07_Lightning surge
「地図……で、いいんだよね?」
首を傾げながら、広げられた紙の横に座った彩乃が訊ねる。
辻本は、そうだと頷きながら、私に。
「これ、見てると何か思い出さないか」
期待と自信に満ちた目を向けられ、私は座布団から身を乗り出してじっと地図を見つめる。
鉛筆とボールペン、クレヨンとカラフルなサインペン、全く統一感のない画材で描かれたそれには、確かに見覚えがあった。見ていると、カメラのピントが合うように、次第に記憶が像を結んでいく。
「……私たちが描いた……宝の地図か!」
「正解!」
「え、どゆこと?」
嬉しそうな私たちの声に、彩乃の慌てた声が重なった。
私は思い出したばかりの記憶を説明する。
「子供の頃にさ、この町の地図を作ろう、みたいな宿題なかった?」
「あったかも知れないけど……ぼくはできなかったと思う。病院にいたし」
「ああ、そうか。とりあえず小学校の頃、そういうのがあったんだよ」
「へー、コレはその宿題の地図なの?」
ただの小学校の思い出とも取れる私の返事に、彩乃の頭には疑問符が浮かんでいるようだった。
「違うんだ、これは、そういうのがあったよなって話題から生まれたやつ。私とこいつと朱音ちゃんと有香里ちゃん、四人になってから描いた地図なんだよ」
「朱音が引っ越してきてすぐんとき、こっちのこと良く分からないって言うから紹介のつもりで描いたんだよ。どうせだから冒険にしようって、宝の地図みたいにして」
「ふうん? けど、この町の地図なら役場とかにもあるやつで分かるんじゃないの? しかも七年より前のやつでしょ?」
「おっしゃる通り」
辻本はうんうんと頷きながら、私たちの顔を交互に見る。
「けど、役場の地図には載ってないものも描いてある」
その指が、折り目のついた地図の一か所を指し示した。
「……『ゆかりのいえ』」
平仮名で書かれた文字を、彩乃が読み上げる。
「ゆかり……お姉ちゃんの友達の……?」
「ああ。行方不明で、俺たちの中では海外に行ったことになってる仲本有香里の家が、ここにあったんだ」
大きく見開かれた彩乃の目が、ゆっくりと瞬く。
普通の町の地図に個人の家は当然載っていない。役場で調べるには証明書や様々な手続きが要ることだろう。
そんな煩雑な手順をすっ飛ばし、朱音の友人であり、同じように行方不明になった少女の家の場所が判明した。辻本が鼻高々に差し出すのも頷ける大手柄の品だ。家が既に空き家でも、他の誰かが住んでいても、何某かの情報が得られるに違いない。
「明日の行き先、決まったね」
言った彩乃の顔には、微かな不安と確かな期待が浮かんでいた。
辻本が帰った後、私たちは母屋へ移動して日中の汗を流し、腹ペコの胃袋に夕食を流し込む。
食事の席で、彩乃は当然のように質問責めだった。
何しろ観光地でもない小さな町に、わざわざ都会から泊まり込みで来るような若者である。事情を知らなければ珍しいことこの上ない。
町を訪れた動機から始まり、都会や大学での私の様子、そして『嘘設定』の勉強内容へ話題が移りかけたところで、彩乃が笑顔のままトピックを変える。やはり彼女には演技の才能があるように見えて仕方がない。
「それより、ここのお祭や神様について、いろいろ聞いても良いですか? ご家族もそういうの詳しいってセンパイから聞いたんですけど」
「あら、やっぱり話してたのね」
昼間に町の案内を断られた母の美絵が、拗ねたように私を軽く睨む。
「それはまあ、話題にはどうやったって出るし」
「じゃあやっぱり私が案内すればよかった」
「ああ、すみません。こういうのは丸々案内されるより自分の足で聞き込むのが、特に学生のうちは大事だって先生の教えで」
母子の押し問答になりそうな状況を察し、彩乃が慌てて割って入った。勿論、そんな先生は存在しないので、誤魔化しの空事だ。
「それは……確かにそうね。困ったときに手を貸すのが大人の役目。良いことを言う先生だわ」
咄嗟の嘘に納得し、母が引き下がる。私はほっとして内心で溜息を吐いた。
話題は更に転がって行く。
「今日は神社に行ってきたのよね? じゃあ三宅さんにはお会いした?」
「はい、神主さんの方ですよね。ええと、町内会の会長さんと役場の人と、お祭の打ち合わせをしているみたいでした」
「松井さんと吉田さん? 確かにお三方が揃っていたなら話を聞くには打ってつけだわ」
「そうなんですね。そこで、お祭のこともですけど、山では幽霊が出たり『神隠し』があったり、不思議なことが昔から……結構最近まで起こってたとか」
彩乃が振った話題に、私は夕食を掻き込みながら耳を聳てる。
内容が気になるだけでなく、緊張もしていた。行方不明事件を家族がどう認識しているか、その片鱗が飛び出すかも知れなかったからだ。
「確かにそうね。私は体験したことないけれど、不思議なことが起こるって話は俊樹さんやお父さんから聞いたわ」
俊樹、とは私の父のことである。
そうよね、と視線を向けられた父は、茶碗を片手に頷いた。
「あの山には何かが居る。そういう空気があるところだ」
「空気……それは何となく分かりますね」
彩乃の呟きと共に私も思い返す。
鳥居を潜ったあのときの、脳に涼しい風が吹き込むような感覚。彼女はきっと、様々な神社であの感覚を得ていたのだろう。記憶の靄を、籠った熱を吹き払う、しんとした空気を。
都会から来た少女から同意されるとは思わなかったらしく、父は一瞬箸を動かす手を止めた。
父が何か発するより先に、母は嬉しそうに身を乗り出す。
「瑞原さんはそういうの分かる人なの?」
「え、いや、何となくです」
「そうなの? 俊樹さんとお父さん……あ、ええと、この子のお祖父さんね? そういうの分かる人で、私は分からない人なんだけど。もしかして、不思議なことが起こるって体験、もうしちゃったとか? 私は一回もなくて……」
フレンドリーな口調で捲し立てる母に、彩乃はただ首を横に振る。
その様子を見て、そう……と残念そうに腰を下ろす母。
「人からは聞くのよ。山の上で星が瞬いているとか、灯が燃えているとか、色のついた煙が見えるとか。それを見て山に入って行って戻ってこない人もいるって」
しょんぼりと語る母の話は、神社で聞いたことによく似ている。
「きっとね、何らかの自然現象だとは思うの。オーロラとか、不知火とか、セントエルモの火とか、あるでしょう? あれは空気の層とか、温度とか磁場とか、原因があって人の目に見える現象が生まれるの」
続く彼女なりの解説は、今までの流れからは唐突に思える科学的な内容だった。
「いつでも誰でも見られるものじゃないけれど、そこに出る理由はこの世に確かにある。山に神様がいる……それが昔の人にとっては理由だったんでしょうね」
「オーロラ……ですか。写真でしか見たことないですけど、すごくきれいだって聞きます」
「でしょう? とても美しいものだから、信仰を集めるに足る光景なのは納得できるわよね」
何とか話に食らいついていく彩乃と、同意を得て進めて行く母。
私は勿論、食事に夢中だった弟も、二人の会話に思わず手を止めた。
神仏やスピリチュアル的なものに精通しているのは知っていたが、思ったより現代的というか科学的というか――自分では考えもしなかった『理解』の方向だ。
彩乃はふむふむと頷いて。
「じゃあ……『神隠し』っていうのは、きれいな景色に魅了されて、山の中にふらふらーって入って行ってしまって、帰り道が分からなくなってしまった人、ってことですかね」
「その話も聞いたの? そうね、整備されてない山道なんて、昔の人だって苦労したでしょうし」
「だけど、それでも見ちゃったら入りたくなってしまうくらいって、すごいですよね」
「ね。私も見てみたいんだけど、そういう才能が全くなくて、とても残念」
「……見ても山には入るんじゃないぞ。町の人だけでなく、警察まで呼ぶことになる」
女性二人の盛り上がりに、父が眉間に皺を寄せて釘を刺す。
それに対し母は朗らかに言う。
「ここの『神隠し』はちゃんと戻ってくるのよ。お祭は寂しがりの神様のためにするっていうのは聞いたかしら? 寂しいとき、神様が気に入った人を手元に置くけれど、すぐに戻してくれるそうよ」
それも聞いた話だ。流石、夫婦揃って神主と長い付き合いなだけある。きっと今のような談義をよくしていたのだろう。
「『神隠し』にあった人が神様のところに居たときの、生活とか、どんななんでしょう? 言い伝えとかで残ってませんか?」
「それこそ三宅さんに聞いたり、役場の資料にあるかも知れないわ。私も耳にしたことはあるけど」
「え、どんな感じですか? 気になります! 先に聞いておきたいです」
「あらそう?」
母は少し嬉しそうにはにかんで。
「本当にちょっとなのだけどね? どうやら神様のところにいたときのことは忘れてしまうらしいの。周りの人もみんなね。帰ってきたときにいろいろ調べて、いなくなっていたってことが分かるそうなのだけど」
「忘れて……?」
「ええ、なんでも山の神様は人の記憶を失くす力があるそうで――」
私はこのとき、どんな顔をしていたのか。
視界には入らなかったが、彩乃もきっと同じ顔をしていたと確信できた。
食後、私は彩乃を離れまで送って行った。
戸を引き開けて部屋の明かりを点けながら小声で囁く。
「どう思う?」
「物的証拠はまだないままだね」
あまり明るくない電灯の下、彼女は私を睨むように見上げる。
「でも、すごくそれっぽい」
その大きな眼は、暗闇の猫のように爛々と輝いていた。
自室に戻り、電気も点けず暗がりの中、ベッドの上で転がる。
遭った者はそのときのことを忘れる『神隠し』。当人どころか、その周りの記憶をも奪う神様。
今日聞いたことだけでも、現況に一致する事象が多いように思える。山の神に魅入られ姿を消し、周囲の人の記憶からも消えてしまう。
だがその神様の力も、現代の戸籍を始めとする公的記録や、メールや電話の交信記録には及ばないのだろう。
暗い部屋で、私は携帯を開く。
数日間のメールの遣り取りが小さなディスプレイ上で光を放っている。
(……私たちが朱音や有香里のことや、一緒に過ごした小学校の頃のことを殆ど忘れているのは、彼女たちが『神隠し』に遭ったから)
その点については、状況が合致する。
けれど。
(遭難して葬式をやったという記憶が出てきた理由にはならない。朱音ちゃんのことは『死んでしまった』という形で今もみんな覚えている。私たち以外は……)
母の話を聞く限り、周囲の人間は『神隠し』に遭った者のことを忘れてしまう筈だ。朱音と有香里のことは、精々三人しか忘れていない。
(……でもまだ母さんからしか話を聞いていないしな。明日の調査でその辺ももっと詳しいこと分かると良いけど)
悶々とする理由はもう一つある。
語られた『神隠し』は、私が一時期彩乃を忘れてしまった状況にも酷似しているのだ。
しかし朱音と双子の姉妹である以外の相似性はない。場所は町から遠く離れた都会だったし、勿論山にも入っていない。記憶だって、思い出したのは彩乃が帰って来る前だ。
ただひどく似ていることが、胸に引っ掛かっている。
(明日もあちこち行くし、早く寝ないと……)
ベッドの上でうんと伸びをして、布団を被ろうとした、そのとき。
こつん。
窓ガラスに、何かが当たる音。
他に音があれば聞き逃してしまいそうな小さな音だったが、辛うじて気付き目を遣った。
暗い部屋に比べ、星明りで仄明るい空が四角く切り取られている。その向こうには誰もいない。
しかし再び、こつん、と小さな音がする。
同時に何かが、窓ガラスに当たったのも見えた。私は静かに身を起こし、足音を忍ばせ恐る恐る窓の外を覗く。
この一連の行動に、ひどく既視感を覚えながら。
(……?)
虫の音ばかりが響く、寝静まった家の庭に、人影が一つ。
(彩乃ちゃん?)
それは確かに彩乃だった。先程送ったときと同じ服で、家の、他の窓からは隠れているが私の部屋からは見える庭の一角に立ち、片手に何かを握って。
夜の暗さに慣れた目でも、少し遠い彼女の表情はよく分からなかったけれど。
見ている間に、少女は手にした何かを振りかぶり、私の部屋の窓めがけて投げつける。
何かは窓ガラスにぶつかって微かな音を立て、屋根の上に落ちて滑って行く。よく目を凝らせばそれは、全長が親指ほどもない小さな紙飛行機だった。
認識した途端、ひどくなる既視感。
(行かなくちゃ)
不意にそんな気持ちが湧く。窓を離れ、足音を殺して階下へ降りて庭に出る。
彼女はまだそこにいた。
「彩乃ちゃん」
声を掛けると少女はこちらを振り向く。その表情は儚く頼りなく、焦燥と不安が浮かんでいた。
まるでいつかの別れ際のように。
「ゆうくん」
呟いた呼称に身震いする。
彩乃は普段、私の名をそのまま呼ぶのに。
固まっていると、彼女がこちらへ踏み出した。
「やっとここまで戻ってこられた……」
縋るような、泣きそうな顔。声を潜めて囁きながら、ふらふらとこちらに歩み寄る。
「あたし、自分がどこにいるのか分からなくなって、大人はみんなにこにこしてるけど怖いの。頭がぼーっとして、家のこともみんなのことも忘れちゃいそうで……」
彩乃の一人称は『ぼく』だ。忘れる筈もない。
(じゃあ誰だっていうんだ)
思わず一歩、後退る。
そんな私の様子を見て、彼女は悲しそうに大きな目を瞬かせ、涙を堪えるように俯いた。
「早く家に帰って、逃げないとなんだけど、最後にみんなに会っておきたくて……ゆうくんと、つっくんと、有香里にも」
(逃げる? 最後? 有香里ちゃん?)
ただ当惑する私の前で、不意に少女は微笑む。まるで誰かに優しい言葉を掛けられたかのように。
そして横をすり抜けるように走り出し、擦れ違いざまに囁く。
「あたしのこと、わすれないでね――」
「!?」
はっと振り向くと、門の方へ駆けて行く途中で、彼女がぱたりと足を止めるのが見えた。
一瞬の静寂。夜闇に虫の声だけが鳴り響く。
「……あ……」
立ち止まった背中に、どちらの名を呼ぼうかと躊躇する。
言い淀んだ声に彼女は驚いたように振り向いた。
「あれ?」
きょとんと目を見開いて、恥ずかしそうにはにかむ。
「ぼく……もしかして寝ぼけてた?」
翌朝。
私たちはしっかり朝食を摂り町へと繰り出した。
空は晴れ渡っていたが、私の心は幼少期の記憶のように靄がかかっていた。
辻本の家へと向かう道すがら、私は昨夜のことを訊ねる。
「よく分かんない。気が付いたら外に居たんだよね……夢遊病とかは、言われたことないけど」
「本当に?」
「ウソ吐いてどうすんのさ。嘘は今のぼくの……誰かさんたちが考えてくれたワタクシの経歴だけだよ」
細い指で私の胸のあたりをトントンと叩く真似をして、彼女は照れ臭そうに笑う。
「今日は昨日より、もっといろいろ分かるとイイね」
その言葉に頷きながら、私は新たな胸のもやもやに、すっきりとした笑顔にはなり切れずにいた。
(『何かがおかしい』のは、今に始まったことじゃないけど……)




