68話 幕間
会議室を追い出された後、第一王子エールリヒは自室で考えていた。
どうにかしてダンケルノ公爵家に、アーノルドに罰を下したい。
だっておかしいではないか。
なぜ侮辱したというだけで貴族を、人を殺したのか。
そして一族全員が殺されるのだ。
そんなことは認められないと。
だからこそ、エールリヒはワイルボード侯爵側の勝ちを祈っていたし、どうにかして勝たせたかった。
それらはエールリヒが持つ道徳という名の正義からきているものだ。
エールリヒは王族としての教育を受けながらも、えらく庶民的な考えを持っていた。
それは上に立つ者としては美徳でもあり、悪徳でもある。
こと王族に至っては悪とも言えるだろう。
エールリヒはアーノルドの事情など知らない。
だからこそ結果からしか物事を判断していない。
だが、エールリヒはアーノルドの事情を知ったとしても、アーノルドと敵対する道を選ぶだろう。
それがエールリヒが持つ正義なのだから。
だがそうは言っても、どれだけ想いを張り巡らせようと、まだ年若い王子に出来ることなどそう多くない。
勝手に王の騎士達を動かすことも出来ぬし、自らの護衛騎士程度参戦させたところで意味がないことは分かっていた。
何せ記録上、ダンケルノ公爵家は建国当時から公式的な戦いにおける負けがない。
それこそ信じられないことに王家相手にもだ。
王家に牙を剥くということも信じられぬし、その後もそのままの関係を保てているというのも理解し難いが、歴史がそれを証明している。
一世代だけ強いというのは理解できるが、建国から今まで常に勝ち続けるなど本来ありえない。
それに色々と謎も多い。
ダンケルノ公爵家に関することは嫌と言うほど教えられてきた。
だが、それでも未だ空白の部分、教えてもらえていないであろうことが多くあるのは分かる。
それが何かは推測すら出来ない。
徹底的な情報規制がされている。
王子であるエールリヒですら知らされていない意味がわからない。
だが、ダンケルノ公爵家はただの公爵家ではないと何度も言われてきた。
それが圧倒的な強さからくる言葉だと思っていたが、違うのかもしれない。
エールリヒは冷静にそう考えた。
強さだけでこれほどまでのことを為せるはずがない。
だがそもそもの話、エールリヒには王の考えが理解できなかった。
身分を主張するならばそれこそ王家を慮ることなく好き勝手するダンケルノ公爵家を放置することもわからないし、王が自身の欲を捨て、民のために尽くすべきだということもわからなかった。
なぜ自身の欲を捨てる必要があるのか。
何も暴君になると言っているわけではない。
だが、民のことだけを考える王など意味がない。
それはもはやただの空虚な人形と何が違うのかと。
国のためにときには民にも苦労を強いるべきであろう。
国民ならば国のために尽くすべきだろう。
なぜ王だけが民に尽くさねばならぬ。
我慢せねばならぬ。
エールリヒにはついぞ理解できなかった。
産まれで生き方の全てが決まるなどという世の不条理を許すことはできなかった。
しかし、それも全てを持っているからこそ言えること。
持たぬ者にとってはその不条理すら羨ましいのだ。
いくら考えようと何も策が浮かばないエールリヒは焦っていた。
力がなければ何もできないのは言うまでもない。
そのとき、ふと思い出した。
数年前のある日、王城を散策しているときに偶然遠目に見たあのエルフの存在を。
王すら知らぬ、王妃が飼っているエルフの存在を。
史実に基づくならばエルフはかなりの強者のはず。
もし戦場に投入出来ればかなりのダメージを与えれるのではないかと。
それにエルフならば足がつかないのではと考えた。
だが、当然ながらあのエルフに会いに行くのは至難の技だ。
王妃が誰にも見つからぬように護衛を置いているのだから。
だが、エールリヒは王城の秘密の通路を何度も幼い頃に探検している。
熟知している。
一度近くまで行ったときは護衛に見つかり“危ないからダメですよ”とそれとなく連れ戻されたが、あの場所にエルフがいるのを知っている。
そして鍵の在処も。
エールリヒは決意した。
決行するのに最善の日は意外にもすぐだった。
時間がないエールリヒには僥倖である。
鍵は昼間の間にくすねておいた。
王妃がエルフのところに行く日は規則的であり、決まっている。
今日はその日ではない。
それに数日の間、王妃は幸運にも地方に行く。
王妃が城を出るなど珍しいが、それでもエールリヒにとっては天運に違いなかった。
その間はエルフがいなくなってもバレないのだから。
たとえバレて連絡が行ったとしても少しの猶予がある。
あとは護衛である。
倒すか、どこかに行かせるかだが、倒すとあとが面倒であるし、そもそもエールリヒ一人で護衛達を倒すのは物理的に無理だ。
極力エルフの存在を知る者が少ない方がいいのはエールリヒにも理解できた。
なので協力者を募ることはない。
それは王妃のためではない。
国のためだ。
逃すのが1番いいのだろうがそれも無理だ。
奴隷紋を消せるのは契約者本人だけ。
エールリヒは護衛をその場から動かすために、トリックを使い魔獣の鳴き声とエールリヒの悲鳴を演出した。
昔よくやった魔法を使ったイタズラである。
追いかけても追いかけても姿は見えず、ずっと悲鳴だけが聞こえるのである。
当時は騎士達が総出で出ることになり、かなりの大騒動になったので使うことを禁止されたものである。
エールリヒはそれを使った。
幸い、その2人の騎士はエールリヒとも面識があり、何かあれば見捨てられるような仲でもなかった。
エールリヒは普段から騎士団で一緒に訓練をしているからだ。
そうでなくとも騎士として王族より優先するものなどない。
だが、王妃の命令とどちらが優先されるのかはわからない。
王妃に善意で協力しているのか、それとも脅され協力させられているのかによっても変わるからだ。
エールリヒは自身の母親に愛など抱いていない。
反面教師のような存在ようなであり、悪の限りを尽くすような母親を見てきたからこそ逆に善や正義というものに敏感に反応する。
魔獣の鳴き声とエールリヒの悲鳴を聞いた護衛は一瞬顔を見合わせたがすぐに声のする方へ駆けて行った。
エールリヒはあの2人に心の中で謝罪しながら牢の方へと駆けて行った。
そして2人共が居なくなってくれた幸運にも感謝した。
1人は残る可能性もあったが、扉には鍵も掛かっているため2人で行くことを選んだのだろうとエールリヒは深く考えなかった。
まるで天がエールリヒに味方しているかのように全てが上手いこといっている。
だが、バレるのは時間の問題である。
すぐに交渉しなければならない。
エールリヒは重厚な金庫のような牢の扉の前へと辿り着いた。
エールリヒは焦っているのか覚束無い手で鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。
中に入るとそこは罪人が入れられるような牢ではなく、それこそ王妃のような高貴な者が過ごす豪華絢爛な部屋が目に飛び込んできた。
そしてその部屋に置いてあるベッドの上、そこで寛ぎながら本を開いている状態のエルフが突然入ってきたエールリヒを警戒の目で見ていた。
そのエルフとはトーカである。
思っていたのとは違い過ぎるその部屋の有り様に一瞬呆けていたエールリヒはトーカの存在を確認し、我に返った。
エールリヒがトーカの方へ近づこうと一歩踏み出すと何か圧のようなものがエールリヒの体を叩きつけ、見えない壁にぶつかる様にその場で止まった。
「何用だ。人の子よ」
透き通るような凛とした声。
焦っていてちゃんと見ていなかったが、そのエルフの容姿を見たエールリヒ固まってしまった。
そんなエールリヒの様子を見たトーカはため息を吐くと本を側に置きベッドから起き上がった。
警戒の目で近づいてくるトーカに気付き、エールリヒは当初の目的を思い出して慌てたように声を発した。
「け、契約をしてもらいたい」
エールリヒの言葉がその部屋の中で思いの外響いた。
トーカも歩みを止め、訝しむように目を細めてエールリヒを見据えた。
「人の子よ。貴様はたしかこの国の王子であったな?」
トーカは睨むとまではいかないが、険しい顔をしてエールリヒに問いかけた。
その態度にはとても友好的な様子は見られない。
だが、それも当然だろうとエールリヒは内心の動揺を抑え込んで返答した。
「あ、ああ」
「ならばそれは、私がなぜこのようなところにいるのか知った上での発言か?」
一段と声が低くなりエールリヒはピクリと肩を震わせた。
契約とは対等な者がすることだ。
それに両者の合意が無ければ成り立たない。
自身の意志でここにいるわけではないトーカが契約など受けようなどとは思わないだろう。
しかしここで引くわけにはいかない。
「そ、それについては申し訳なく思っている。私もそなたらを解放したい。国のためにもな。だが……、今の私には母上をどうにか出来るような力はない。だが、いずれ、いずれ必ず助け出す」
エールリヒは震える体を無理やり押さえ込みながら強い意志を伴った瞳でトーカのことを見つめ返した。
それが功を奏したのかトーカの険とした雰囲気が少しばかり弱くなった。
「……とりあえず、その契約とやらの内容を聞いてからだ」
その言葉にエールリヒは知らず知らずの内に入れていた肩の力を抜いて、肺に溜まっていた息を吐き出した。
そしてエールリヒは粛々と語り始めた。
「——ということだ。そなたの力を借りたい」
エールリヒは今のダンケルノ公爵家とワイルボード侯爵家の状態を話し、戦争に参戦して欲しい旨を伝えた。
だが、帰ってきたのは嘲笑を伴った無慈悲なる言葉であった。
「貴様は私に死んでこいと言っているのか?」
言葉による刃。
首を斬られたと錯覚するような鋭い声。
エールリヒはその圧倒的な暴力に晒され声すら出せなくなってしまった。
だが、だからこそ、これほどまでに強いのだからこそ、可能なのではないかと歯を食いしばる。
エールリヒの覚悟は本物であった。
その言葉の圧に気圧され声は出せず、体も震えているが、それでも目だけは決して逸らさなかった。
そんなエールリヒの様子に思うところがあったのかトーカは嫌そうに顔を顰め、ため息を吐く。
「……死んでこいというわけではないのだな?」
先ほどのような圧は無くなり、トーカは呆れたような表情を浮かべている。
だが今のエールリヒにその表情の変化に気が付く余裕などない。
訓練では味わうことのない本物の重圧を初めて経験したエールリヒの心臓の鼓動は嘗てないほど早くなっている。
「あ、ああ」
エールリヒは声が出るか確かめるように慎重に言葉を発した。
トーカはその返答を聞いて再度ため息を吐いた後、
「無理だ」
素っ気なくそう言い、話は終わりだと言うかのようにベッドの方に戻ろうとしたが、エールリヒはここに来て初めて焦ったように声を張り上げた。
「なぜだ⁈エルフは強いのであろう⁈それほどの、それほどの力があればきっと——」
だが、エールリヒが言葉を言い終えるより前にトーカが振り返り言葉を紡ぐ。
どこか突き放すように凛然と。
「ダンケルノは貴様らの国の貴族であろう。あれに挑めだと?はっ、貴様は知らんようだな。あれに属する者達がどれほど異常なのか。まぁそれも仕方ないか。貴様ら王子はそれほど歳を取っていないとあの女が口から溢していたからな。だが、一国の王になるならば情報というものは正確に持たねばならん。ダンケルノには少なくとも5人私が及びもしない正真正銘の化け物どもがいる。あれはもはや一種の到達点だ。いかにエルフが長命種といえど我らは既に進化が止まっているようなものだ。ここ数千年、敵という敵がいなかったのだからな。私には何としてでも子供達を助ける使命がある。それは譲れない。子供達を残して死ぬ可能性があるような場所に行くことは出来ん。それにその対価が数年後に王妃から逃すという口約束など信用ならん。今更あの王妃の子供である貴様を信用しろというのか?いやそうでなくとも、自ら捕らえておいてそれを解放するのが対価など話にならん」
トーカはもはや交渉の余地なしといった様子であった。
エールリヒは取り付く島もなさそうなトーカの様子に歯噛みし俯いた。
その姿は最後の希望すら絶たれ、死を前にした囚人すらも思い起こさせるような悲壮さが漂っている。
だが、トーカもまた八つ当たりであるということは分かっている。
王族が犯した罪は同じ王族も負うべき、などとエルフであるトーカが言うつもりはない。
親の罪は親の罪であり、子に責任はない。
だが、頭でそう思っていても心までは制御出来なかった。
憎き女の子供。
エルフの子供達は人質のような窮屈な生活を強いられているというのに、煌びやかな服を身に纏い何の苦労もしていなさそうな子供。
だが、それはエールリヒが悪いわけではないと分かっている。
だからなのか、贖罪の意味を込めてか、トーカは諦めかけていたエールリヒに再度声をかけた。
「……お前が真にしたいことは何だ。過程はどうでもいい、どうあれば貴様にとって最良だ?それはダンケルノにダメージを与えることか?」
トーカのその目にはどこか哀愁とも取れる色が浮かんでいる。
エールリヒは考えた。
自分が何をしたいのか。
なぜこんなにも憤っているのか。
自分の行動の原点を。
「いや……、そうじゃない。私はミオを助けたい。あんな意味のわからない理不尽なことで死なせたくない」
エールリヒは自身の考えを整理し、呻くように絞り出した。
「そうか。ならば敵と相見える必要はない。見つからぬように逃せば良い」
「だが、ダンケルノ公爵家の追跡力は……」
ダンケルノ公爵家がその気になれば見つけることなど容易い。
王家の王子としてダンケルノ公爵家がしてきた仕事は目を通している。
どうやって見つけているのか、始末しているのか分からないものも多々ある。
追跡能力と捜索能力に優れた人物がいるのだろうと思っている。
ならばどこに逃げても結局は捕まり殺される。
だからこそ、その大元を叩かなければならない。
エールリヒはそう考えている。
だが、それもトーカの言葉で消し飛ぶ。
「エルフの境界まではこれまい」
エールリヒはバッと頭を上げてエルフの方を見た。
エルフの瞳はエールリヒを真っ直ぐ射抜いていた。
冗談で言っているのではないと。
エルフの境界は確かに誰も知らないはずの場所だ。
そこならば確かにダンケルノ公爵家の追跡を切らせれるかもしれない。
「だが、……っ!」
エールリヒはトーカの手の甲に刻まれている奴隷紋を目にし盛大に顔を歪ませた。
奴隷紋がある限り王妃にバレれば戻されるし、最悪の場合死に至る。
王妃が可愛がっている貴重なエルフに死ねという命令を下すことはないだろうが、絶対にここに戻されるだろう。
「……出来るかは分からんが、出来たなら貴様のその想い人をエルフの境界まで連れて行ってやろう」
トーカの決意を秘めた瞳を見たエールリヒは困惑気な表情を浮かべた。
そしてその“出来る”という言葉に違和感を持った。
ただ逃げるだけではないと確信させる何かが。
だからこそエールリヒは希望があるのかと勇んで尋ねる。
「何をするんだ⁈」
「貴様の血を貰う」
トーカの予想外の言葉にエールリヒは口をぽかんと開けて間抜け面を晒していた。
「・・・・・・血?」
「ああ、本来ならば本人の血でしかこの忌々しい紋章は解除できん。だが、同じ王家の血、あの女の血を引くお前ならば私が魔術で干渉すれば何とかなるやもしれん。そのときは子供達と共にお前の想い人もついでに連れて行ってやる。だが、お前の想い人がそれを了承するのかは知らんがな」
「想い人・・・・・・」
エールリヒは顔を少し赤くして繰り返すように呟いた。
「なんだ、違うのか?まぁそれはどうでもいい。それにその場合は貴様にも来てもらうぞ。でなければ、私だけが行っても説得などできぬし、そもそも説得するつもりもない。あくまで契約者は貴様だ。私がやることは無事に対象を境界まで連れて行くこと。それ以上は知らん」
「わかった。それでいい」
エールリヒは神妙な表情で頷いた。
まだ助けれると決まったわけではないが、それでも希望が見えただけでもいまのエールリヒには十分であった。
その瞳はここに来た時と変わらぬ強い意志が漲っていた。
その意志は全く異なるものとなっているが、その表情はここに来た時よりも晴れやかであった。
「明日もう一度来い。貴様もそれまでに準備を整えておけ。おそらく成功したとしても私は弱体化する。それでも並大抵の者には負けることはないが、私を捕らえた存在がこの城にはいるはずだ。注意しろ」
――∇∇――
エールリヒはワイルボード侯爵家に着いてからすぐに説得できるように前もって侯爵に手紙を送った。
手紙を送ったことは後にバレるが送った内容は本人しか開けれないためバレることはない。
トーカの術は成功を収めた。
いま、エールリヒはワイルボード侯爵領へとエルフのトーカと子供2人と共に必死に馬で走っている。
馬には申し訳ないが、使い捨てるように魔法によって回復しながら進んでいる。
馬に回復魔法を掛けるのは御法度だ。
なぜならば、馬は魔法など分からない。
それゆえ、魔法によって走らせ続ければ馬は自身の体力を見誤り、魔法をかけなくなっても走り続けてしまうからだ。
だが、それをしてでも急がなければならなかった。
「なぁ、本当にバレないのか?」
馬は厩役が常に管理している。
何の申請もなく2頭も居なくなればそれなりに騒ぎになるだろう。
「認識阻害の魔法をかけておいた。今の私では気休め程度しか保たんだろうが、逃げるまでは支障あるまい」
エールリヒ達自身にも認識阻害の魔法を掛けている。
ダンケルノ公爵家の監視がいるならば、今この時点でも見つかれば追跡を免れないからだ。
だが、トーカの宣言通り無理やり術に介入した影響によってトーカの実力は相当落ちている。
全力の半分にも満たないだろう。
それゆえ見つかるかどうかは運次第ではある。
だが、どれだけ不安であろうともう後戻りなど出来ないしするつもりもなかった。
一行は遂にワイルボード侯爵領に入った。
ここからは徒歩で行くことになる。
認識阻害の魔法では音までは消すことが出来ないからだ。
領外ならばともかく領内でそのまま進むのは自殺行為に等しい。
開戦間際ということで領内はかなり慌ただしい。
商品を売り終えた商人達は足早に去っていき、少数ながら住民らしき者達も避難しているのが見える。
エールリヒはギリっと歯を噛んだ。
民を守るのが王の役割と豪語するならば、なぜこの光景を放置するのかと。
「目的を違えるなよ」
雰囲気が険しくなったエールリヒの様子を見ていたのかトーカがそう忠告した。
王家の者としてこの国の状態を憂いる気持ちもあるが、いま第一にするべきは侯爵令嬢のミオを救い出すこと。
誰も彼もと助ける余裕などないし、そんな実力もいまのエールリヒにはない。
王に言わせれば、ダンケルノ公爵家との確執を産まぬため、しいては国のために侯爵家を犠牲にしろと言うのであろうが、エールリヒには出来なかった。
幼い頃に何度も遊んだ友達。
今でもその笑顔を鮮明に思い出せる。
それが数日後には死に顔となる?
無惨で凄惨な状態となる?
断じて認められない。
姉のユリーとも何度か遊んだことがある。
お淑やかで優しい人であった。
殺されたと聞かされどれだけ愕然としたか。
助けなければ後悔する。
今はその思いしかなかった。
絶対に後に責任問題にはなるだろう。
だが、国のため王家のためと貴族の蛮行を見過ごし、のうのうと王子として、そして後にこの国の王として胸を張って君臨出来るか。
その問いに胸を張って回答することなど出来はしない。
若気の至りかもしれない。
だが、少なくともエールリヒにとってこの選択は後悔のない選択であった。
「ようこそいらっしゃいました、第一王子殿下。何分いまはゴタゴタとしていましてね。たいした歓迎が出来ず申し訳ない限りです」
腰を低くして迎えてくれたワイルボード侯爵は何日も寝ていないかのように目の下に隈があった。
だが、その言葉にはどこか棘があるようにも思えた。
上辺の言葉だけで歓迎するつもりなど元よりないのだろう。
「いえ、お気遣いなく。あまり悠長にもしてはいられませんので。早速ですが、送った手紙は届いておりますでしょうか?今日こちらに来させていただいたのは————」
社交辞令など不要とばかりに早速本題を切り出したのだが、それを遮る者が現れた。
「——おや?これはこれは」
エールリヒが話しているときに割り込んできたのはブーティカ教の大司教の祭服を身に纏った小太りのおっさんであった。
(ブーティカ教の大司教だと?何でこんなところに)
エールリヒはこの場にいるなどとは思っていなかった大司教の登場に訝しげな顔を浮かべたが、そんなことを気にした様子もなく大司教は続けた。
「第一王子殿下、これはこれは御機嫌麗しゅう御座います。私、ブーティカ教の大司教を務めさせていただいております、ガーボ・ミーティアと申します。以後お見知り置きください」
まるで全身を舐め回すかのような嫌な目をしているこの男にエールリヒは嫌悪感を覚えた。
だが、今は緊急時、あまり邪険にも出来なかった。
「覚えておこう。だが、優遇するようなことはない」
ピシャリとそう言い切った。
教会の者は権威が上に行けば行くほどがめつい者が多くなる。
それゆえ、エールリヒは先に釘を刺した。
だが、ガーボ大司教は気を悪くした様子もなく、むしろガマガエルのような嫌な笑みを浮かべて尚も話しかけてくる。
「ところで殿下。このような火急の場に何用ですかな?」
ガーボ大司教は揉み手をしそうな勢いで手を前に組んでいた。
エールリヒからすればその言葉そっくりそのまま突き返してやりたかった。
だが、そんな時間などない。
「貴様には関係がない」
エールリヒは突き放すように吐き捨てた。
これ以上はこいつにかまっている暇などないと。
いつ奴らが来るのか分からないのだ。
早めにここを離れなければならなかった。
「つれないではないですか、殿下」
だが、それでも尚ガーボ大司教は食ってかかってきた。
流石にイラッとしたエールリヒは怒鳴り声を上げようとカーボ大司教に視線を向けたが、ガーボ大司教は薄く笑みを浮かべ、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。
それは大司教という権威が為せる重圧。
エールリヒが気圧され言葉に詰まっていると、ワイルボード侯爵が険しい顔でエールリヒに話しかけてきた。
「エールリヒ殿下、貴書を拝見させていただきました。しかし殿下、あれは私を侮辱しているのですかな?この私が負ける、そう仰いたいということですかな?」
痛いところを突かれたエールリヒは顔を顰めた。
顔に出すあたりがまだまだ甘い。
ワイルボード侯爵の手紙には、もしものときに備えて夫人と令嬢を避難させてはどうかというようなことを書いた。
しかしそれは侯爵のことを信用していないと言っているようなもの。
あなたは負けるだろうから逃せ、と遠回しに言っているのだ。
でなければ、関係のない第三者がわざわざ手を貸しはしない。
「それは……」
エールリヒは言葉に詰まった。
何を言ってももう言い訳でしかない。
そもそも今からエルフの境界に連れていくという説明をしなければならない。
いや、そこまで説明する必要はないだろうが、エールリヒはこのままワイルボード侯爵がダンケルノ公爵家に勝てるなどとは思っていない。
どう足掻いても信用していないと言っているようなもの。
何を言っても無駄なのである。
トーカは沈黙を貫いている。
宣言通り、説得に協力するつもりなどないようだった。
エールリヒもそこは期待していたわけではない。
だが、エールリヒの考えは甘すぎる。
昔はもっと友好的であったから、今回もそこまで邪険にされることはないだろうと高を括っていた。
だからこそ、一切こちらに譲歩する態度を見せない侯爵に対応できていない。
だが、救いの手を差し伸べたのは意外にもガーボ大司教であった。
「まぁまぁ侯爵様。まだまだ幼いのですからそれほど虐めてやりなさるな。まだ誤解のある書き方をなさることもありましょう。それに何事も余裕を持つことは大事ですぞ。弱いところを突くのは人の常。弱点となりうる奥方とご息女を避難させておくことは合理的なことでございますよ」
ガーボ大司教は聖職者らしく慈愛の笑みを浮かべ侯爵を諭した。
だが、エールリヒはどうもこの男のことが好きになれなかった。
いくら外面がよかろうとその滲み出る腐った内面を隠しきれていない。
それはもはやこの人物の魂にこびり付いた腐臭とも呼べるものだ。
「ところで、殿下。そちらのお方々をご紹介願えませんでしょうか?」
ガーボ大司教は口角をこれでもかと上げ、今までで1番下卑た笑みを浮かべた。
本人は隠しているつもりかもしれないが、まったく隠せてなどいない。
いや、その実隠す気などないのだろう。
温室育ちの坊ちゃん程度、百戦錬磨の大司教が掌で転がすなど容易い。
トーカ達はコートに身を包み、顔がわからなくなっているが、エールリヒの護衛と言うには明らかに子供2人いるのがおかしい。
だからこそ認識阻害の魔法をかけて大人に見えるようにしているが、トーカの力が弱まっているのか、目の前の男が優れているのか子供達にかけられた魔法が効いていないのかもしれない。
それならば下手なことを言うと逆に追求される。
それにエルフであるということをバレるわけにはいかない。
「悪いがそれはできん」
お忍びの者などがいる時に紹介することができないことなど普通にある。
このような場でお忍びというのはおかしな話だが絶対に紹介しなければならないというわけではない。
極論紹介する側が相手のことを気に入らなければ顔が見えていようとまたの機会にと言われて終わりだ。
だからこそエールリヒは極めて自然にそう言った。
だが、ガーボ大司教は引き下がらなかった。
「そこをなんとか。チラッと見えましたがさぞや美女であるとお見受けしました。それほどの美姫、一目だけでも拝見することをお許しいただきたい」
カーボ大司教は周辺に蓄えられた脂肪によって目が細まり、ニチャァっと聞こえそうなほど醜悪に口角を上げてトーカの方を見た。
チラッと見えたと言ったが見えるわけがない。
認識阻害の魔法がかかっているのだから。
そう言いたいが、この男は見破っている可能性がある。
ならば本当に見えたのか?
そこまで考え、エールリヒは気づいた。
美女?
女だとバレている?
全身を覆うように羽織っているコートは体に密着しているわけではないので体格から性別などわからない。
トーカの身長はそれほど低くないので男か女なのかわからないはずだ。
ということはこの男に認識阻害は効いていない。
エールリヒは歯噛みしガーボ大司教を睨みつけた。
だが、カーボ大司教はエールリヒの睨みなどそよ風のように受け流し、その隠しきれない笑みを滲ませた口を開いた。
「さぁ、殿下。どうかご紹介ください、そちらのエルフの皆様を」
その瞬間トーカが動いた。
だが、トーカは一歩動いただけですぐに動きを止めざるを得なくなり、舌を忌々しげに鳴らした。
既に囲まれている。
黒い服に身を包んだ者達が何十名と突然エールリヒ達を取り囲むように忽然と現れた。
周囲を取り囲む者達だけでなく天井にもいる。
今の今まで全く気が付かなかった。
一人一人がかなりの実力者である。
子供達を守りながら今の弱体化しているトーカが戦うには手に余る。
ガーボ大司教はそんなトーカの反応など気にした様子もなくガマガエルのような嫌な笑みを浮かべて話を続けた。
「手を出すつもりはございませんよ」
「ならば此奴らはなんだ‼︎」
トーカは烈火の如く吼えた。
確かに殺気はない。
だが、こいつらが纏う魂に染み付いた血の匂いまでは無視できない。
「逃げられないようにです。あ、いえ、その言い方では語弊がありますね。交渉の前に逃げられないように、です。我々は何もあなた方を害したい訳ではございません。願いを聞いていただけるのならその後は望み通り解放いたしますよ」
菩薩のような笑みを浮かべるが、トーカに外面など意味を為さない。
それに願いを聞かないのならば解放しないと言っているようにも取れる。
「貴様ら人間の言うことなど信じるに能わぬ」
毅然とした態度で臆すことなく言い切った。
だが、カーボ大司教は少し困ったような表情を浮かべるだけでその余裕の笑みは一切消えていない。
「困りましたね〜。ですが、それでは悲しき結果になりますよ?どうやら貴女様はいま弱体化しておられる様子。それが幸運なのか不運なのか我々にとってもどちらとも言い難いのですが、しかし我々はどちらでもいいのです。ですが、素直にお聞きいただけるのならあなた方の願いも叶えた上で解放することを約束致しますよ。なんでしたら誓約魔法をお使いしても構いません」
腐っても大司教。
そうは見えないが相応の実力者。
魔力という超常の力が蔓延るこの世界では見た目など何の役にも立ちはしない。
まだまだ未熟なエールリヒには全然わからなかったが、トーカにはその目を通してカーボ大司教の実力がわかった。
力が回復していない今、この男とこちらを取り囲む者達を相手取るのは不可能であると。
「……わかった。従おう」
トーカが渋々ながら頷いたのを見た大司教は満面の笑みを浮かべ、侯爵の方へと振り返った。
「では、侯爵様。約定お忘れなきよう」
「ああ、そちらもな」
嬉しそうなカーボ大司教とは対照的にワイルボード侯爵は不機嫌そうに鼻を鳴らし、カーボ大司教を一瞥すらしなかった。
「既に運ばせておりますよ」
そう言うカーボ大司教にワイルボード侯爵は忌々しげに舌打ちをするだけ。
が、そんな態度の侯爵に対してもカーボ大司教は満足そうな笑みを浮かべるだけである。
「では、場所を変えましょうか」
ガーボ大司教はそう言うと我が物顔で侯爵の屋敷の奥へと歩いて行った。
そのときにはすでに周りを取り囲んでいた黒い服の者達はいなかった。
エールリヒが顔を顰めながらキョロキョロしているとガーボ大司教が目でさっさと着いてこいと言っていた。
カーボ大司教はそのまま進んでいき屋敷の奥の方にある、とある一室へと入った。
「この部屋には防音の魔法がかけられております。部屋の外に声が漏れることはありませんよ」
防音魔法は魔法陣で為される魔術だ。
用意周到なことだなとエールリヒは嫌そうに鼻を鳴らした。
ガーボ大司教は分かりやすいエールリヒの態度などに反応せずニコニコとしたままその部屋にあるソファーへどっしりと腰をかけた。
一瞬だけ座るのを躊躇したトーカであったが、もうここまで来ればどうしようもないとため息を吐きながら対面のソファーにエールリヒと一緒に腰をかけた。
子供達は当然すぐに守れる位置に置いている。
「さて、先ほどの無礼はお詫びしましょう。しかし我々も手段を選んでいる余裕などないのをご理解ください」
カーボ大司教は席につくなり形ばかりの謝罪をした。
それに対して、トーカもエールリヒも顔を顰めるだけである。
もはや脅迫されて連れてこられてきたようなものだ。
選択権を与えず謝罪などされても何の慰めにもなりはしない。
「ご理解くださいなどと言われようとも私の知ったことではない」
「確かにその通りでございますね。さて、無駄話をしている余裕はありませんね。お互いにね」
トーカの刺々しい物言いにも全く臆することなくカーボ大司教は口角をニヤリと上げた。
「本題に入りましょう」
部屋の雰囲気は何一つ変わってなどいない。
だが、エールリヒはカーボ大司教のその一言でこの部屋が戦場にでもなったかのように総毛立ち、体が無意識に強張った。




