エピローグ、もう一度君に
世界は変わった。
神がいなくなり、その神によって一柱ずつ呼び込まれていた魔王も人の世界を訪れることはできなくなった。
そしてやはり、世界は変わった。
神と、使徒選定に代表される神の御業が失われたこと。
重ねて魔王という共通の敵を失ったことは、一つに束ねられていた人類の瓦解のきっかけを生んだ。
ただでさえ戦役による傷と怪物の蹂躙で崩壊しかけていた世界は、すぐに生存のため人同士で争うようになったのだ。
足りない物資を奪い合うために人が徒党を組み、やがては国が復活し、国の間で戦争が起きる。
人々は泥ではなく同胞の血に剣を濡らし、勝者は敗者からすべてを奪う。
そんな光景は神が糸を引いていた世界においては見られないものだった。
百年、二百年と経ち。
やがて言葉は変わり、枝分かれした文化は人の間に差異と軋轢を生み出した。
こうなっては最早、人類が再び統合されることはありえないだろう。
永遠に繰り返される争いとつかの間の平和の中、神がいた時代は黄金の時代として語られる。
全ての命が神の名のもとに正しく生き、戦争などない平和な時代であったのだと謳われる。
かの理想郷を破壊した怪物は触手の異形であったとされ、今も悪魔として忌み嫌われていた。
そして自ら殺されながら悪魔も道連れにしたと伝わる神は、いつか復活し再び世界を一つにするのだと語り継がれていた。
それは終わりなき争いに身を置く人々にとって、限られた希望の一つであった。
……そのように。
神がいなくなっても、魔王がいなくなっても、世界は決して完璧にはならなかった。
歪だった世界は本来の姿を取り戻し、操る者のいない世界がこれからどうなるのかは誰も知らない。
神殺しが正しかったのかも分からない。
けれど一つだけ確かなことがある。
それはもう二度と、一人の少女が世界を背負わされるようなことはありえないということだ。
勇者も聖女もいない世界には、都合よく人々を救う英雄は現れない。
選ばれし使徒の力や、誰かの犠牲で生きられるほど今の世界は単純ではない。
誰もが生きるために力を尽くし、前に進まなければならない。
世界を救うなどという概念は消え、ささやかな幸せを守るための戦いを一人ひとりが引き受ける。
すなわち人類は定められた運命を失い、対価として不確定の未来を手に入れた。
そしてそれこそが少女の願いと男の復讐が行き着いた果てであった。
―――
幾星霜の時の夢。
血と炎の果てに。
―――
一人の男が、真っ白な世界を彷徨っていた。
そしてそれは、肉体の消滅の間際に男が作り出した世界だった。
砕けた世界の欠片は男が手に入れた神の力の片鱗により繋ぎ止められ、その心にかすかに残る願いのまま作り変えられたのだ。
すなわちそこは、魂と自我のみで存在できる箱庭。
きっと余人が知ったならば天国と言い表すであろう、そんな場所。
けれどその天国を歩く男は、どうしようもないほどに虚ろな瞳をしていた。
触手の残骸に身を覆われ、痩せさばらえた肌は土気色に生気を失っている。
さらに纏う黒のローブはぼろぼろに破けてみすぼらしく、懸命に歩むも左足は力なく引きずられていた。
「…………」
真っ白い、誰もいない世界。
誰もいないはずの世界。
けれど何かを探して彷徨う男の、その背中に柔らかな声がかけられた。
「もし、そこのお人。そんなところで何をしているのですか?」
柔らかな、微笑みを含んだ声。
男は立ち止まり、そして答えた。
「……人を、探してるんだ」
「…………」
柔らかな声の主は言葉に詰まり、けれどすぐにまた語りかけてきた。
「もうやめてもいいのではありませんか?」
「だめだ」
「では少しだけ、休んではみませんか?」
「できない」
「ならばせめて、理由を教えてはくれませんか」
「…………」
最後の問いに男は答えなかった。
ただ俯いて、よろめく体で歩き始める。
何故ならそれは、幻覚だと思っていたから。
自我が砕けた彼女はもうここにはいないはずなのに、都合よく生み出した幻で自分だけ救われてはいけないと思ったから。
記憶など、最早男にはほとんど残されてはいない。
だがそれでも誓いは覚えている。
ずっと昔、なにがあってもそばにいると約束したのだ。
約束は守れなかったが、せめて永遠に探し続けなければならない。
そう思い定めた男はずっとずっと、永久にこの白い世界をさまよい続けるだろう。
人の世界が終わっても、約束すら忘れても少女の面影を追い続けるのだろう。
けれど声の主が歩み寄り、冷たく衰えた彼の手を握った。
「もう……もう、いいんですよ」
泣きそうな声で少女が言うと、真っ白だった世界は姿を変えた。
何もなかった世界に花が咲き誇り、形作られた夜空には明るい月が浮かぶ。
男のぼろぼろだったローブもかつての姿を取り戻し、痩せさばらえた体もいつかのように血を通わせた。
「…………」
その変化を声もなく見つめて、それから男は振り返る。
「……どうして、ここに?」
彼女の魂は男が喰らったはずだった。
そして魔物たちの怨嗟の渦に巻き込まれた彼女は自我を失ったはずだった。
だからここにはいられないはずだったのだ。
だが、事実として彼女はここにいる。
「…………」
だからまずそれを問いかけた男に、しかし少女は何も答えず微笑んでいた。
その微笑みに、男は全てを悟った。
決まっている。待っていてくれたのだ。
男は決してひとりではなかった。
絶望と憎悪が吹き荒れる地獄で、彼女もまた千年を待ち続けてくれたのだから。
気がついて、それから男は天を仰ぐ。
そして束の間月を見上げ、少しだけ躊躇って、少女の小さな体を抱き寄せた。
「もう二度と、あんたを悲しませたりしない」
どれほど苦しかっただろう。
終わりの見えない、光すらない場所で。
無限に怨念が渦巻く場所で。
待っていてくれた。
そばにいてくれたのはむしろ彼女の方だった。
それがどうしようもなく切なくて、でも嬉しくて、涙に濡れた声で男がそう言った。
すると同じく湿った声で少女は答えた。
「そうですね。……もう、悲しいのはいやですね」
寄り添う二人を、かつてと同じ柔らかな月の光が照らす。
ささやかな風が花畑を揺らし、優しいささめきを耳に届けた。
「色んなことがあったでしょう」
「ああ」
「聞かせてください。あなた一人に押し付けてしまったことを、どうか私にも背負わせてください。……それから」
お互いに、きっと話すことはたくさんあった。
どれだけ時間があっても足りないほどに。
けれど二人とも、最初に言おうとしたことは同じだった。
「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」
幾星霜の時の夢。
血と炎の果てに。
男はもう一度、愛しい少女に巡り合う。
エピローグ、もう一度君に・完
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