイの言葉は看過できぬ地雷の言葉だ。
凡愚と謗るならまだ許そう。
愚者と謗るならば受け止めよう。
だが、弱者はダメだ。
断じて看過できぬ言葉だ。
アーノルドがアーノルドたり得るための絶対の法。
それを侵す者は何人たりとも赦してはならない。
それを赦せば、もはやアーノルドがアーノルドである意味がない。
ボルネイはそのアーノルドが敷いた法を破った。
たかがくだらぬ私怨で——いや、たとえそれがくだらなくない私怨であろうと——アーノルドを蔑み邪魔をするというのならば、その者が辿る結末は二つに一つ。
アーノルドを殺し生き残るか、アーノルドに殺されるか。
それしかない。
「殺されたくなければそのうるさい口を閉じよ」
だがアーノルドとて、道理は弁えている。
自ら力を隠し、攻撃させる。
それではマッチポンプに他ならない。
力なき者に粗暴なる振る舞いをする愚者に与える慈悲など端からないが、アーノルドの矜持がそれを赦さない。
だが所詮、こんなものは言うだけ無駄な確認作業だ。
いままで誰一人としてその程度で口を閉じる者が、そもそもアーノルドの敷いた法を破ることなどなかったのだから。
自らが強者であると心得違いしている者が一度弱者と見做した者に阿ることなどないゆえに。
「は、……はは……言うことだけは一人前ですね」
少しばかり気圧されていたボルネイであるが、自らの矜持ゆえか、それとも自らの方が強者たるという妄信ゆえか、次第に先ほどまで浮かべていた表情へと戻っていった。
「まったく、口だけは……ッ——‼︎」
尚も見下すような目でアーノルドを見ていたボルネイが何かを言おうとした瞬間、ボルネイの前髪の一部が目の前をヒラヒラと舞う。
それにはボルネイの目元が痙攣したかのように一度ひくついた。
視界からアーノルドを外してはいない。
だが、アーノルドが動いた瞬間すらわからなかった。
いや、それどころか斬られたということすら髪を見て初めて気がついた。
「私が手心を加えるのは一度までだ。二度はない」
ただの気まぐれか、はたまた学院への未練か、普段ならばしない、隠していた己の力を律儀にも示す唯一にして一度だけの警告。
アーノルドの力を悟り退くならよし、退かぬならばたった一つの決まった未来へと収束していくだけだ。
だが案の定とでも言うべきか、ボルネイの口尻が徐々に下がっていき、怒りとも汚辱とも取れる表情へと変化していく。
エリートの自分がこのような子供の言葉に従うなど、屈するなどありえぬとでも言うかのような表情である。
だがボルネイは何を思ったのか、その不快げに下がった口尻を忙しなくも上げていき、三日月に裂けそうなほどの悪魔のような笑みを浮かべ、ついには哄笑し始めた。
「はっ、はは、ははははははははははははははは」
何を想った笑いなのか。
心の中の陰りを吹き飛ばす笑いか。
身に宿った恐れを消すための笑いか。
自らが抱いた馬鹿げた考えを嘲る笑いか。
それともこれから先の心の充足感を想っての笑いか。
哄笑を終え、突然仏頂面になったボルネイは、実力を推し量ろうとでも言うかのような目でアーノルドを注視してきた。
そして数秒も経たぬうちに改めて格付けを済ませたのか、小憎らしく鼻で嗤うと、もはや憂いはないとでもいうかのごとく蔑むように眇めたその目でアーノルドを睥睨してきた。
「殺す? お前がこの私を? たかだか道具に頼らなければならない分際のお前が⁈ 寝言もここまで極まればむしろ心地よいものですねぇ。知っていますか? いままでに、身の程も弁えずこの国の人間にそう言ってきた貴族とその護衛がどのような末路を辿ったか」
貴族の護衛の末路は学生にすら打ちのめされた者、この国の騎士によって捕えられた者、そして殺された者。
そして貴族に至っては、殺された者こそいないが、再起不能になるほど毀損された者はいる。
だがそれよりも国に戻ってからの方が大変であっただろう。
今この国で問題を起こせばその者は鼻つまみ者になる。
良くて冷遇、悪ければ降爵、廃位すらあった。
子供がやったことでは済まされない。
それが貴族社会というもの。
貴族である限りは国というものに縛られる。
だからこそボルネイの方が上だと言いたいのだろう。
何もできないだろうと。
アーノルドも子供とはいえ貴族だ。
貴族であるがゆえに、貴族としての鎖に縛られる。
強固な権力という呪縛に。
だが、アーノルドには関係のないことだ。
自国であろうが、この国であろうが睨まれようともどうでもいい。
この国でやりたいことは数多あれど、それが目の前の者を放置してまで自身を抑制するほどの理由にはなりはしない。
だからこそアーノルドは淡々と言い放つ。
「それがどうかしたか?」
それに対してボルネイは一瞬眉を寄せるが、すぐに呆れたようにため息を吐いた。
所詮は貴族といえど子供かと。
自身の損になるとわかっていても感情を制御できぬ屑人間。
ボルネイはそんなアーノルドを鼻で嗤った。
「いいでしょう。貴方のお遊びに付き合ってあげましょう。ああ、こんな木剣などといったお遊びの道具では心許ないでしょう? 真剣で決着をつけようではないですか」
今まで溜まりに溜まった殺意とでもいう不満への憂さ晴らしでもしてやろうと嬉しげに口角をあげたボルネイは観客席に座る試験官達に目配せをした。
その試験官達の一人が木剣ではなく、同じような二本の真剣を持って二人へと近づいてくる。
細工でもしてあるのかと思えば、アーノルドが調べた限り凡庸とでも言える普通の剣であった。
「小細工でもしてあると思いましたか? この私が貴方ごときを倒すのに小細工など弄す必要などあるはずがないでしょう。貴方のような屑とは違うのですよ?」
ボルネイはそれを疑われることにさえ不愉快さを滲ませているが、ふふんと鼻息を漏らしながら自信満々な態度で尊大に威張っていた。
「その割には一度も私の攻撃に対処できていないようだがな」
アーノルドがただ事実を述べるように何の嘲笑もなく言ったその言葉に、ボルネイはギリっと奥歯を噛む。
たとえ“魔道具”であろうと反応できなかったのは事実である。
どれだけ言い訳をし取り繕うと、その事実が消えることは永遠にない。
汚名とも言えるそれを他人、それも当の本人から言われたボルネイの腑は煮えくりかえっていた。
「っ! ……せいぜいほざいてなさい。貴方ごときでは到底辿り着けぬ境地というものを見せて差し上げますよ」
ボルネイはあくまでもアーノルドが何かの道具に頼って自らに攻撃してきたのだと思っている。
ありもしない覇気に気圧され、再び注意深くアーノルドの実力を推し量ろうとも、結局わかったのはアーノルドがただの凡夫という事実だけ。
自分の実力には遠く及ばぬ力の波動しか感じられなかった。
攻撃された二度はどちらも自分がその場に留まっていたから当たったもの。
おそらくは自身の速度を瞬間的に高める魔道具か目に見えぬ何かを放つ魔道具だろうと。
自身が油断せず、純粋な実力ならば負けるはずがないと。
自分が本気を出せば、そもそも反応すらできないだろうと。
動いてしまえば道具に頼らなければならない未熟な者が自分の速さを捉えられるはずがないと妄信しているのだ。
アーノルドが鞘から剣を引き抜いたのを見たボルネイは、まるで弱い者をいじめて優越感でも味わっているイジメっ子のようにニヤリと嗤うと、自らのオーラを発現させ、手に持つ剣へと纏わせた。
そしてアーノルドの方へとドヤ顔とでもいうべき自信に満ち溢れた表情を向けた。
どうだ?、と。
だがもはやアーノルドにこの者と交わす言葉などない。
——敵即殺——
ただ敵は殺すだけ。
敵になるという宣言をしてきたからには、すでに生きるか死ぬか——否、殺すか殺されるかの関係である。
これから殺す無価値な人間と交わす言葉など微塵たりともない。
それを自身に臆していると勘違いしたのか、ボルネイは満悦の笑みを浮かべる。
「ふ、ふふふ、ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。惨め、惨め、惨めですねぇ⁉ 恐怖で言葉も出ないですか? 貴様を殺すぅ? 先ほどまでの威勢はどこに行ったのですかねぇ⁈ せめて家畜は家畜らしくブヒブヒと哭くくらいしたらどうですか? その程度もできないとはまったく、主人を喜ばせることは家畜の義務でしょうがぁ⁈」
目を眇め、唾を吐く勢いで悪声をあげたボルネイは自尊心でも満たされたか、満足げに高笑いをしていた。
それを観客席で見ている、怒りに震え、狂気に慄き、義憤に燃えるすべての受験生はもはや醜く顔を歪ませているボルネイの言葉など微塵たりとも信じていない。
アーノルドが不正をしたなどとは考えていない。
だがそれでもボルネイの言う通り、何もできることなどない。
いまこの場で試験場で私刑を喰らわせられようとしている同類も助けられなければ、ボルネイの出した威圧感に足がすくんで他の試験官を呼びにいくために動くことすらできない。
その事実が、己がただ無力で矮小な存在に過ぎないのだと突き付けてくる。
高笑いを終えたボルネイは尚も何も言わぬアーノルドに気を良くしたように満足げな笑みを浮かべ、さらに何かを思いついたかのようにその笑みを邪悪に深めた。
「どうしましたか? まだ言葉もでませんか? それほど強く威圧したつもりもなかったのですがねぇ。所詮やはり口だけの愚物でしたか。あぁ、今更後悔しても遅いですよ。自らで何も為すこともできぬ無能に過ぎない貴方は初めからただわたしに屈しておけば良かったのです。身の程を弁えないとどうなるか、よくわかったでしょう?」
アーノルドを舐るかのような嫌な視線を向けているボルネイの心にもはや厚情の念など欠片たりともない。
だがその心の有り様とは反し、まるで慈愛とでもいうかのような柔和で静かな声でアーノルドへと語りかける。
「ですが、私も鬼ではありません。あまりにも惨めな貴方のためにチャンスを上げましょう。いまからでもこの私に従い不正をしたと認めるならば、……ふ、ふふ、五体満足で帰してあげてもよいですよ?」
まるで温情とでも言うかのような言葉を並べているが、そのボルネイの顔に浮かんでいるのは自らが強者であると疑わぬ優越感とでもいう歪な笑み。
本人は慈愛の表情でも浮かべていると思っているかもしれないが、その内に秘める感情がその表情の仮面に雑味を混じらせていた。
ボルネイは戦う前から既に勝利に疑いなど持ってはいない。
いや、そもそも勝利などという段階にすらいない。
ただ己が相手のすべてを踏みにじるだけの徳行を為すだけだと。
その頭に浮かぶのはどのようにアーノルドを跪かせ、泣き叫ばせるかということ。
赦しを請おうとも、命乞いをしようとも赦さない。
自らの名誉を傷つけただけではなく、他国の人間風情が反抗してくるなど断じて赦さない。
そのようなことをしてきた大愚の末路を、見せしめとして大勢の他国の屑共の前で、この生意気な子供に実演してやると。
惨めに地に這いつくばらせ、誰が上であるか分からせる。
どこまでも惨めに、そして凄惨に、二度と己に反抗しようなどと思わぬように躾ける。
己の気が済むまでずっと。
五体満足で帰す?
そんな言葉を守るつもりなどさらさら無い。
希望を与え、それが最も高まったところで無惨にも壊す。
その偽の希望が見せる、唯一存在する生への命綱を断ち切ることによって生じる、生から死への落差が何にも勝る絶望を生む。
その絶望に染まった顔が見たいが故の虚言に過ぎない。
それを自分の傷心した心に対して少しでも慰めにするために。
だがアーノルドはそんなボルネイを表情にも出さず嗤笑するだけ。
くだらぬ虚栄心、くだらぬ自尊心、くだらぬ驕心。
それらが己の身を滅ぼすとも知らずに尚も突き進む愚人。
これまでも何度も見てきたがゆえにいまさら何を思うこともない。
目の前にいる者もかつて殺してきた愚者と何一つ変わらない。
「……」
だが一方ボルネイは、アーノルドがそれでも尚一切の反応を示さないことに不快げに目を細めた。
恐怖に顔を歪めるか、その目に涙を浮かべ惨めに許しを請うか、ボルネイの温情の言葉に感謝し咽び泣くか、何かしら自らの心を慰撫させる反応が返ってこないことに苛立ちを隠せなかった。
自ら手を差し伸べてやったというのに、その手を取らぬどころかいまだに何の反応も示さないなど、屑ごときに無視されたようで自らの矜持がさらに傷つけられたと奥歯を砕かんばかりに噛み締める。
それがたとえ相手を嵌めるために差し伸べた手であろうと、自らの意に沿わなかったアーノルドが憎くて仕方ない。
その驕る心がボルネイに再び怒りの感情を湧き立たせ、次第に怒りすら超越していく。
頭が沸騰するかのような殺意がその身に一挙に襲いかかるが、まだアーノルドが何も反応しないため、それを悟られぬように必死に隠そうとする。
だが、もはやその殺意の波動はボルネイの制御を振り切っていた。
どれだけ抑えようにも、内から湧き出るアーノルドを殺してやりたいという衝動が溢れ出て、ボルネイの最後の砦であった理性とも言える城門にヒビを入れていた。
ボルネイの形相はまるでご馳走を前に待てを強いられている犬のように涎を垂らさん勢いであった。
我慢などもうボルネイには利かない。
獲物を前にした猛獣が漏らす、歓喜の唸り声のようなくぐもった笑い声を漏らしているボルネイにはもはや言葉すら届かなそうである。
「くふふ……、あくまでも不正を認めないと、それどころかあくまでも我々に反抗してくると……。ふ、くくく……、いいでしょう‼︎ ならば仕方ありません。ええ、ええ、貴方がそこまでどうしようもなく歯向かってくるというのならば、何があろうとも仕方ありませんよねぇ? 私は再三に渡り警告をし、その力も見せた。それでも、なお、歯向かってくると言うのですからぁ……、もはや処置なしですよねぇ?」
至極の肉を熟成するかのごとく今すぐにでも殺してやりたいという気持ちをなんとか抑えつつ、粘質にそう言ったボルネイは醜悪に歪んだ笑みを浮かべながら嬉しそうにアーノルドにその剣先を向けてきた。
その表情は既に、殺した後に感じられるであろう至福の瞬間に酔いしれるかのように恍惚としていた。
アーノルドは心底くだらぬ相手だと冷笑する。
感情すら抑制せず、自らの勝ちを疑わないなど愚の骨頂。
怒りは判断を鈍らせるが実力以上の力を出すこともある。
だが、慢心は何も生まない。
それどころか害ですらある。
それこそ戦場ではなんでもありだ。
たとえ魔道具であろうとなんであろうと、そこに言い訳の余地など一切存在しない。
あるのは勝ったか負けたかという事実だけ。
それを不正などという言い訳を用い、自らの実力を正当化している時点でもはや処置なしなのである。
仕留めるのは一撃。
それもカウンター狙い。
この国が敵となるならばどこに目があるかわからぬここで必要以上に実力を見せるつもりはなかった。
目の前にいるボルネイなどアーノルドが全力を出すまでもない凡俗だ。
オーラすら見せる必要はない。
ゆえに、さっさと来いという意味を込めて剣を構え、鼻で笑う。
ボルネイはそのアーノルドの態度が気に入らなかったのか、それともやっと殺せると歓喜しているのか、その身をプルプルと震わせ、その剣を持つ手に握り潰さんばかりに力を込めた。
瞬間、ボルネイが纏うオーラの気配が跳ね上がる。
「その愚かさのツケ、今ここで支払いなさい‼︎」
身体強化による突進。
ボルネイの剣が纏うオーラが残影となる速度。
だが、アーノルドからすれば凡速もいいところ。
だがそれでも、今から出す力にその耐久限界を迎えたのか、アーノルドが嵌めている魔道具の指輪にピシリと亀裂が入る。
だがそんなことはもう関係ないとアーノルドは剣をまっすぐ構え、そのままカウンターを決め込む——はずが、アーノルドはそのままその場を飛び退くことになった。




