終章、神と魔王と復讐者
始まりは六十八。
一人奪って六十七。
裏切り者が逃げて、六十六。
―――
雷の法石に触れ、姿を消した怪物は異なる世界に立っていた。
そこは暗雲の世界。
厚い雲が永遠に空を塞ぐ、泥濘と薄霧に支配された場所だった。
本来の姿を取り戻したはずの怪物は、再びその体を泥に変えられていた。
だがそれもそのはず。ここは神の領域なのだから。
「…………」
そして何も言わず。
泥に沈んだ平坦な世界の中央にそれはいた。
どこまでも続く泥の地平と相まって遠近感を狂わせる、見上げるほどの巨体。
その威容はあえて形容するのなら腐敗した巨人の上半身だった。
青褪めた肌の女の腰から上を千切り取ったような姿。
しかしその顔には目も鼻も口もなく、ただ顔の代わりに暗い穴が一つ穿たれている。
さらに腐臭のする妊婦のように膨らんだ腹は破け、中からは数え切れぬほど人の手が溢れて蠢いていた。
それから千切れた腰からは巨大な木の根が張り、異形の女をまるで大樹のように泥に固定している。
「ぁ……」
おぞましい息を漏らし、異形の神……いや、邪神が怪物に手を伸ばす。
するとウルスラの黒い字が浮かび上がり、炎が放たれる。
いや、それだけではない。
【鎚の魔王】の雷を、【断絶の魔王】の風の刃を、【蟲毒の魔王】の毒の波を、これまで現れた邪神の力の尽くが怪物に降りかかる。
「…………」
対して無言のまま怪物は力の嵐を身に受ける。
そして当然塵すら残らなかった。
だが怪物は不死であり、瞬く間に体を再構築して触手を繰り出す。
神はそれを防ごうとはせず、けれど一筋の先端が裂けた腹に届こうとした時。
足を持たぬはずの腐肉の巨人は、遥か遠くへと転移していた。
「――――!!」
世界が揺れるほど声を響かせ神は嗤う。
そしてかの者の権能は『奪い、与えること』だ。
他の邪神に泥の呪いを与え、浄化と称して聖剣に封じられた邪神の力を奪う。
さらにこの神は、かつてまだ他の邪神と共に在った頃に一柱の邪神を殺していた。
それは、かの神がただ一人足を持たぬが故に。
自由に動ける足が欲しかったから。
ただそれだけのために、その神は同胞たる六十七番目の邪神を殺めた。
そして手に入れた『足』……すなわち次元を操る力で人の世界へ逃げ、人間を駒として利用し与えた力でわざと招き寄せた他の邪神を倒させていた。
さらには浄化で吸い上げた邪神の力を蓄えて、自分だけの世界を作ってさえみせたのだ。
「―――――――!!」
すべてを操り糸を引いていた神の、その哄笑は止まない。
あらゆる力を取り込み、最早万能と同義になった神はただ不死の怪物を殺し続ける。
その力は同じく多くの邪神を取り込んだとは言え怪物では及ぶべくもなかった。
それもそのはず、怪物が取り込んだ邪神の殆どはもはや浄化により抜け殻のように絞られていたからだ。
そのような出がらしをいくら取り込もうと神に勝てるはずもない。
いくら死なないとて、神にとって怪物は遊びがいのある玩具でしかなかった。
「…………」
けれどなすがままになっていた怪物の力が突如膨れ上がる。
まるで消えかけの蝋燭の最後の輝きのようにして。
しかし蝋燭のそれとは違い怪物の力の肥大は留まるところを知らない。
雷に打たれ、炎に焼かれながら……いや、膨張する力はやがてそれすら跳ね除ける。
炎も氷も風も、全てが怪物に当たる前に霧散する。
やがて増大する力は臨界に達し……爆発した。
世界が漂白される。
音を超えた音は単なる衝撃となって地平の果てまでも揺るがし、怪物の周囲の泥は尋常ならざる白熱に刹那で蒸発した。
一つの世界を丸ごと焼き払うようなその爆発は、言うなれば怪物の自爆だった。
自らの魔王としての命を燃料に、全てを砕こうとしたのだった。
……だが。
「…………え、あ……」
神は健在だった。
あの爆発を防ぎ、焦げることすらなく変わらずその場に蠢いていた。
人には解せない邪神の言葉で何かを呟き、彼女の敵が消えたあたりを見つめていた。
するとそこに体を再構築した怪物が現れる。
間を置かず再び爆発した。
「――――――――!!」
声にならない悲鳴を上げながらも、神は自爆の衝撃を再び耐える。
……彼女は既に理解していた。
あの怪物が、これからどうするつもりなのかを。
なにかを叫び、怪物を強制的に世界から追放しようとする。
しかし怪物が自爆する方が早かった。
転移を中断し障壁を展開する。
軋むが耐えた。
だが後何発耐えられる?
不死の怪物は、不死であるが故に幾度でもその身を薪に世界を燃やせる。
そして怪物は元よりそのつもりで、不死の力の強化に全力を注いでいた。
それは神すら怖じける狂気の行為。
まともな精神では到底行えない、この上ない生命への冒涜だった。
爆ぜる。防ぐ。爆ぜる。防ぐ。何度も繰り返される。死に続ける。
どれだけ繰り返されただろうか。
一年過ぎ、二年経ち、けれどそれは終わらない。
神はエステルの片鱗をも取り込んでいる。
力を失っても蘇り、また怪物の自爆に焼かれる。
そんな狂気じみたやりとりがやがて百年を超え、千年を刻んだ頃。
ついに神は抵抗する意思を失い、迸る閃光に身を焼かれる。
幾度も幾度も死に至り、遂に完全に命を刈り取られた。
……だが死の直前。
残る力を振り絞り、怪物を道連れにするべく神は自らの世界を破壊していた。
いかに怪物とはいえ、世界の狭間、無の海にて生きられる道理はないからだ。
神は堕ち、世界は砕け始める。
焼け焦げた女の大樹に一瞥をやり、怪物は崩れ始めた曇りの空を見つめた。
「…………」
千年の時を死で埋め尽くした怪物に最早まともな理性はない。
ただ虚ろに空を見つめ、最後に神の亡骸に触手を伸ばす。
そしてそれから、まるで本能のように遺体を喰らい始めた。
終章、神と魔王と復讐者・完




