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星の記憶

 


 天に散る星屑の下、男は全てを憎んだ。


 少女を奪った世界を。

 無情な運命に爪すら立てられなかった、無力な己を。


 ……そして最期の刻。

 静かに誓いは交わされる。


 ―――


 ザリドが戦列に戻ったことは即座に戦況の好転には繋がらなかった。

 あれから一年ほど経った今。

 むしろ魔物は増える一方で、人類は徐々に余力を失いつつあった。


 俺は一人戦場の跡に這いつくばり、魔物の死体を喰らい続ける。

 魔人化した俺の顎は強靭で、さらにいくら喰らっても満腹になるということはない。

 強そうな個体を適当に見繕い腹に収め、そこでふと俺は空を見上げる。


「…………」


 夜の空を覆う雲は消えることがなく、月や星の光を遮っている。

 故に当然月も星も見ることはできず、俺は少しだけ寂しく思う。

 今も俺の帰りを待っているであろうセレスは、そういった綺麗なものが好きだったから。


 ―――


「セレス、帰ったぞ」


 俺とセレスが寝泊まりをしているのは野営地の片隅にあるみすぼらしい天幕だった。

 きっちり三角に張られたそれに足を踏み入れて、俺はセレスに声をかける。


「豚に似た魔物がいたから喰ってみた。まぁ、うまかなかったがな」

「ぁ……ろ……し……ぁ……ぁな……」


 陽気に声をかけながら、俺は寝床である藁が積まれた場所に身を預ける。

 疲れ切った体には、粗末なそれでもそこそこ心地が良かった。


「あんたとまた、美味いもんでも食いに行けたらいいんだけどな。……もう灰皿と取り皿間違えんなよ?」

「ゅ……さ……い……ぅ……ぎ……ろ……じゆ……」


 隣にいるはずのセレスは、何も答えない。

 ……何も答えてなどいない。


 俺も不意に疲れが押し寄せてきて、だから言葉を途切れさせる。


「…………」


 テントの低い天井に吊るされたランプ。

 その光を頼りに、俺は隣に転がされたセレスの姿を見つめる。

 汚泥の束に成り代わった両腕と左足。

 修道服のあちこちが破れ、人ならざる触手が蠢いている。

 真っ赤に染まった瞳は何も写すことはなく、充血しきってとろけたそれはただどこまでも虚ろに宙をさまよっている。

 艶を失った髪はざんばらに乱れ、肌も青白くもはや生気はない。

 ただ口元だけが、滅裂な呟きに突き動かされている。


「なぁ、セレス」


 答えはない。

 だから俺もその言葉を口にすることはなく、ただ胸の内に秘めて殺してしまう。


「…………」


 なぁ、セレス。

 ……あんたはまだ、そこにいるのか?


 ―――


 まず、アルデシアは奪還した。


 だが、それ以前に人類はその戦力を減らしすぎた。

 どこもかしこも人が足りず、勢いを増す魔物の前に敗走を重ねている。

 ここ一年は追い込まれた戦線の支援に回っていたのだが、どうも焼け石に水らしいということが分かってきた。

 だから人類は今、総力を挙げて北の奥地へと進軍している。

 それはかの地で第一使徒との交戦で負った傷を癒やす、呪詛の魔王ウルスラを討つために。


 ―――


 北端の大地は、まるごと魔物の領域になっている。

 今までがそうだったように空は薄く曇り、昼だというのに太陽は見えない。

 荒涼とした平野を……いや、泥の荒野を進みつつ、俺はセレスに声をかける。


「セレス、大丈夫か?」


 今の彼女はクロードの命令にのみ従う人形だ。

 だがそれでも、どういう訳か俺の言葉も少しは聞こえているようで手を引いて歩けば黙ってついてくる。

 だから行軍の際セレスを連れて歩くのは俺の役割だった。

 ……もっとも、クロードにやらせるくらいなら担いででも連れて行くのだが。

 ともかく何も言わず、俺はただ軍勢の後ろをついて歩く。


「…………」


 装備こそ立派な兵士たちだが、その誰もが連日の戦闘に疲れ切っている。

 そしてその疲れは、体だけでなく精神にも蓄積していた。

 俺の無駄に性能のいい耳は聞きたくもない兵士たちの声を拾う。


「もうずっと戦い詰めだ」

「……昨日も眠れなかった」


 最大の魔物の領域であるが故に当然襲撃は日夜問わず続く。

 日も差し込まないような場所で、いつ襲われるとも知れない状況。

 まともでいられるわけがない。

 それに。


「大体、アレはなんなんだよ……!」


 セレスの存在も兵士たちの心を確かに蝕んでいて、それに俺はどうしようもなく虚しくなる。

 ……彼女は、彼らを救うためにこそ身を捧げたというのに。


「敵襲だ!」


 と、その時。左翼の兵が声を上げる。

 そして同時に飛来した竜の魔物が火球を放ち、軍の一角が大きく崩れた。


「ぁ……」


 小さく声を漏らし、俺の手を振り払ったセレスが一歩を踏み出す。

 恐らくは、クロードが何か命令を下したのだろう。


「…………」


 魔物の群れへと歩を進めるセレス。

 俺は右腕を刃に変え、ただその背中を追う。


 ―――


 その夜。

 俺はクロードがいる天幕の前にいた。

 魔王の侵蝕を抑える処置を施されているのだというセレスを待っていたのだ。


「…………」


 今日も月は見えない。

 けれど天幕の周りには篝火が焚かれていて明るく、見回りの兵士たちが俺のことを気味悪そうに見ていた。


「……遅いな」


 一人呟き、少し迷った後に天幕の入り口の布に手をかける。

 思えばずっと、気になってはいたのだ。

 セレスが俺と離れ、クロードのところに何をしに行っているのか。


「…………?」


 何か……硝子(がらす)の細い筒と針を組み合わせたようなもの。

 そんなものを持ったクロードが、地べたに転がされたセレスの前に立っていた。


「まだ、自我が……しぶといな。ウルスラと交戦するまでには、間に合わせなければ」


 おかしな事を呟き、クロードは針をセレスの泥に汚れた首に突き立てる。

 するとセレスの体は激しく痙攣し、低い声で呻きを漏らし始める。


「ぅ、ら……ぉ……な……!」

「黙れ」


 クロードは一つ舌を打ち、さらに筒を取り出す。


「黙れ。……黙れと言っている。…………クソ、どうもこれだけは、言うことを聞かないな」


 また針を刺され、セレスの痙攣はさらに悪化する。

 今にも死に至るのではないかと言うほどに暴れ、クロードに首元を押さえつけられている。


「……セレス」


 小さく呟く。

 俺は馬鹿だが、なにか良くないことが行われているのだということは、はっきりと分かった。

 クロードはやがて小さく鼻を鳴らし、ぴくりとも動かなくなったセレスを立たせる。

 俺は覗いていた体を引っ込めて、何も見なかったかのように振る舞う。


「…………」


 出てきたクロードは何も言わず、ただ俺の方へとセレスの背を押した。

 ふらふらと倒れ込むようにして押し出された彼女の体を支え、俺は自分たちの天幕へと足を向ける。


 ―――


 藁に体を預け、俺は先程の光景を思い返していた。

 押さえつけられていたセレス。首に刺された針。筒には何か、黄金色の液体が入っていたように思う。

 いつにも増して、セレスは強く呻き声を漏らしている。


 その声すらかき消すほど思考にのめり込んだ俺は、やがて一つの事実に思い当たる。


「……そう言えば」


 ある時から、セレスがどこかに消える時の反応が変わった。

 最初から嫌そうではあったが、ある時からさらに無理をしているような……そんな表情を浮かべるようになったのだ。

 そしてそれはアルデシア奪還作戦の頃で、ちょうどこの頃から転がり落ちるようにしてセレスは人間性を失っていった。


「まさか」


 セレスの方に振り向く。

 そして一つ推論を立てる。

 まさかクロードは、セレスの理性を意図的に消し去ろうとしているのではないか?


「…………」


 一度思えば、思い当たることばかりだ。


 セレスの体では蘇生の負担に耐えられず、命のストックを残したまま戦闘不能に陥るということもあった。

 だからクロードはセレスの自我を消し、完全にその体が魔王のものに作り変えられるのを待っているのではないか?


「…………っ!」


 腸が、煮えくり返るような気持ちだった。

 クロードに、だけではない。

 それに気が付かず、呑気に奴の元へと送り出していた自分にだ。


「クソッ……!!」


 立ち上がり、セレスの手を……触手を握る。

 そして立たせてそのまま天幕の外まで連れ出す。


「…………」


 やはり何事かをぶつぶつと呟き続けるセレス。

 その手を引いて、俺は野営地を横切って行く。

 もう兵の大半は疲れからか天幕に引っ込んでいて、見張りの奴にだけ見つからないよう気をつければよかった。


「セレス、ここを出よう」


 虚ろな瞳で見返してくる彼女に告げて、俺はついに野営地から外に出た。

 野営地は山のふもとで、平野にも繋がっている。

 そして平野には俺たちがずっと行軍してきた道があるはずで、それを辿ればきっと人里に戻れる。

 今のセレスが普通に生きていけるかは怪しいが、いざとなったら二人で山奥かどこかで暮らしてもいいのだ。


「…………」


 夜逃げする都合上、戦闘をするわけにはいかなかった。

 だからいつも以上に注意を払いつつ、俺は月が隠れて真っ暗な平原を行く。

 と、その時。不意にセレスが足を止めた。


「おい」

「…………」


 何も答えない。

 平野の、丁度枯れた草原があるあたり。

 まだ道からは遠い場所で、セレスは立ち往生してしまう。


「……おい。どうしたんだ?」

「…………」


 やはり答えはない。

 ただ立ち尽くして、虚空に茫漠(ぼうばく)とした視線を向けている。


「行くぞ。なぁ」

「…………」


 また何も言わず、セレスはじっとしている。

 俺はそんな掴みどころのない様子に歯噛みした。


 こうしていれば、魔物に襲われた時に逃げることもできない。

 そして魔物と戦えば、クロードたちに捕捉されるかもしれない。

 だから俺は焦りつつ呼びかけるが、それでもセレスは何も言わない。


「セレス?」

「…………」


 不意に、苛立たしさが込み上げてくる。


「……動けよ。……おい」


 何も答えないセレス。俺は頭がどうにかなりそうだった。


「なんでだよ。なんなんだよ、お前は……!!」


 かつて俺に微笑みかけた少女と、目の前の異形が同じモノだとは最早認められなかった。

 何を考えているのか分からない。呟きが、何を訴えているのか理解できない。あれは誰だ。なんなんだ。


「ふざけんじゃねぇ。返せ……! 返せよ、この化物が!!」


 セレスの……いや、異形の首元に掴みかかった。

 するといっそ呆気ないほどに倒れて、俺はその体を丁度上から押さえつけるような姿勢になる。


「なんとか言ってみろよ……! おい、なんか言え! 頼むから……ちゃんと……喋ってくれ……!!」


 掴みかかった腕は際限なく力を増す。

 やがては喉元をぎりぎりと締め付けるほどになって、怪物がセレスに似た声で苦しげな息を漏らす。

 それが許せなくて、俺はまた力を込める。


「ふざけるな……! 頼むから……あの子を……返してくれ……!」


 また力を込める。

 そしていよいよ絞め殺さんばかりにまでなったその時、異形が俺に触手を伸ばしてくる。


「…………」


 防衛行動を、つまりは俺を、殺すつもりなのか。

 だがもうそれでも構わなかった。もう死んだ方がマシだった。

 この世界は地獄だ。

 だから俺は触手を受け入れ、抗うことはしない。

 触手は俺の顔に触れた。

 そしてそのまま頭部を八つ裂きにするかと思われた一筋は、いっそ優しいとまで言える手付きで俺の目元に触れる。


「…………セレス?」


 締め上げていた手から、思わず力が抜けた。


 何故か? 

 それは、涙が流れたからだ。


 触手が俺の目頭に触れると、自分でも気が付かないまま涙を浮かべていた俺は、それを溢れさせた。


「すまない。俺は……」


 生まれて初めて泣いた。いや、セレスが泣かせてくれたのだ。

 我に返る。後ずさり、腰を抜かす。俺は、なんということをしたのだ。


「…………」


 セレスが起き上がる。いつもの呟きが口をつき動かしている。

 けれど、その視線にはわずかな意思が感じられた。

 そんな姿を見上げて、それから俺は視線を辿る。

 するとそこには、夜に紛れて今まで見えなかったが白く枯れた花畑があった。


 本当に小さな花畑。

 白く枯れて、草と見紛うばかりの。

 夜闇に隠され、夜目が利く俺やセレスでなければ見えないであろうほどの。


「……すまない」


 その事実に思い当たり、俺はまた涙を流す。

 腰を上げて、そんな資格はないと知りつつもセレスを抱き寄せた。


「……悪かった。ごめん、ごめんな」


 嗚咽が漏れる。背中を触手が這う。

 そうか。彼女は、俺と共に花を見たかったのだ。

 ただそのために、足を止めたのだ。


 ……変わってしまったのはむしろ俺の方だった。

 彼女はまだ、そこにいるのに。

 いや、いなくたってそばにいると約束したはずなのに。


「どうなっても側にいるって言ったのにな。俺、馬鹿だな。ごめんな。痛かっただろ?」

「…………」


 セレスは何も答えなかったが、もう辛いとは思わなかった。


 二人で寄り添い、枯れ果てた花を見る。

 そしてどれだけの時が経っただろうか。

 やがてひとりでに踵を返し、のろのろと野営地に向けて歩き始めたセレスの背を追う。

 ……彼女は戻るつもりなのだろう。

 もうクロードに好き勝手させるつもりこそないが、俺は彼女に従おうと思った。


「……ごめんな」


 謝っても、セレスはなんの反応も返さない。


 けれどそれで構わない。

 俺は絶対に、セレスと生きて帰る。

 この戦役を終わらせ、共に生きるのだ。


 たとえ彼女が、自らを失ったとしても。


 ―――


 魔物の勢力圏の最奥。

 ウルスラの領域は、これまでと打って変わって奇怪なほどに晴れ渡っていた。


 実に三十日ぶりに澄んだ夜空の下に身を置いて、決戦を前にした兵たちの士気は否応なしに高ぶっている。

 俺はそんな彼らが壊れたようにはしゃぐ姿を、セレスと共に遠巻きにしていた。


「…………」


 余剰物資を費やして。

 ……恐らくは戦死するであろう分のそれも多少は計算に入れて、彼らは今最後の宴に興じている。

 あんなでも慕われることはあるのかザリドは兵士たちに囲まれなにやら語っているようだった。

 クロードとアリシアは人の輪から離れていたが、二人でなにか話しているように見えた。


「なぁセレス。あんた、食わないのか?」


 俺は大きなパンをかじりながらセレスに語りかける。

 俺たちは二人して天幕に背をもたれさせ、座り込んでいた。

 そしてこの際だからと色々と取ってきてセレスと共に食べようと思ったのだが、どうも彼女は食が進まないようだった。

 ……まぁ、こうなってからのセレスはほぼ食事をすることもなかったのだが。


「でも、体調は良さそうだな」

「…………」


 側に置いてやった干し肉には目もくれず、ぼそぼそと呟き続けるセレス。

 俺は彼女に語りかけて、それから横顔に視線を向ける。

 そう、この晴れ渡った領域に入ってからというものの、セレスの顔色はほんの少し血色を取り戻している。

 かく言う俺も妙に調子が良かったりもするが、まぁそっちは瑣末事(さまつごと)だ。


「……生きて、帰れたらいいんだが」


 一人でも欠ければ意味がない。

 俺が死んででもセレスを生かせればいい、というような単純な戦いではなかった。

 何故なら俺がいなければセレスはきっと化物として扱われ、生きてはいけない。

 そしてセレスがいなくなれば、俺ももう生きるつもりはなかったからだ。


「あんたも、頑張れよ。やっと最後の大仕事なんだ。……なぁ?」


 そんな俺の言葉に、セレスは何も答えない。

 俺は決戦に向け言葉を交わす兵士たちを、ほんの少しだけ恨めしいと思った。


 ―――


 ウルスラの領域を進むと、これまでとは桁の違う数の魔物がいた。

 こちらの兵士とそれから俺は、魔物の大群をクロードたちが突破する手助けをし、さらに彼らが魔王を討つまでそれを押し留めるのが役目だった。

 そして三人の使徒と……その欺瞞には吐き気すらするが、『聖女』が、すなわちセレスが魔王を討伐する。


 俺はセレスの側にいられないのは不安だったが、背後を守る軍勢に不足があるのもまた明らかだった。

 だからそれが彼女を守ることにも繋がると信じて、俺は最後の戦いに身を投じていた。


 星と月が眩いばかりに輝き、荒れ果てた大地を照らしている。

 そしてそんな荘厳な光の下、兵士たちは虐殺にも近い形で嬲り殺されていた。


 俺は泥を操り、今しがた三人ほど兵士を潰した泥の巨人の腹を穿つ。

 そして寄生虫を増殖、さらに成長させその体を掌握。

 適当に暴れさせた巨人にその場を任せ走った。


「……あの蟲は、喰っといてよかったな」


 と、そこで騎士鎧のような泥の塊が打ちかかってくる。俺は外殻に覆われた右腕で弾いた。

 そしてたたらを踏んだ隙を逃さず、右手を分厚い刃に変えがらんどうの鎧を叩き潰す。


「…………」


 圧殺され、泥の飛沫が跳ねた。ここの魔物は強いが、俺も不思議なほどに調子が良い。これもあるいは、魔王の側に近づいたからなのかもしれないが。


 そんなことを刹那考え、俺はまた戦いに戻る。

 駆けてくる四足のキメラをすれ違いざまに三体バラして、曲剣に変えた左腕で奇怪な鳥のような泥を唐竹割りにする。

 さらに飛びかかってきた人型の泥、グールの腹を鋭く尖らせた足で蹴り刻んだ。

 それから腕を、足を、体のあらゆる部位を武器に変えつつ俺は周囲の魔物と渡り合う。

 だが、いくらなんでもキリがなさすぎた。

 圧倒的物量の差により、一人二人と味方の兵士は倒れて行く。

 そしてまたしばらく経つと、今度は誰も周囲に見えなくなる。

 人は消え、けれど魔物は留まらない。

 多勢を相手に少しずつ傷を負った。


 動きが鈍り、やがて腹をブチ抜かれる。

 腕が焼き焦がされる。

 右足が裂けて、頭が砕けるほどに打ちつけられた。


 けれど、それでも。

 俺は視界を埋め尽くすような泥の群れの中、死にもの狂いで刃を振り続けた。


 ―――


 目を覚ますと、まず星空が目に入った。

 砂金を闇にばら撒いたような、あるいはそれすら遥かに超えるような輝き。

 眩しいばかりの光景にほんのわずか目を細め、倒れていた俺は腕を這わせる。


「っ……」


 腹が熱い。熱くて仕方がない。腕が震えて、右足の感覚がない。

 どうも、無茶をしすぎたらしい。

 魔人化も解け、人の姿になった俺は手をついてなんとか立ち上がる。


「……セレス」


 そうだ、セレスだ。セレスはどうなった。

 思い当たり、それから俺はふらつく体を動かし始める。


「クソ……動けよ、畜生……」


 魔王の存在を、俺の中の魔物は確かに感じ取っている。

 言うことを聞かない体を無理矢理に動かし、俺はいまだ戦っているであろうセレスたちの元へと急ぐ。


「…………」


 思えば、長い旅になった。

 他人に言わせればたった一年、なのかもしれない。でも俺にとってそれは、本当に長かったのだ。


『もし、そこのお人』


 そんな声が、懐かしく思い出される。もうずっと昔のことのように。


「……っ」


 足がもつれて倒れた。俺は手をついて、少し血を吐く。また立ち上がる。


『どうも、ただいまです』


 優しくされたことなんてなかった。

 阻むもの全て壊してしまえば、どんな獣道もただの道と変わらないと。

 そんなふうに強がって、俺は生きてきた。


「……いてぇ」


 軋む体を、追憶で支える。

 死屍累々の光景を、棒のような足で横切る。


『私、は……神様のために……』


 苦痛に耐え、憔悴しながらもウェアウルフに立ち向かったセレスを思い出す。


 思えばあんたはいつもそれだったな。

 自分のことなんか、少しも気にしちゃいないんだ。

 でもこの戦いが終わったら、きっともう少し上等な生き方ができるだろう。

 もう辛い思いはしなくていいのだ。

 好きなことだけ考えて、日々を過ごせるのだ。


『そうですねぇ。花、踏まないでほしいんですもんね? ふふふ』


 楽しそうに笑っていた、セレスの姿を思い出す。


 ああ、あの時頬なんかつねらなきゃよかったな。

 こんなことになるんなら、恥ずかしがらずに一緒に笑ってやればよかった。

 もう二度と笑顔なんか見ることができないかもしれないのに。

 なんであの時笑わせてやれなかったんだろう。

 俺はいつも後悔ばかりだ。


 だけど。

 もうセレスがあんな風に笑えなくても、誰かに石を投げられることになっても、それでも俺はきっと、もう一度あそこに連れて行く。

 彼女が笑えないなら、俺が笑うのだ。

 つられて笑ってしまうくらい、たくさん笑ってセレスの側にいよう。


『…………』


 それからまぶたの裏に浮かぶのは、夜の荒野にぐったりと投げ出された姿。

 つい最近のことだ。あの時俺は、彼女を傷つけてしまった。

 どんなことがあっても、最後まで側にいると。

 確かにそう誓ったはずなのに。


「……ごめんな」


 呟くと、視界がぼやけた。

 どうしようもない馬鹿だ、俺は。

 セレスは俺に生きる理由をくれたのに、俺は彼女のためになにもできなかった。

 でもだからこそこれからは、今度こそ俺が彼女を助けるのだ。

 そのために必ず二人で生きて帰るのだ。


 意思を秘めて歩みを重ねる。

 そうして俺はようやくそこにたどり着く。


「…………あれが」


 そこにいたのは、確かに魔王ウルスラらしかった。

 泥ではない、生物をこね合わせたような姿。

 白い鳥の体、蠢く蜘蛛の下半身。

 本来首があるべき場所には、干からびた人間の頭部のようなものが据えられている。

 あまりに露悪的でかつ生物的な姿は、この世に満ちる神の呪縛をねじ伏せて本来の形を取り戻していた。


 そして対するのは完全に魔王と化したセレス。

 それからクロードとザリド、アリシアだ。

 矢面に立つのはやはりセレスで、虚空に浮かび出た黒の文字、そこから放たれる嵐のような攻撃を引き裂かれつつも耐えている。

 クロードは時折閃光を放ち後衛に徹しつつも、前に出て一撃離脱を繰り返すザリドが負傷すればその傷を癒やしている。

 またアリシアも炎を放ち、ウルスラを苛烈に攻め立てていた。


「……『身体変成』」


 まじないを唱えて、俺はなんとか右腕だけ刃に変える。

 形作られたそれは刃こぼれして酷いものだったが、恐らく突き立てれば貫けるはずだ。

 クロードたちは、あるいはウルスラも激戦の中俺の存在には気がついていない。

 密かに這い寄れば、仕留めることは叶わずも戦局を傾ける一手にはなるかもしれない。


「…………」


 最後の力を振り絞り、地を蹴った。

 近づける限界まで気がつかれぬように息を潜めて、やがて俺はウルスラに迫り……転移した。

 干からびた頭部の上、すなわち死角たる頭上に現れた俺は右腕の刃をヤツの肩口に深く深く突き立てる。


「…………ッ!」


 本来なら頭を潰したかったが、転移の影響でわずかに混乱し狙いが逸れた。

 突き立てた刃に左手を添え、ウルスラの肩にしがみつく。

 そして右手に力を込め首に向けて捻ろうとした。

 だがその一撃が致命に至る前にウルスラが奇怪な声を上げた。


「なっ……!」


 戦慄した。

 俺の右腕が、灰になり始めていた。

 いや右腕だけではない。


 全身が、少しずつ灰に変わっていく。


「今だ、やれ! セレス!!!」


 混乱する意識の中、クロードのそんな声が聞こえた。

 すると盾役に徹していたセレスがウルスラに肉薄する。


「おい……! 来るな!!」


 俺にはすでに逃げるだけの余力もないが、それでもこの唄の脅威は分かった。

 だからそう伝えたのだが、クロードの指示によるものかセレスは足を止めない。

 おびただしい数の触手を繰り出し、ウルスラへと襲いかかる。


「セレス……」


 彼女の死を予感し、焦燥に歯噛みする。だが絶望している場合ではない。セレスを助けなければ。


「死……ね……!」


 溶けていく体。もう右足は半ばまで灰になり、左腕の指はほとんど残っていない。

 けれどまだ刃たる右腕は動くのだ。

 腕を捻り、さらに首へと深く食い込ませる。


「―――――っ!」


 すると一瞬ウルスラの声が鈍り、セレスの触手がたった一筋(ひとすじ)灰の唄を突破する。

 しかし……彼女の触手はウルスラを貫かなかった。


「セレス……?」


 ウルスラの背にへばりついた、俺の体を弾き飛ばしたのだ。


「おい! セレス!!」


 それからすぐに灰の唄が紡がれる。

 セレスは徐々に溶けていく。

 そしてそう待たずに灰になった。


「馬鹿野郎……! 殺せただろう……!!」


 セレスは判断を誤った。

 俺とセレスが二人で生還するための大きな機会を手放した。

 だがあんなになっても彼女が俺を救おうとしたのだという事実に、ひび割れた心がそれでも痛む。


「なにやってんだ……あんたは……!!」


 セレスが復活し、また溶かされる。

 さらに蘇る。死ぬ。蘇る。それはまるで死ぬために蘇っているかのような。

 そしてセレスが五度目の死を迎えた時、クロードが緊迫した声を上げた。


「ザリド、アリシア、準備はいいな?」


 準備?

 俺は訝しむが、すぐにその言葉の意味は分かった。

 凄まじい極光が、星を霞ませるような紅蓮が、地を削り尽くすような巨大な風の刃が、それぞれ放たれる。


 そしてそれらは灰の歌に一瞬だけ押し止められ、けれど最後にはウルスラの体をセレスも巻き込みつつ消し飛ばした。

 轟音が爆ぜて、砂煙が巻き起こる。


「クロード……!」


 セレスを捨て石に使ったのだと理解し、怒りが湧き上がる。

 最後まであいつらは一度としてセレスを人間として扱わなかった。

 右腕の刃を地に突き立て、すぐに立ち上がろうとする。

 しかし右足はすでに消えていて、左足もとてもではないが歩けるような状態ではなかった。

 痛みだけを残し、俺は無様に転んで倒れる。

 そして地に伏せたまま、俺は祈るように砂煙の向こうに目を凝らした。

 するとほとんど原型を失い無残な死体になったウルスラと、弱々しくも立ち上がるセレスが見えた。


「…………!」


 言葉も出なかった。セレスは生きていた。

 生きているのならば、もうそれだけでよかった。


 刃を腕に戻し、俺は必死にセレスの元へと這い寄ろうとする。

 するとクロードがセレスに……いや、ウルスラにか。

 歩み寄り、手に持った輝かしい剣を刺すのが見えた。


 恐らくそれは聖剣だろう。


 魔王の死体に聖剣を突き立て魂を封じることで戦役は終わりを迎えるのだから。

 ほどなくしてウルスラを封じたクロードは、やがて踵を返し死体に背を向ける。



 そして聖剣を腰の鞘に収めつつ、無造作にセレスへと手の平を向けて……閃光を放った。


「なにを……!」


 何が起きているのか、理解ができなかった。

 胸を貫かれたセレスが力なく倒れる。

 クロードは容赦なく追い打ちを仕掛けた。

 何発も何発も閃光を放ち、その度にセレスの体がびくりと跳ねる。


「なにしてる……! やめろ……やめてくれ……! ……クロードッ!!!」


 俺がその足元に辿り着いた時には、もう全てが終わっていた。

 穴だらけにされたセレスは、再生する様子もなくかすかに痙攣するばかりになっていた。

 もうこの様子では長くは持たないだろう。


「なんで……なんで、殺した……!」


 クロードの靴の先に、倒れ込むようにして喰らいつく。


「てめぇ……! なんで……! 殺す、理由なんて……!」


 左足に爪を立てる俺を、クロードは害虫でも見るような目で見下ろしてきた。

 そして何も言わずに俺の手を振りほどき、背を向けた。


「なんで、なんでだ……!!」


 遠ざかる背中を死にもの狂いで追う。

 するとその時、左腕に激痛が走った。


「――テメェには分かんねぇかもしれねぇがな、あるんだよ、理由は」

「がっ……あっ……」


 左腕に目をやる。

 するとそこには巨大な剣が突き立てられている。

 腕を落とされた。


「気に食わなかったんだ、ずっとな」


 吐き捨てるような言葉と共にさらに剣は突き立てられる。

 左の脇腹を大きく抉り、しかし両断される程には深くない。

 その一撃には俺をいたぶろうという奴の意思が表れていた。


「ザリ……ド……!」

「イラつく目だな。……やっぱ今殺すか」


 苛立たしげに言ってザリドが剣を振り上げた時、クロードが振り返った。


「……おい、もうどうでもいいだろう。そいつもじきに死ぬ」

「刻みたいなら持ち帰ってやってくれる? あたし、もう帰りたいの」


 アリシアもクロードに同調し、それにザリドは顔をしかめる。


「……誰が持ち帰るか。こんなの」


 つまらなさそうに言って、奴は俺の目の前に唾を吐き先に行った二人に並び歩き始めた。


「……ねぇ、クロード。セレスの方は封印しなくていいの?」

「あれはすでにこの世界の生物の体に定着しているからな。あの状態で死ねば、最早復活はしない」

「へー。でもならなんでわざわざ浄化させるんだ? セレスみたいなの用意して処理しちまえば確実じゃねぇか」

「俺の知ったことではないが、神は浄化に固執しているフシがある。……まぁ、どうでもいい話だ」


 そんな言葉を交わし、やがて奴らの姿は夜の向こうに消える。


「待て……! クソ……! クソが……!!」


 体がうまく動かない。

 胸の内には痛いほどに怨嗟が渦巻いていた。

 何故、どうしてこんなことに。殺す必要などなかった。

 どんな理由があったって、少なくとも俺にとってセレスは生きていなければならない人間だったのだ。

 それを何故、こんな形で。


「セレス……セレ、ス……!!」


 まだ動く右腕を這わせて、なんとかセレスの側に行く。

 そして仰向けに倒れたその体の側に膝を立て、俺は彼女に呼びかけた。


「……ごめんな……ごめ、んな……」


 切れ切れの言葉で彼女に詫び続ける。


 守れなかった。何もできなかった。

 そして憎かった。ひたすらに憎かった。

 名も知らぬ全ての人々の幸福のために生きた彼女を、最低の形で裏切った世界が憎かった。


 死ね、人は皆死ね。世界など滅べ。

 この地平の果てまで呪われてしまえばいい。


「セレス、すまない」


 やはりあの時、いやずっと前にだ。

 彼女を連れて逃げるべきだったのだ。そうしておけば、こんなことにはならなかったのだ。

 変わり果てた手を……触手を握る。すると、力なく横たわっていたセレスがほんの少し身じろぎをした。


「ロク……さん」

「セレス?」


 信じがたいことだった。彼女が言葉を話した。

 最後に言葉を交わしたのは、もう随分と前のことだった。


「分かるのか? 俺が?」

「当たり前じゃ、ない、ですか……」


 かすれた声。けれどそれは確かにセレスだった。


「星が、きれいですねぇ」


 空を見上げる。確かに空は美しくて、だから俺は彼女の言葉に頷く。


「ああ。……そうだな」


 触手が俺の頬に伸ばされる。

 そしていつかのように目頭に触れた。


「セレス、なにを……」

「私がいなくなった後に、泣いてほしくはないですからね」


 目頭が押されて、涙が溢れる。

 もう限界だった。

 俺は堰を切ったように嗚咽を漏らしていた。


「ごめんな、俺のせいだ……」

「ロク、さん……」

「俺が馬鹿だったから、こんなことに……」

「……いいんです。あなた……そばに、いてくれたじゃ……ないですか」

「そばに……?」


 思わず聞き返す。そしてあまりのことに天を仰いだ。


「そんなこと……そんなことで……! 俺はただの化物だ! あんたには、あんたは……もっと、幸せに……!」

「そんなことで、よかったんですよ」


 はっとしてセレスの方に向き直る。

 もうほとんど顔は触手に成り代わり、わからなくなってしまった表情がそれでも微笑んでいることが理解できた。

 彼女は本気で、そう言っているのだ。


「……覚えていますか?」


 穏やかな声でセレスが語りかけてくる。

 俺は呼吸すら忘れてその言葉を聞いた。


「……ロクさんが、来てくれた日。あの時私は……あなたが明日にはもういなくなってるものだと……そう思っていたんです」


 俺が夜中、セレスが寝ている間に逃げると思っていたのだと。

 そんなことを言われたから俺はなんとか笑いとばしてやろうとする。

 でも俺が逃げたら『三回殺す』と言われていたことを思うと上手くできなくて、結局泣き顔のまま彼女の話を聞いた。


「本当なら逃してあげるべきでしたから……仕方ないことだと思って……ですがそれでも……いてくれたらいいのにと、祈ってしまったりも……したんです」


 最初の夜に聞いた、遠くの虫の声のように小さな祈りを思い出す。

 かつての俺は思いもしなかった。彼女がそんな気持ちで祈っていただなんて。

 知らなかった。きっと心細かっただろうに、彼女は俺の前ではそんな様子をおくびにも出さなかったから。


「でも起きたらあなたが、本当に、私のそばに、いてくれて。街を一緒に歩いて……ご飯を食べて……。一人でしたから。私もう……それが、嬉しくって……だから、ずっと……幸せだったんですよ」

「…………」


 俺はあの時面倒だ面倒だと思っていたのに。

 彼女にとっては本当にかけがえのない時間だったのだ。


 今にして想いを知り胸が締め付けられる。苦しくてやるせなくて叫びがせり上げてくる。

 辛いのは彼女なのに、涙が、嗚咽がどうしても止まってくれない。


「本当に、夢みたいに……幸せだったんです。美味しいものを、一緒に食べて。花も見に行って。あなたはずっと……私を気遣ってくれて。……ロクさん。これで良かったんです、私は……」

「やめろ……やめてくれ……」


 意味もなく首を振る。心が砕けてしまいそうだった。

 こうまで裏切られてなお、彼女は清らかだった。

 そしてそれはどうしようもない話だった。


 たった一人、彼女は世界のために犠牲になったのだ。

 恨み言一つ漏らすことさえせずに。

 俺はそんな苦しい犠牲の上にある世界を許せなかった。

 どうして許せようか。まして知らぬ顔をして生きていくことなどなにがあっても容認できなかった。


「俺は許さない。あんたを殺した奴らを、絶対に……!!」

「ロク、さん……」


 歯を食いしばり、憤るとセレスが困ったような息を漏らす。

 俺はそれを見て、彼女と俺の間にある決定的な食い違いを悟る。


 ああ彼女には分からないのだ。俺のような、どうしようもない人間の気持ちが。

 彼女にはできないのだ。人を憎むことなど。


 心の底から絶望した。

 悔しくて悔しくて俯いたまま歯を食いしばる俺をよそに、困った息を途絶えさせ不意にセレスが語りかけてくる。


「あの。一つ、お願いがあるんです」

「お願い……?」


 唐突に漏らされたそんな言葉に、顔を上げた俺はかすかな困惑を覚えつつも先を促した。


「俺は、なにをすればいい?」

「それは…………」


 刹那逡巡し、強い意志が滲む声でセレスは続ける。


「……私を、食べてくれませんか?」


 それは、全く予期していなかった言葉だった。


「なんだと……?」


 思わず手を離した。何を言っているんだ、セレスは。


「私の仇を、討ってくれるのでしょう?」


 力が足りないと言うのか? 分からない。彼女は何が言いたいんだ。


「でも……! 今の俺でも、一人ずつなら……!」

「そうじゃないんです」


 答えた声は、震えていた。


「そうじゃ、ないんです。説明する時間はありません。でも……あなたが討つべき仇は……」


 セレスが苦しげな息を漏らす。

 そして口の端から血を流しながらもなんとか言葉を継ぐ。


「神です」

「神……?」

「はい。私たちが神だと呼ぶ邪神は……魔王だと呼ぶそれから、本当に多くのものを奪ったのです」


 彼女が何を言っているのか分からなかった。何一つとして理解できない。


「どういうことだ……?」

「魔王は……邪神は、裏切り者の神が逃れた世界に至るため私たちの世界に来ました。ローランの雷の法石こそが、唯一そこに通じる道ですから」

「分かるように言ってくれ……! 最後なんだぞ……!!」


 セレスの頬に、溢れ出た俺の涙が落ちる。

 それに一瞬息を止めて、それから彼女は涙に濡れた弱々しい声を漏らした。


「……ねぇ、ロクさん」

「なんだ?」

「ごめんなさい」


 泣きながらそんなことを言われて、俺の胸がまた軋む。


「……あんたな。ほんと……アホだよな」


 彼女がなにを謝ると言うのか。最後まで、どうしようもないくらいのお人好しだ。


「ロクさん、お願いです」

「…………」

「神も、魔王も……全部、全部」


 それからセレスは、深い深い最後の息で喉を鳴らす。


「……ぜんぶ、ぶっこわして」


 初めてかすかな怒りを感じさせたその声に、俺は長い沈黙の後頷いた。


「…………分かった」


 セレスの望みがそれだというのなら、俺に否(いな)やはなかった。

 だから深く頷いてそう答えると、セレスは小さく微笑んで動かなくなる。

 数ある触手をぴくりともそよがせず、赤い瞳は光を失う。


「セレス?」


 呼びかける。答えはない。


「セレス……?」


 彼女が消えて、恐ろしい静寂の中俺は一人残された。

 がらんどうの荒野。星が照らす無の大地に一人。

 俺はこれから、どうすればいい?

 ……いや、決まっている。彼女の願いを叶えなければ。

 しかし、それならば。


「クソ……!」


 セレスの触手を握りしめ唇を噛む。

 俺はできるのか? それを?

 たった一人の大切な人の亡骸を喰らうのか?

 そうだ。セレスを喰うなど俺には、とても。

 ……しかし。


「セレス……」


 苦悩する。

 ウルスラの死骸では駄目だった。

 既にウルスラの力の根源、その魂は聖剣により持ち去られている。

 屍にしばし残留する魂を、俺は肉体ごと喰らう。

 それでこそ力が手に入る。


 だが。


「俺は……!」


 それはセレスの魂を喰らい、死後の安寧すら奪うことに他ならなかった。


「俺は!!」


 震える声で叫び、右の拳を大地に叩きつけた。

 ……俺が喰らった魂は、既に数百に達する。

 エステル=アンと同化したセレスの自我が、無数の怨嗟が渦巻く俺の中で耐えられるとは思えなかった。


「…………」


 妙にはっきりと、呼吸の音が聞こえる。


「…………!」


 選ぶのか、俺は、それを。

 触手を握り締める。

 握り締める。

 握り締める。


 口に、近づけた。


「セレス……ごめんな……」


 食いついた。泥の味■した。溢れた血が冷たい。気が狂いそうだった。

 俺は『まっすぐな心のロク』などではなかった。

 俺はやはりろくでなしのクズだったのだ。


「セレス……」


 口に入れる。咀嚼する。繰り返す。愛しい彼女を呑み込む。

 この世界はどう■している。

 名誉も尊厳も……命すら失った彼女から、安らかな眠りをも取り上げるのだから。

 そしてそれを為すのは、他ならぬ俺なのだから。

 運命を憎悪し■。だがそれ以上に■いのは、無力な自分自身だった。


「っは……」


 自己嫌悪にえづく。今ならまだ、引き返せる。

 口元を拭う。触手の奥、細■肩を手繰り寄せた。

 少しずつエ■テルの、あるいは俺の狂気が思■を蝕む。

 ■している。


「…………」


 無心に喰ら■続け■。やがて失っ■はずの左腕が、触■に変わっていることに■がつく。

 愛■て■る。

 彼女を■らう。余すことなく■に収める。

 ■ては……全ての、■は、きっと、もうお■しい。

 裏切■者を殺■。


「ぇ……せ……ら……の……」


 知らず、滅■な呟きが■を衝き動かす。視■の中に何か、揺ら■くものが映り■む。

 殺■が湧き上■る。あ■■るものを■う。

 死■■ね■ね。


「ぁ……」


 最■作業の■うに、俺はそれを■に入れる。■い。■が裂■る。

 ■■狂う。星■■れ■。


「セ、レ……ス」


 最■に頭を■らおうと■て、目■合った。

 吐き■が■た。苦■■。


 愛■■いる。

 ■■て■る。

 ■し■■■。

 ■■■■■。

 ■■■■■。


 ■■■、■■。


 ■■■■■■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■。■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■■■。

 ■■■。■■■■■。



 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。





























 彼女の願いを、叶えなければ。







 星の記憶・完


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