69話 幕間2
「馬鹿な‼︎あれらは……」
カーボ大司教の話を聞き終えたトーカはガバッと立ち上がった。
エルフの子供達は突然声を張り上げたトーカの様子にビクッと体を震わせた。
だが、トーカにはいまその子達を気にかける余裕はなかった。
それほどまでにカーボ大司教に聞かされた話は信じられないものであった。
そしてガーボ大司教はそんなトーカを見てニコニコと悪どい笑みを浮かべるだけである。
断られるなど微塵も考えていないかのように。
そんな選択肢などないと突きつけるかのように。
「我々も手段を選んでいられないのです。お互いのために、ね」
そう言ったガーボ大司教の顔を見たエールリヒは思わず顔を顰めそうになった。
トーカも誰にもわからぬくらいに歯噛みした。
誓約魔法で契約したことは、端的に言えば『トーカがガーボ大司教の話を聞き、その後解放すること』であり、一見話の内容の是非はこちらに委ねているようだが、その実こちらに選択権などない。
先ほどはわからなかったが注意深く気配を探れば、今この屋敷には先ほどの黒服がこれでもかと潜んでいる。
まるで蜘蛛一匹といえど逃さないと言わんばかりに。
断れば、たとえ解放されようがその後即座に子供達が人質に取られるだろう。
自身で選択させているようで、実際には選択肢などないのだ。
ガーボ大司教の話を承諾することは普段であるならばあり得ない内容だ。
だが、子供達のためを思えば受け入れざるを得ない。
脅されるようで不愉快ではあるが、命を賭してまで抗う内容ではない。
「……いいだろう。だが、それをするために貴様に付いていくような時間はないぞ」
トーカはこれ以上は譲歩するつもりはないとカーボ大司教を睨め上げた。
「ええ、ええ、懸命な判断ですな。それに関しては大丈夫です。こちらに施していただければ」
ガーボ大司教は心底嬉しそうな笑みを浮かべ、丸い透明な水晶のようなものを取り出した。
「だが、これに施す前にもう一度誓約魔法をすることを要求する」
トーカは目の前の男が信用できなかった。
信用など出来るはずがない。
脅すようにトーカ達に要求してきたのだ。
人間とはどこまでも欲深い。
事を為した後についでとばかりに襲ってこないとは限らない。
ガーボ大司教はピクリと動きを止め、トーカを少しの間見つめた後に薄らと笑みを浮かべた。
「ハハハ、用心深きことは美徳ですな。いいでしょう。私にとってはこれさえ為していただければ他のことは些事に等しきゆえ。それで貴女に安心して実行していただけるのであれば是非もありませんよ」
誓約魔法は魂を縛る魔法。
そう易々とするものではないのだが、カーボ大司教は悩むことなく了承した。
その後幾つかの誓約による縛りを設け、トーカが作業を終えるとガーボ大司教は足早に去っていった。
ここには長く居たくないとばかりに。
濃い血の臭いを放つ気配も同様に離れていった。
トーカ達もすぐに出発しなければ危うい。
ダンケルノ公爵家からどれほどの猛者が来るのかはわからないが常に最悪を想定しておかなければならない。
特にいま、トーカの実力はかなり落ちている。
戦闘になればほぼ勝ち目はない。
エールリヒにとっての敗北とは侯爵令嬢が捕えられ、殺されること。
見つかった時点でほぼ敗北が確定する。
侯爵はエールリヒ達がエントランスまで来ると、あからさまではないが忌々しそうに睨んでいた。
その隣には女性が2人と使用人らしき者が1人。
侯爵夫人と侯爵令嬢のミオが不安そうに侯爵の隣で立っていた。
ミオを見たエールリヒは顔を綻ばせた。
まだ生きていた。
間に合ったと。
あの大司祭も約束を守ったらしい。
説得するまでもなく2人はこの家を出る準備をしているようだった。
だが実際、話が終わってから準備したのではこんなに早く準備が出来るはずがない。
おそらくカーボ大司祭は元々その約束を織り込み済みだったのだろう。
誓約を行使する中でついでとばかりに付け加えてきた約束であったが、エールリヒにとっても断る理由はなかった。
だが、これも当然ただ単に善意などというものではない。
カーボ大司祭にとってもここでエルフが捕まるような事態になるのは避けたいのだ。
逃げてくれた方が好都合。
ただそれだけの理由である。
だが、侯爵は夫人と娘を逃すということに完全に納得した様子ではない。
そこにカーボ大司教とのなんらかの取引でもあったのだろう。
誓約魔法がある限り契約というものは曲げられない。
「えっと……、久しぶり」
エールリヒが恥ずかしそうにミオに話しかけた。
「エールリヒ第一王子殿下お久しぶりでございます。このたびは私共のために格別なご配慮を賜り誠にありがたく存じます」
幼きときとは違う言葉遣いにエールリヒは一瞬眉を寄せ悲しそうな表情をした。
だが、いまはそんなことを気にしている暇はなかった。
「殿下、くれぐれもよろしくお願い致しますよ。あくまでこれは避難です。それをお忘れなきようお願い申し上げます」
侯爵の表情は自国の王子にするような表情ではなかった。
エールリヒはそんな侯爵の様子に内心ため息を吐いたが何も言うことはない。
娘と夫人を奪っていくようなものだ。
言う資格すらエールリヒにはない。
だが、これで良いとエールリヒは信じている。
侯爵と別れを終えた侯爵夫人とミオを連れてエールリヒ達は歩いていた。
馬は使えぬ。
戦場の近くで馬になど乗っていれば侯爵側の人間と思われてマークされるやもしれない。
それに注意しなければならないのはダンケルノ公爵家だけではない。
この戦いを覗き見ようとしている全ての者の監視から逃れなければならない。
今ならばまだ馬を持たぬ一攫千金を狙って売りに来ている中堅商人達の足音に紛れてそれほど目立つことなく離れて行くことができる。
そもそも夫人とミオは馬に乗れないし、エールリヒも誰かを乗せれるような技術を持っていなかった。
夫人とミオを世話するための使用人も1人いるため馬の数も足りていない。
馬車も避けたい。
検問などで改められればバレる可能性が高い。
誰が敵で誰が味方かもわからぬし、何よりエルフのトーカ達がいる。
他の貴族が邪な考えを抱かないとは限らない。
だが、そうなると当然ながら歩みは遅くなるし休憩も多く挟まなければならない。
いまエールリヒ達は木の木陰で休んでいる。
「……よかったのか?契約を考えれば、来るのはあそこまでで良いのだぞ?」
当初の予定では、というよりも別に段取りがあったわけではないが、トーカはエールリヒが付いてくるのは侯爵邸までだと思っていた。
対象を説得さえしてしまえばこれ以上ついてくる意味はない。
そもそもここより先、エールリヒが付いてくるという発想すらなかった。
だが、予想に反してエールリヒは此処からもついてくることを選んだ。
「ああ……。私は、私は常々考えていた。王とは何か、王子とは何か。私は国王である父上の考えには到底納得できぬ。いや、納得できるところはあるがそれを受け入れることはできぬ。中には私の考えに賛同する者もいるだろうが、そうなれば我が弟のサーキストを担ぐ者が出てくるだろう。その先に待っているのは国の二分化だ。それは望まぬ。私もこの国の王子だ、王族だ。だが、私はどうしても自身を消すことなど出来ぬのだ。王族としては失格なのやもしれぬが、民のためと自身の欲に全て蓋することなどできぬ」
懺悔のように言葉を溢すエールリヒは悲壮さと力強さをその身に滲ませていた。
だが、トーカはそんなエールリヒに困ったような呆れたような表情を浮かべる。
「……貴様はまだ若い。後に考えが変わるかもしれんぞ?」
トーカに王族としての了見など分からぬが、それでも親と離れることが良いことだとは思わなかった。
「そうかもしれぬ。だが、そうでないかもしれぬ。そんな先のことはわからない。それでもいま正しいと思うことを為すだけだ。だが……、私にも王族としての責務がある。ただ権利を謳歌し、民の血税を貪って逃げたなどあってはならぬ。だからこそそなたらについていくのだ。エルフの子供を攫った王族の子。謝罪の品としてはこれ以上なかろう?」
自嘲気味に笑うエールリヒにトーカは僅かに顔を顰めた。
それは自分を物のように言うエールリヒに対する忌避感か、はたまたこのような子供にそのような咎を支払わせることが果たして正しいのかという葛藤からか。
自身も同じような目にあってきただけに良い表情をすることはできなかった。
王妃はまるでトーカをただの鑑賞品かのように扱っていたのだ。
「私が直々に赴いて謝罪することに意味がある。ただ逃げてきましたではエルフとこの国の間で戦争が起こりかねん。私は……それを防ぐことでこの国の王族としての責務を果たす。その際に少しばかり自身の欲を叶えるだけのことだ」
その言葉にはエールリヒの決意が宿っていた。
「貴様が決めたのならとやかく言いはしない。だが、貴様に便宜を取り計らうようにはしよう。我らエルフも加害者の子供だからと殺すようなことはない……はずだ」
言い切れないのは数千年前があるからか。
だが、いまでこそエルフも人間達の間では恐怖の象徴の様に描かれているが、別に排他的であったわけではない。
人間だからというだけで嫌うようなエルフはもう既に生きてはいない。
だからこそ、そこまで心配するようなことにはならないはずだとトーカはエールリヒが来ることに起こるであろうことを想像した。
だが、トーカはこのままで本当に良いのかという思いを払拭することはできなかった。
もっとも、トーカも相手の決めたことを覆そうと思うほどエールリヒに対して親身になるつもりもない。
本人が心から決めたことならば、トーカ自身がどう思おうがそれを口に出すことはない。
「覚悟はしている。父上には……、王には手紙も残した。母上もタダでは済まないだろう。まぁ……証拠が無いがな」
トーカ達がこの場にいる時点でエルフを監禁していたという証拠がもうない。
王妃ならばそれを知る人物を予め秘密裏に処理してもおかしくはない。
所詮いたちごっこで終わるだろう。
だが、王妃の権威は確実に削がれる。
自身の母親の立場を悪くしようともエールリヒは国のことを考えた。
責務を放棄するように国を離れる最期の責任として。
最期と言っても、この国に戻るつもりがないわけでもないが、戻れるかは分からない。
「あの女を許すことはできぬ。だが、無関係の人間を巻き込むことを我らも望むことはない。子供達が殺されたのならばともかくちゃんと戻ってきたならば理性を失い無辜の民達にまで被害がでるということはないだろう」
憂いを帯びた表情でそう言うトーカにエールリヒは苦笑した。
それとともに今までトーカが捕まっていることは知っていたにも関わらず、実力がないことを言い訳にし助けようという考えすら抱かず、今回ただ利用するためだけに助けることになったというだけの自分の身勝手さが恥ずかしくなり、トーカに対して申し訳なく思う感情が溢れてきた。
もっと早く行動していればこれほど長い間捕えられていることもなかったはずなのにと。
結局は行動を起こしたか否か。
意志の問題でしかなかったのだと。
トーカもそのエールリヒの機微に気付いてかそれ以上会話を続けることはなかった。
エールリヒ達はフォグルの森の方に向かっていた。
ダンケルノ公爵家の軍とかち合う方向である。
だが、どう足掻いてもそっちに向かうことを避けることはできない。
そちらにトーカ達が目指す目標地点があるのだから。
遠回りするという選択肢はない。
いつ王妃の追っ手が迫ってくるのかも分からない。
トーカにとって最も大事なのはエルフの子供達である。
エールリヒ達が見つかるかもしれぬからと自身のリスクを跳ね上げることはしない。
エールリヒ達はフォグルの森の前までやってきていた。
選択の時である。
このまま街道がある方に進むのかフォグルの森の中を進むのか。
どちらがよりダンケルノ公爵家の軍と出会わないか。
今の人間に詳しくないトーカよりも、教育を受け相手の考えを読み取れるエールリヒにどちらに進む方が良いか委ねた。
エールリヒは森を選択するつもりだ。
一つ懸念事項があるとすれば、トーカもこの森の中の気配は探れないらしい。
この森は異常なのだそうだ。
エールリヒも教えられている、この森の奥にいる亜神とその眷属。
逆鱗に触れれば為す術はないが、そうでなければ比較的無害な存在。
エールリヒはこの森の主と契約している王家一族の子孫。
破ることはできない。
だが、破らなければ問題がないとも言える。
そしてアーノルド達は十中八九、馬に乗って来るはず。
わざわざこの森を突き抜けることはないだろう。
エールリヒはそう考えた。
トーカも同意見であった。
将が馬に乗らないなど考えられない。
それに襲撃もされやすく魔獣の蔓延る危険な森をわざわざ突っ切るメリットもない。
トーカが心配しているのはこの森の異常さだ。
トーカには見える。
見えてしまう。
奥から漂うこの世のものとは思えない者の魂の気配が。
その気配から目が離せず魅入っていたそのとき、トーカは自身の首を痛めるくらいの速度で目を森から逸らした。
目玉を鷲掴みにされ、心臓を撫でられたような感覚がトーカに襲いかかったからだ。
無理矢理にでも目を離さなければそのまま死んだやもしれぬと思い、トーカの呼吸は荒々しくなり、立っているのもしんどく片膝をついた。
見るということは見られるということ。
安易に観るなどという行為をするなど愚行であった。
「おい⁉︎大丈夫か⁈」
エールリヒが突然息が荒くなったトーカに心配そうに声をかけたが息を整えることに必死なトーカは返答することも出来なかった。
クスクスと誰かが揶揄うように笑う声がトーカの耳にだけ聞こえてきた。
そして森の木々が風が吹いていないにも関わらず手招きするようにユラユラと不気味に揺れ動く。
—————通りたければ通るがよい森の子よ。
トーカだけに聞こえるように愉快そうな声色で放たれた言葉が風に乗って届いてきた。
その声は心胆寒からしめるものであるが、不思議と害意は感じられない。
「大丈夫だ。……森の中を進む」
目をつけられた以上このまま去るのも失礼にあたる。
もはやどうあっても森の中を通るしかない。
元々そのつもりだったのだ。
臆することはない。
幸いにも先ほどの声に悪意といったものは感じられなかった。
悪意がないから害がないとは言えないが、それでもドラゴンがいると分かっている巣に武器も持たずに入っていくよりはマシだ。
トーカは自身を奮い立たせ、幼いゆえになにも感じてはいないエルフの子供達を見た。
何があってもこの子達は守ると。
森の中では更に進むスピードが落ちた。
当然だ。
エルフの子供達ならともかく侯爵夫人と侯爵令嬢のミオはそもそも自身の足で歩くことにも慣れていない。
森の中の道はワイルボード侯爵家が仕込んだ暗殺者が多くおり、またアーノルド達とかち合う可能性がゼロではないため道なき道を進んで行っている。
だが、トーカの魔法によってトーカ達が進むところの木々は避けていくため、普通に比べれば歩きやすくなっている。
それでも普段歩き慣れていない者にとっては、歩き慣れた舗装された道に比べれば断然歩きにくいことは言うまでもない。
エールリヒ達はエールリヒ達で見たことも聞いたこともない魔法に驚愕を隠しきれなかった。
エルフの魔法というのはここまで変幻自在なのかと。
それに皆が靴擦れを起こしてもトーカならばすぐに治すことはできる。
そうやって着々と森の中を進んでいっていた。
だが、呪われているかのように厄介ごとがやってくる。
——それは突然来た。
前方から凄まじいほどの怖気がトーカの体を覆い尽くし、魂を蝕むように体を貪り喰ってきた。
それはもはや一種の暴力。
動くことすら、生きることすら許さぬとばかりに鬼魅共がトーカに群がり喰らおうと大口を開けているような光景を幻視した。
だが、トーカにとってそれは幻想などではなく紛れもない現実であった。
トーカは体に力を入れ、気力を絞りその幻影を弾き飛ばした。
その幻想を消し飛ばせていなければ今頃は地に伏して息絶えていただろう。
突然猛烈に冷や汗が体中から出てきて、地に膝を突き両腕で胸を抱いた。
気絶しなかったことを褒めてもらいたいほどだ。
だが、気絶したほうがどれほど楽であったか。
肉体的なダメージはないが精神的なダメージは甚大であった。
その麗しい顔が恐怖に歪み、見る影も無くなっている。
今のが自分に向けられたわけでもないただの余波であると分かっている。
それでも尚、体を突き抜けていった畏怖の念のせいでトーカの歯がカチカチと音を立てるのを止めることができない。
そこでふと思い出し、子供達やエールリヒ達の方に振り返った。
案の定全員が地面に倒れており、すぐさまトーカはエルフの子供達のもとに近寄ろうとした。
あれほどの憎悪に塗れた殺気を耐性のない者が浴びれば、最悪の場合ショック死していてもおかしくはない。
トーカですら心臓が破裂したかと思うような衝撃を受けたのだ。
震えのせいで足が上手く動かず這うように駆け寄ったトーカは皆が呼吸をしているのを確認し、幸い気絶しているだけでなんの異常もなさそうだったので安堵の息を吐いた。
(それにしても……、なんだいまのは?この森の主のものか?いや、奥というよりは……進行方向)
トーカは戦慄した表情であの悍ましい気配がした方を睨みつけた。
“このまま進むのはまずいか?”
そう考えたが、いまはどのみち皆が起きるまで待つしかない。
幸いにもあれは近くで発生したものではない。
ここに留まってもすぐに出くわすといったことはないだろうと考えた。
だが、もし仮にあの殺意の波動の持ち主とかち合えばいまのトーカには為す術がない。
いや、万全であったとしても勝てるかどうかわからぬ相手であった。
それほどまでに隔絶した力の差を感じさせられたトーカは歯をギリっと噛み締め、拳を握りしめた。
あれはただ単に強ければ出せるようなものではない。
真なる魂の慟哭からくるものだ。
魂を感じ取れるエルフにとってはこの上なくやりにくい相手である。
少し経てばあの悍ましい気配は、まるで何事もなかったかのように無くなった。
それでもトーカの体から震えが完全に無くなるのに更なる時間を要した。
ちらほらと皆が目覚め始めた。
幸いにも皆は一瞬で気絶していたため恐怖を感じる暇すらなかったようだ。
もし、少しでも耐えれていたならばそれこそ大惨事になっていただろう。
記憶が全くないのは幸いであった。
エールリヒが目覚めた時点で今後の方針を決めた。
とりあえずここに留まっても仕方ない。
このまま進むことにした。
トーカ達は正規の道からだいぶ逸れているし、そのまま進んでもかち合う可能性は低い。
それにこの森はある程度距離が離れた者の気配が探りにくい。
自分にとっても不利に働くが、それは相手も同じ。
耳が良いトーカならば複数人の移動による地の揺れを逃すことは考えずらい。
ならば、こちらが気づくよりも前にあちらが気づくことはないはずだ。
だが、誤算が一つあった。
トーカの結界魔法である。
トーカは数年もの間まともに魔法を使っていなかった。
王妃によって使うことを禁じられていたからだ。
だが、数年などエルフの感覚からしたら大したことはない。
しかしながら、トーカは3人もの奴隷紋の解除を無理やり行使したため、かなり弱体化している。
だからこそ、トーカは普段以上に結界魔法に力を注いだ。
それでもトーカの感覚から言えば普段よりも少し弱い程度のはずだった。
だが、なぜかトーカが展開した結界魔法は大幅に強化されていた。
まるでアーノルド達に見つからせようとばかりに。
そしてトーカは自身の結界魔法が自身の予想以上に範囲が拡がっていることに気づかなかった。
この森はエルフにとってかなり見えにくい。
魔法の発動の感覚が掴みにくい。
なので今までの経験からこの程度だろうという感覚で範囲を決めていたのだ。
それがあり得ないほど遠く離れているアーノルド達の感知に引っかかった。
当然この時点でトーカは気づいた。
場所も含めて。
(馬鹿な‼︎なぜこんなにも拡がっている⁈まずい‼︎今すぐ移動しなくては!)
「感知された‼︎すぐに逃げるぞ‼︎」
突然声を張り上げたトーカの焦ったような声色に皆がギョッとしたが、モタモタしている暇すらない。
トーカはエルフの子を抱え、皆が必死になって走った。
だが、気配は遠ざかるどころか近づいてくる。
当然だ。
魔法で強化しようともエールリヒ含めここにいる者がアーノルド達より速いわけがない。
それになぜか結界魔法を解除できない。
結界魔法の効力に逆らえぬ者ならばともかく、抵抗できる者には自分の場所を伝えているようなもの。
これ以上は無駄だと悟ったトーカは止まり迎え撃つ体勢を整えた。
迎え撃つといっても攻撃を仕掛けるわけではないが、逃げるのを諦めた。
そして子供達とエールリヒ達にありったけの隠形魔法をかけた。
今できる最上を。
並の者ならば気付くことすら出来ない。
トーカは既に捕捉されている。
もはや身を隠したところで意味はない。
これほど強化された結界魔法を潜り抜けてくる者ならばトーカの気配など今更隠してもバレるだろう。
エールリヒ達に何があっても声を出すなと、そして何かあれば逃げろとそう言った。
自身が死んでも止めるからと。
使う魔力の量も甚大だが隠形魔法ならば認識阻害とは違い、音すら消せる。
もし戦いになれば、トーカに気を取られている間に逃げることくらいは出来るだろう。
エールリヒは多少は戦うことが出来るようだが、トーカ無しでこの森に生息する魔獣に勝てるかどうかは分からないため、エールリヒ達だけで逃げるというのは本当の最終手段にしたかった。
それに正直この森の主人が、このまま別れたエールリヒ達を襲わないという確信も持てない。
何が目的かは分からないが、明らかに何かしらトーカに干渉してきている。
優先順位としては全員捕まることなく無事に逃げること。
これが最善。
そして次点で正体がバレないこと。
これはエールリヒや侯爵夫人達だけではない。
トーカも含めてだ。
エルフというのはその美貌であっても技術であっても人を狂わせる。
王妃はその美貌に目が眩み、ガーボ大司祭は技術に目が眩んでいた。
近づいてくるのは生まれながらに全てをもつ貴族の子供。
そんな者がエルフであるトーカを見たらどういう反応をするか。
飼いたがるか、欲しがるか、嬲るか。
予想できない。
トーカ一人であり、全快状態であるならばまだやりようはある。
だが、いまは無理だ。
奴隷紋の解除に力を使い。
カーボ大司教の要求を飲んで力を使い。
この森でもずっと力を使っていた。
いまのトーカの実力は半分どころではない。
近づいてくる気配からして抗うだけ無駄なほどの実力差。
トーカの心は嘗てないほど波打っていた。
トーカはフードを深く被り直し、残った力で気持ち程度に自身に認識阻害の魔術をかけた。
顔が見えぬように。
そして遂にそのときが訪れた。




